第34話 理想と現実
翌朝、いつもの出勤時間より早く商会へ出勤した。
無人の商会は静まり返り、木材と油の混じった匂いがわずかに残っていた。
窓を開けて空気を入れ替える。
台所で淹れたお茶を事務机に置いた。
準備完了。
さあ、やるぞ。
帳簿類の中から目当ての二つの帳簿を探し出した。
前月と今月の出勤日数と勤続年数、棚卸数、納品数を書き出した。
勤めていた会社の退職制度を参考にこの世界の貨幣価値で計算する。
勤続年数十八年分として、二百十六クローネ。
月一クローネがこの世界の平均的な月収なので、年に換算しても問題はないだろう。
お給料は後払いだから、前月の残業代は今月の支払となるはず。帳簿を確認する。前月は六時間、今月は二時間か。となると、十六リンギル。出来高分が四十八リンギルで六十四リンギルと。
基本給を日割り計算し、今月のお給料は三十六リンギル。合わせて、ざっと、二百十七クローネと十二リンギル。
これを満額、遺族へ支払うのは、いくら人のいい商会の主人でも渋るのは火を見るより明らかだ。
落としどころの見極めが難しいな。残業代とお給料は正当な請求額としても、退職金がなぁ···
退職金、 弔慰金制度もないこの世界で支払えというのは無理がある。
···功労金ならいけるか?
算出額は月給の三ヶ月分。
相場としては妥当な範囲だ。
ブラウンさんの場合は職人なので基本給と出来高払い。
基本給で算出するしかないな。
六十六リンギル✕三ヶ月=百九十八リンギル。
一クローネと九十八リンギル。これなら交渉の余地ができる。
残業代等と合わせたら当面は生活できるはず。
私は提案書を作成し始めた。
作成しながら、ふと思った。
あの世界では児童手当も扶養手当があった。ペット手当…。
一部の企業ではあったらしいけど、うちの会社ではなかった。
なんで猫手当がないと労働組合に投書したが、回答はなかったな。
役に立たない組合だ。
作成を終えた頃、商会の店主のポールが出勤してきた。
「おはよう。リザちゃん、今日は早いね」
「おはようございます。あの、今日、相談したいことがあるので、お時間を頂けますか?」
「今日?」
「できれば」
「ふむ…お昼前でいいかい?」
「ありがとうございます」
ポールさんはそのまま、専用の部屋へに向かった。
アンナさんやハンスさん、商会に勤める人たちがおいおい出勤してきた。
いつもの時間が始まった。
纏め上げた提案書を持ち、ポールさんの部屋の前に立つ。
深呼吸。
よし。
ドアを叩き応えを待った。
「開いてるよ」
ポールさんの了承を得て部屋に入った。
「失礼します」
「ああ、リザちゃん。相談だったね。座って、座って」
来客用のソファに座る。
ポールさんが向かいに腰を掛けた。
「それで、相談は?」
話す前に私は一つ息を吸い込んだ。
「ブラウンさんのことです」
「亡くなった?」
私は頷いた。
「ブラウンさんのご遺族に明日にでも残業代を払っていただきたいのですが」
「ああ、それは構わないよ」
第一関門突破。
本題はこれからだ。
「ありがとうございます。それから…」
「なにかな?」
持ってきた提案書を机に広げた。
ポールさんが提案書に視線を落とした。
「これは、商会で働いている人たちに万が一のことがあった場合の遺族への対応です。これにより…」
「ちょっと待ちなさい」
ポールさんからストップがかかった。
「これは私がすることかね?」
「していただきたいと思ってます」
「なぜ?僕には必要性が見えない」
拒絶。
「必要性はあると思います。遺族への対応をすることで安心して働けます」
「それだけかい?労働にはちゃんと対価を払っている。それ以上に払えというのかい」
商会の主だけあり、利を追及する。
「これは目には、見えないメリットもあります」
「どうのような?」
「この提案に記載されているものはまだ、どの商会でもやっていないことです。他の商会との差別化になります。遺族への対応をすることで、安心して働ける場所と働く側にも認識され、優秀な人材が集まりやすくなるのではないでしょうか」
「君の言うことはもっともだ」
「では…」
「理屈は分かる。だが――商売は慈善事業じゃない。採用はできない。商会の負担が大きすぎる。また、優秀な人材が集まるかの実績がない。それに他の商会との軋轢を生み、それにより商売への影響が出てくる可能性がある。以上だ」
膝の上でギュッと手を握りしめた。
ものの見方が違った。
何も言えなかった。
「残業代はすぐに支払おう。他になければこれで相談は終わりだ」
立ち上がって頭を下げた。
部屋を出るとき、ポールさんが
「リザちゃん、理想と現実は違うよ」
理想と現実は違う……
その言葉が、胸の奥に重く沈んだ。




