第6話 ここから先はVIP会員だけ
吠え声が谷の壁に何度も跳ね返って、上のほうへ抜けていった。
後ろで、どさっと音がした。振り返らなくてもわかる。シュンだ。
「ちょっと、こんなとこで寝んなし。……あーもう」
あたしが声をかけても、シュンからの返事はない。宣言どおり、役に立たなかった。
その手からカメラが転がって、横向きに倒れてる。レンズの先には、崖の壁の「使用禁止」の看板。
画面の端をコメントが流れていく。『映像止まった?』『音だけ聞こえる』『え、なんの音』
あたしは転がったカメラを自分に寄せた。
「ここから先はVIP会員だけだよー」
言うだけ言って、カメラを置いて、前に出る。
そのとき、スマホからちいさな声が流れた。ボイスメッセージ。神南の保育園の子たち。
『あかりおねえちゃん、がんばってー』
タイミング良すぎ。泣ける。帰ったら遊んであげるからね。
トラが前足を振った。男の頭の上を、爪が通る。
爪が通るのが、振られる〇・五秒前に見えた。
目の前の景色に、これから起きる景色が薄く重なって見える。数秒ぶんだけで、音は遅れて届く。占いで使ってる「遠くを見る目」とは別の、もうひとつの目だ。
重なった景色の中で、この数秒に起きることが、全部見えた。
爪が男の頭を掠める。のけぞった男が尻餅をついて、崩れた棚の角に後頭部を打つ。倒れた棚から缶が落ちて、伸びたままのシュンの頭に当たる。壊れた檻の破片が跳ねて、猫の後ろ足に刺さる。地面に置いたカップが倒れて、転がったカメラのレンズを濡らす。
これ全部、まだ起きてない出来事。これから数秒で起きることを、もうひとつの目が先に見せてくれる。
「——やっぱあたしの千里眼、便利なんだよねー」
男の襟を掴んで、引いた。爪が空を切る。
棚は、倒れる前にこっちから蹴って倒した。落ちる缶の下に足を差し込んで、甲で受ける。男は段ボールと古雑誌の束の上に落ちた。埃がぶわっと上がる。かわいそう。でも無事。
跳ねた檻の破片は、掴んだ。掌が切れる。猫の後ろ足よりは、あたしの掌のほうがいい。
シュンは動かせないから、カップのほうを先に起こしておいた。
これで、ここで怪我するやつはいなくなった。あたし以外。
トラがもう一回吠えて、今度はあたしを見た。
この目、知ってる。城の裏の檻に、こういう大きな猫が何頭もいた。飾りみたいに飼われてて、人が近づくたびに、こういう目をしてた。
怯えてる。怖いんだ。追い詰められて、大きくなっただけ。
「大丈夫」
低い声のまま、言った。
「もう、誰もあんたを押さえつけない」
トラの前足が、もう一回出る。出る前に、あたしはその足の内側に入ってた。喉の下。猫が撫でられると気持ちいいところ。
そこを、撫でた。
トラが、変な声を出した。ぐるる、から、にゃ、に寄った声。
「はい、おしまーい」
いつもの声に戻して、笑った。
『え』『今なにが起きた』『声だけで草』『怖い』『すごい』『これやらせだろ』『やらせでもいい、続き』
その中に、一つだけ混じってた。
『さっきの声、あかりちゃんの声じゃなくない?』
「チャッピーが喉につっかえただけだしー。気にすんなしー」
賛否両論。よし。半分がやらせだと思ってるうちは、誰もあたしを本気にしない。それでいい。
掌から血が一滴、乾いたアスファルトに落ちた。




