第5話 その子、見逃してくれない?
亀裂の中は、思ったより明るかった。
明るいのが、まず気持ち悪い。光源がどこにもないのに、壁がぼうっと白い。
割れたアスファルトが階段みたいに段になってて、下るほど看板の字が古くなる。「たそがれ喫茶」「本日入荷」「使用禁止」。時代のばらばらな字が、同じ壁に重なって貼られてる。占いで見えた景色、そのまま。読めない字も混じってた。占いのときは、そこだけ見えてなかった。あたしの国の字でもない。
「これ、何年分が重なってるんです?」
「知らない。数えだしたら、たぶん足止まる」
「その理屈、初めて聞きました」
シュンの声が、いつもより高い。
三十分下って、まだ底が見えない。途中で、ザイルが一本、上から垂れてるのを通り過ぎた。先が切れてる。切れた先は、どこにもなかった。
もう少し行くと、荷物が散らばってた。潰れた水筒。片方だけの手袋。名前を書いたテープが貼ってあるヘルメット。誰のかは、読まない。ヘルメットの天辺に、太い爪の跡が三本。
上から差してた光が、途中で色を変えた。昼の白から、夕方みたいな黄色に。時計を見る。まだ朝の十時。
「シュン、あんたの時計、いま何時?」
「十時二分。……なんで聞くんですか」
「なんでもない」
頭の上を、なにか大きいものが通った。羽の音。風で髪を持っていかれる。壁の看板が一枚、めくれて落ちた。
シュンの襟をつかんで、瓦礫の陰に引きずり込む。息を止める。二十秒。
羽の音が、遠ざかった。
「……今の」
「見なくていい。見たら降りられなくなるから」
シュンが頷いた。顔が白い。カメラだけは、律儀に構えてる。
遠くで、電車の音がした。地下鉄は、街が飲まれた日から一本も走ってない。
「聞こえました?」
「聞こえてないし」
「そういう顔じゃないです」
段が途切れて、平らなところに出たのは、それから十分後だった。底じゃないな、これ。風の抜け方がちがう。下、まだある。
崩れたコンビニの脇。瓦礫と壁で行き止まりになった隅に、イラストと同じ丸い顔の猫がいた。毛を逆立てて、逃げ道を探して、見つからなくて。かわいい。ちゃんとかわいいじゃん。こんなところに、丸ごと場違いだった。
その隅を塞ぐように、男がひとり。作業着。手に、見慣れない筒みたいなものを構えてる。先っぽが青く光ってて、猫のほうに向いてた。足元には、口を開けた金網の檻。
よし。
「こんにちはー。その子、うちの依頼なんだけど」
男が振り向いた。三十代の後半くらい。顔色が悪い。そして、街で見た顔だった。
「宮益坂のカフェの、常連さんですよね」
シュンが小声で言う。地味に記憶力がいい。
「いつも窓際で、ホット一択の人だ」
「令嬢、それ本人の前で言います?」
男は答えなかった。
「その子、見逃してくれない? 生ミルクティー代出すよ。串券も、五枚」
「いらねえ」
作業着の胸ポケットから、折りたたんだ紙が覗いてた。何度も開いた跡がある。
「じゃあ、なんか困ってるなら言って。こっち、そういうの得意だから」
笑顔。あたし、こういうとき、ちゃんと笑える。
男は笑わなかった。
「お前に何がわかる。ギャルが、遊びで撮ってるだけだろ」
「うーん、遊びじゃないんだけど」
「これしかねえんだよ!」
叫んで、男は猫に飛びついた。筒は使わなかった。使い方が分からなかったのかもしれない。首根っこを掴んで、持ち上げて、足元に置いてあった檻に押し込もうとする。
猫が暴れた。前足が空を掻いて、男の手の甲に線を引く。男は舌打ちして、空いた手で猫の頭を檻の底に押しつけた。そのまま膝で蓋を押さえる。
猫の爪が、網を掻く音。
その音、知ってる。
逃げて、捕まって、連れ戻されるときの音だ。城へ戻る馬車の窓を、あたしも同じ手つきで掻いた。九十九回。誰も開けてくれなかった。
音が消えた。コメント欄の流れが、目に入らなくなった。生ミルクティーのカップを地面に置く。ゆっくり。
「——開けなさい」
ギャルの声じゃなかった。城で出してた声。これを出すと、誰であっても手を止めて、膝をついた。三千年、一度も外したことがない。
男の腕が止まる。止まったのは、あたしのせいじゃなかった。
猫が、膨らんだ。
檻がみしりと鳴って、蝶番が飛んだ。男が尻餅をつく。丸い目が縦に裂けて、金色になる。毛が逆立って、そのまま止まらない。腕、背中、尾。男の手が届かないところまで、体が大きくなって。
牙。
上の牙が、口の外まで伸びた。顎より長い。閉じられない口の端から、息が白く漏れる。
前足が地面に降りた。割れたアスファルトに、線が三本。
さっき通り過ぎた、ヘルメットの傷と同じ幅。ただし、あっちの傷は、ずっと古い。
コンビニの屋根くらいの高さで、トラが吠えた。
壁の看板が、一枚、はがれて落ちた。「本日入荷」。




