第32話 悲しい出来事
書状に会った”一切の制約はない”という文言を逆手に取り、私はリザとして住んでいた部屋に銀太を連れて戻った。
あの日の出来事をどう説明しようかと胃を痛めていたが、そこは王城の鶴の一声で詮索無用、玉虫色の決着となった。
権力って怖い。
私の立場は事件に巻き込まれた憐れな女性。
まったくの嘘ではない。
壊したガラス代も弁償した。王城が。
大家さんにお詫びにいくと反対に心配され、物凄く居心地が悪かった。
部屋は以前のまま。
ほっとした。
短い間とはいえ、慣れ親しんだ我が家だ。
銀太用のトイレもそのままだった。
いつものように椅子に座り、お茶に口をつけた。
さて、課された問題をどうするか。
経費を使えないのが痛い。
事業を開始するにも、何をするにも資金は必要だ。
それが無いとなるとねぇ…
一応、最低必需品は購入していいかと、宰相にお伺いの手紙を出した。
宰相からの返事は一言、
却下ー
どケチ宰相め。
ペン一本買えないじゃないか。
銀太が頭を擦りつけてきた。
可愛い。
喉元を撫でると、ゴロゴロと笹鳴き始めた。
銀太を撫でながら書状の条件を思い出した。
出来なかったら銀太だけじゃなく、アルちゃんにまで咎が及ぶなんて…
あの腹黒王太子殿下め。
絶対に失敗できない。
どうするかなぁ……
銀太が、くい、と私の袖を引いた。
見上げる瞳は、何も知らない。
ただ、ここにいるだけでいいとでも言うように。
――守る。
小さく息を吐いた。
「本当に申し訳ございません」
商会の店主のポールさんに私は頭を下げた。
無断欠勤―
社会人として最も信用を失う行為をしてしまったわけで、言い訳は効かない。
これもあの腹黒王太子殿下がと思うと張り倒してやりたい。
「いいよ、理由は聞いているから…大変だったね、お父さん大丈夫だったかい?」
…は?
お叱りを覚悟していたのに、ポールさんから心配をされる。
「びっくりしただろう。寝付いただなんて」
「それは誰から…」
「猫専門店の店主から聞いたよ」
…不覚
どこから漏れたのかと思っていたらあの店からだったのか。
悔しいが、あいつは私の性格を熟知しているとしか言えない。
冷笑を浮かべる王太子殿下の顔が浮かんだ。
心の中で小久保恵子が書類を床に叩きつけている。
「ご心配をおかけしましたが、おかげさまで快癒いたしました」
「あはは、じゃあ安心だね」
「あと百年くらいは、生きるのではと思うくらいです」
憎まれっ子世に憚るだ。
無断欠勤という汚名は免れたが、掌の上で転がされたことに腹立たしさを覚えた。
絶対に達成して、どや顔してやる。
帳簿を付けながら、改めて決心した。
「おっ、リザちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、ブラウンさん」
商会の職人さんで猫好き同志、意気投合した。
たまに余った木材で銀太へおもちゃを作ってくれる気のいいおじさんだ。
猫好きに悪い人はいない。
「銀太はどうしてる?食ってるか?」
「もう丸々してますよ。お腹なんて走るとぶらんぶらん揺れるんですよ」
「うちのリリもそうだ。猫は丸い方がいいよ…コ゚ホッ」
「大丈夫ですか?」
「最近ちょっと咳がな…まあ、すぐ治る」
口をへの字に曲げていう。
「ちょっと痩せました?気をつけてくださいね」
「おうよ。また銀太を撫でなきゃならないからな」
「今度連れてきますね」
「おう。楽しみにしてる」
そう言って、ブラウンさんが片手をあげて去って行った。
その背中は、少しだけ小さく見えた。
気のせいかな……
銀太を連れてきた日、ブラウンさんは来なかった。
「ブラウンさん、ここ、二、三日見かけないですね」
「……一昨日、亡くなったそうだ」
そう答えたハンスさんの声が遠かった。
帳簿の文字が、滲んだ。
やりきれない気持ちのまま仕事を続けていると、
ふと、子どもの姿が目に入った。
その子は商会の入り口付近に立っていた。
四つか五つくらいだろうか、目の大きな男の子だった。
誰かをまっているのか、商会を出入りする人たちを見てはがっくりと俯いていた。
仕事が終わり、商会を出るとその子はまだいた。
「誰か待ってるの?」
「父ちゃん、待ってる」
「お父さん?」
「うん。父ちゃん、ここで職人してんだ…お姉ちゃん、いま仕事忙しいのか?」
「なぜ?」
「父ちゃん、家に帰って来ないんだ。俺もリリも待ってるのにさ」
リリ…ブラウンさん家の猫の名前だ。
「もしかして、きみはブラウンさん家の子?」
「そうだよ。マーク ブラウンは俺の父ちゃんさ」
「そうなんだ……」
次の言葉が出ない。
何と言えばいいのかが分からない。
「ブラウンさん、お父さんは…」
喉が詰まった。
「もう、ここでお仕事はしてないの。…遠くに行ったの…」
それ以上言えなかった。
子どもは泣きもしない。
ただ、じっとこちらを見る。
理解できていない顔。
けれど――どこかで、分かっているような顔。
「うそだぁ。朝、仕事に行って来るって言って出ていったもん」
その一言にいつものように朝、家を出ていったブラウンさんの姿が見えた。
「母ちゃんもさ、父ちゃんが帰って来なくなってから寝てばっかだし。リリも父ちゃんの服の上で寝てるんだ」
「そうなんだ」
「うん。冬になったら父ちゃんとリリと俺で一緒に寝るんだ。そうする暖かいんだ。お姉ちゃん、知ってた?」
知ってる……
リリとこの子を抱えて嬉しそうに寝るブラウンさんの姿が浮かんだ。
でも―
いつもの冬はもう来ない。
胸の奥が、ぎしという音をたてて軋んだ。
痛い。
「母ちゃん、生活できないって…どういうことなんだろう?」
答えられなかった。
その言葉の意味を、この子はまだ知らない。
――知らないままでいいと、思った。
これが現実…
綺麗事じゃない。
あの世界だったら……
籠の中で”にゃぁ”と銀太が鳴いた。
丸い瞳が私を見ていた。
私は拳を握った。
王城から出された条件は”財を一切使わず、国民の生活を安定させること”。
ーやる。
この子とリリのために。
この世界で、生活の安定をさせる「明日が途切れない仕組み」を作る。




