第9話 タイガー・リリー
百軒店のサキュバスの館は、昼間は静かだ。ラブホテルだった建物の看板が半分、魔界の字に変わってて、それでも「休憩」の二文字だけは元のまま光ってる。
扉が開いて、リナリーが飛び出してきた。舌足らずな声で、ねこちゃん、ねこちゃん、って泣いて、猫を抱きしめた。後ろでシュンがカメラを回してる。コメント欄『よかった』『保育園の子たち喜んでる』。ほんとに、神南の保育園からボイスメッセージが来た。『おねえちゃん、みせてー!』。約束だったので、猫をカメラに向けた。
男は、あたしの後ろで頭を下げて、宮益坂のほうへ歩いていった。串屋の前で、ミノタウロスが手を振ってた。
さて。
「あんた、なんで黙ってたわけ」
リナリーが、顔を上げた。
その顔が、変わってた。泣いてない。舌足らずじゃない。口の端が、ゆっくり上がる。
「だって、あかりさん有名だもの」
声が、ワントーン低い。大人の声。
「腕試ししてみたくなっちゃって。あ、でもこの子が逃げちゃったのはほんとよ」
「……」
「怒ってる?」
「呆れてる」
猫が、女の腕の中でごろごろ言ってる。トラを、猫って言って、あたしに探させた女。
「トラ飼ってるくせに、かわいい系で押し通すって。あんた、ナイトクラブでもやったら? 店の名前はタイガーリナリーね」
「タイガーリナリー」
「冗談だよ」
リナリーは、ちょっと目を丸くして、それから笑った。冗談を、冗談として聞いてない顔で。
「いいわね。それ、もらうわ。また依頼するかもしれないから、覚えておいて」
「もらわなくていいんだけど。……ねえ、あんた、あの仲介者と知り合い?」
「さあ。センター街の人、みんな顔が広いから」
答えになってない。
「謝礼。まかない、って言ったよね」
「厨房に言っておくわ。今度、好きなだけ食べにいらっしゃい」
「そうだ。その子、あなたにあげましょうか。ずいぶんなついてるみたいだし」
「いらないし。飼うとか無理だから」
「あら」
「あたし、懐かれるの慣れてないんだよね」
リナリーは笑って、扉の奥に消えた。いつの間にか口調も変わってる。リナリーが本名かどうかもわからない。でも、ごはんの約束だけ、ちゃんと取った。
なんかやりづらいな。でも同類の匂いを感じる。仮面かぶってるやつ同士の。
「令嬢。今の人、最初から泣いてなかったですよ」
「気づいてたなら言って」
「言ったら、乗らないと思って」
「乗ったよ。全部」
帰り道、亀裂の縁を通った。下から風が上がってきて、朝より匂いが濃くなってる気がした。
シュンがカメラを下ろした。配信はまだ切ってない。今日の視聴者は、最大で二千人まで伸びた。
ハチ公の台座に、朝はなかった紙が貼ってあった。
『渋谷区からのお知らせ
区内の地下区域への立ち入りは、条例により禁止されています。区民の皆さまの安全確保のため、ご協力をお願いいたします。
このような行為を見かけた方は、下記の窓口までご通報ください。謝礼あり。
渋谷区 まちづくり推進部 ガーディアン課』
誰の名前も書いてない。似顔絵もない。ただの、お知らせ。
「区役所、まだあったんだ」
「令嬢、これ……」
「知らない人の話でしょ」
ふと、視線を感じた。振り向いても誰もいない。谷の奥が、暗いだけだ。
でも、何かに見られてる。
あたしはその暗がりに向かって、ちいさく笑った。
「見てるんでしょ、あんた」
返事はなかった。
足元で、みゃ、と音がした。
見下ろすと、百軒店に置いてきたはずの猫が、あたしの靴の横に座ってた。
「……帰りな」
動かない。前足を揃えて、あたしを見上げてる。
「リナリーに怒られるし」
動かない。
しょうがないので、道玄坂のほうへ歩きだした。ついてくる。
「令嬢、それ猫じゃないですよね。剣歯虎ですよね」
「猫だって言われたし」
「言われたら猫なんですか」
「じゃ、あんたはタイガー・リリーね」
「聞いてます?」
配信を切る直前、コメント欄に依頼が二件、同時に飛び込んできた。
『万引き犯を占ってください。うちの常連です』
『置き忘れた店を占ってください。あたしは盗ってません』
「……同じ店の話じゃん、これ」
「なんか揉めてますね」
足元で、みゃ、と鳴いた。
「ね。あんたもそう思うっしょ」
尻尾が、あたしの脚に一周巻きついた。
あたしの渋谷ダンジョンライフは今日も楽しい!




