第44話 またひとつ課題の表面化
週末、お昼前の市場は買い物客で活気づいていた。
陽に晒された街路樹の葉が簡易テントの屋根に濃い影を落としていた。
露天の店先には色とりどりの野菜や果物、焼き立てのパンや肉の加工品が並んでいた。
植物の蔓で編んだ買い物籠には、市場で買ったものを入れて歩く。
気ままな時間。
楽しくて、足取りが軽い。
エリーゼさんに手を引かれたトミーがいた。
トミーは半泣き状態でその様子は尋常ではなかった。
「こんにちは。あの、トミーはどうかしたんですか?」
「リザさん。お久しぶりです。何でもないのよ。ほら、トミー泣き止みなさい」
「お、お姉ちゃん、どうしよう…ひっく」
「仕方ないでしょ。もうどうしようもないことなんだから」
えっ?まさか、リリに何かあったの?
「リリが…リリが…うわーん」
えっ?!
本当に、リリに……
真っ青になった。
それは一大事じゃないか。
まさか、あのワガママぽっちゃりボデイのリリが、虹の橋を…
そう考えただけで、鼻の奥がツーンと痛くなり、涙が出そうだ。
溢れそうになる涙を堪えて、トミーに言う
「トミー、リリちゃんは…」
「リリが雄だった」
「そう、リリちゃん最後は雄だったのね…はっ?」
「どうしよう、俺、父ちゃんが雌だって言ったから…リリって…」
一気に涙が引っ込んだ。
ブラウンさん…
「あのひとのちょっとした、いたずらだったのよ」
苦笑するエリーゼさん。
そういえば、そういうところがあったなと思い出した。
ずっと、女の子だって思ってた飼い猫が、実は男の子だったと分かった時の衝撃、確かに地味に凹むわね。
私も雌にしては大きな体格してるなとは思ってたんだけどさ。
「もう名前を覚えちゃったから、いまさら変えてもリリには迷惑よって、言ってはいるんだけどね」
「リリは雄なんだよ、母ちゃん。雄なのにおかしくねぇか?」
トミーが私に聞いてきた。
「う~ん…トミーが気になるなら、リリは普段呼ぶ時の愛称にして、別に正式な名前をつけたらどう?」
「別の?」
「そう。雄らしいかっこいい名前をつけるの」
「そっか…うん。そうする」
途端に機嫌が直るトミー。
泣いたカラスがもう笑う…子どもって単純だな。
エリーゼさんと目が合い、くすっと笑った。
呆れたような表情に笑みを浮かべたエリーゼさんには、ブラウンさんを亡くした頃のような悲壮感はなかった。
二人と別れ、家路へと向かう足取りが軽かった。
「病気だった?」
「ああ。さっき、俺も聞いたばっかりなんだ」
ハンスさんが頭を掻きながら、顔を顰めた。
加入者名簿を繰る。
該当の人物は先月から加入していた。
共済の加入条件に”病気にかかっていないこと”という項目がある。
これに違反していた。
「どうする?」
「……」
加入者名簿をじっと見る。
加入者が減れば、制度そのものが揺らぐ。
けれど――
ここで目を瞑れば、もっと大きく壊れる。
避けたいけど…
「どこか静かに話し合える場所ってありますか?」
私の決断が分かったハンスさんが、商会の応接室を使えるようにしてくれた。
応接室は奥まった場所にあり、来客時には使われない。
話し合いにはハンスさんが同席してくれた。
静まり返った室内に該当の人物が入ってきた。
何で呼ばれたのか分からないようだった。
「なんだい、話したいことって」
私は唾を飲み、発した。
「今回の加入は認められません」
「はあぁつ?!金を納めただろう。金だけとって認められないって、どういうことだよ!」
バン!!と机を叩き、激昂した。
びっくと体が一瞬竦んだ。
「落着けよ。こちらの言い分も聞け」
「ああ、なら聞かせてもらおうじゃないか」
「加入するとき、病気でしたよね?加入時に病気にかかっていないという条件に違反していました。ですので、認められません」
その人の顔が一瞬引き攣った。
「そ、その時は病気だったが、いまは何ともねえんだからいいじゃねぇかよ」
「認められません」
「何でだよ!」
「同じ月に加入された方たちや、既に加入されている方たちとの公平性が取れなくなってしまうからです」
「病気だったことが分からなかったら、そのまま加入できるんだよな。なら、目を瞑ってくれよ。頼む」
「ごめんなさい」
私は頭を下げ、きっぱりと言った。
「加入は一旦、白紙になります」
「お前だけ特別扱いはできない。加入期間が足りずに支払わなかったことを知らないわけじゃないだろう?」
その人はハンスさんの台詞に俯いた。
私はハンスさんと共に席を立ち、応接室を出る。
応接室のドアが静かに閉まった。
またひとつ課題が表面化した。




