39.5. 時間を止めたい夜――タイムクラッシャー
ここからは、年末にブラック企業団幹部たちが、ボスに呼び出される――その前の話である。
ある日の夜。
やけに静かなブラック企業団の拠点――無機質なデスクとモニターが並ぶ空間で、ひとつだけ青白い光が灯っている。
「……また、ズレてる」
タイムクラッシャーは、画面を睨んだ。
時間圧縮プログラムのログ。
本来なら均一に縮まるはずの“労働時間”が、微妙に乱れている。
ほんの数秒。
けれど、その数秒が――彼女にとっては致命的だった。
マシュマロンファームのきゅうり畑のことが思い出される。あの時、彼女は現場の時間を圧縮したものの、結果的にマシュマロンファームは安価なきゅうりを多く生産したことで、有名になった。
現場の作業員を疲弊させて潰すつもりが、あと一歩のところでスーツ侍・シンゲン達に止められたのだった。
そのため、リベンジとしてもう一度プログラムを見直している。
「前は、こんなに時間がかからなかったのに……」
指先が止まる。
前は。そう、“前は”。
――ずっと隣に、いた。
同じように画面を覗き込んで、少しだけ笑いながら言う声。
『お姉様。ちょっとやりすぎでは?』
「……うるさい」
思わず、口に出していた。
だが返事はない。あるはずもない。
彼女は小さく息を吐き、再び操作パネルに手を置く。
「まだいける……あたしなら」
数値を引き上げる。時間圧縮率、さらに上昇。
もう、失敗するわけにはいかない。
でも、自身の体力が限界に近づいていた。ほぼ毎日遅くまで作業している。
ふっと気が抜けたその瞬間――
カップに入れたばかりのコーヒーが、みるみるうちに冷え、そして色を濁らせた。
「……っ」
鼻をつく異臭。
ほんの数秒の間に、時間が進みすぎたのだ。
「制御……できてない? そんなはずは……!」
再度、パラメータを叩く。
だが画面の数値は、不安定に揺れ続ける。
(まずい……これではボスに)
そのときだった。
「お姉様」
背後から、あの声がした。
はっと振り返るが――誰もいない。
「……気のせい、よね」
それでも、心臓がざわつく。
「お姉様、やりすぎですわ」
今度は、はっきりと聞こえた。
「……バルカー?」
思わず名前を呼ぶ。
だが、そこにいるはずの彼女の姿はない。
ただ、空調の風がカーテンを揺らしているだけだった。
「……幻、よね」
タイムクラッシャーは、目を伏せる。
「そんなのに付き合ってる暇ないの。あたしは……やらなきゃいけないの」
誰に言い聞かせるでもなく、呟く。
「あの子の分まで」
その言葉だけが、やけに重く落ちた。
操作を続ける。
だが――もう指先が、震えていた。
「……なんで」
力が、足りない。
あのときは、もっと自然にできた。
無理なんて、していなかった。
「……あたしひとりじゃ」
その言葉を、飲み込む。
「違う。そんなわけない」
否定するように、強くキーを叩く。
「あたし達を陥れたこの社会が、全部悪い」
そう考えるのは間違いではない。
――でも。
「……あたしがやらなきゃ、誰がやるのよ」
ぽつりと零れた声は、どこか弱かった。
その瞬間、モニターの画面がわずかに歪む。
ノイズだ。
数字の羅列の中に、黒い影のようなものが走る。
『――時間を無駄にするな』
低い声が、空間に響いた。
スピーカーからではない。
頭の奥に直接流れ込むような、不快な音。
「……っ!」
クラッシャーの身体が、びくりと震える。
『効率を上げろ』
『止まるな』
『止まれば、すべて無駄になる』
「……かしこまりました」
そう言って、歯を食いしばる。
「わかってる……そんなの、最初から」
声を押し返すように、モニターを睨む。
ノイズは一瞬だけ強くなり、やがて消えた。
その後、重たい静寂が彼女を包み込む。
時計の音だけが、やけに大きく響く。
カチ、カチ、カチ――
規則正しいはずの音が、どこか歪んで聞こえる。
タイムクラッシャーはゆっくりと顔を上げた。
壁に掛けられた時計を見つめる。
秒針が進むたび、胸の奥が締め付けられる。
「……時間なんて、戻せるなら」
その目は、これまでの彼女ではなく――もう揺れていた。
「戻せるなら……全部、やり直せるのに」
あの瞬間も、あの選択も、あの別れもすべて。
彼女は、静かに拳を握る。
「……待ってて、バルカー」
答えはない。
それでも確かにそこに“彼女”がいるかのように、微笑んだ。
時間圧縮プログラムの電源を切る。
その代わり、彼女は時計に近づいていく。
「今度は、ちゃんとやるから」
時計の音が、わずかに早まる。
手を伸ばすと、秒針がわずかに逆回転した。
カチ、カチ、カチ――
夜は、静かに歪み続けていた。




