第4話 亀裂の縁まで
リナリーの紫の目は、たぶん見間違いってことにしといた。追及したら逃げるタイプの目だったし、いま逃げられると猫が困る。
「で、謝礼は?」
「館の、まかない……」
やった。サキュバスの館のごはんは、渋谷でいちばんおいしいって噂。即決した。
リナリーは、ぺこりと頭を下げて、百軒店のほうへ帰っていった。歩き方まで舌足らずだった。
「お金の話、一回もしなかったですね」
シュンが三脚をたたみながら言った。
「お金でおいしいもの買うより、おいしいものを直接もらうほうが早いじゃん」
「令嬢の経済観念、毎回それですね」
「お金はあったよ。城にも、下の街にも。でも、お金がないから飯が食えない、って奴はいなかった。こっち来て、いちばん驚いたのそれ。お金が間に入ると、急に誰かが食えなくなるじゃん」
「魔界の話されると、こっちは何も言えないんですよ」
机をたたむ。今日は出張。
道玄坂を下る。串屋のミノタウロスが炭をあおぎながら、「あかりちゃん、最近、ガーディアンがうろついてるぞ」と教えてくれた。あーね、と返しておく。ガーディアンってなに。
「あと、串、一本で串券一枚半にしていい?」
「炭が余ってんでしょ。運び手がいなくて、店まで下ろせてないだけ。値上げは通るけど、一枚半は半端で払いにくいから、二本で三枚にしなよ。二本まとめて焼けば、そのぶん火を落とす時間ができる。炭が保つ」
「……なんで知ってんだ」
「見えるから」
ミノタウロスは黙って、看板の字を書き換えた。二本で三枚。
「ガーディアンのこと、聞かないんですか」
「聞いてもどうせ教えてくれないから、雰囲気だけ覚えとく」
「雰囲気で生きてますね」
坂の途中、フェンスの向こうから声がした。神南の保育園がこっちに避難してきてて、園庭代わりに使ってる駐車場。子どもたちが金網に指をひっかけて、こっちを見てる。
「おねえちゃん、きょうは、なにさがすのー?」
「ねこ。かわいいやつ」
「みつけたら、みせてー!」
「あいよ」
『子どもたちの情報網が一番早い』『園児コメントすな』
コメント欄が流れる。『猫かわいい』『今日も生ミルクティーで草』『ハチ公映して』。またそれ。空っぽの台座を、今日も映しておいた。
スクランブル交差点。信号が全部同時に青になったまま、真ん中がぱっくり割れて谷になってる、あそこ。
近づくと、空気が変わる。信号は全部青のままだけど、横断歩道はもうない。代わりに、谷を渡す吊り橋が何本もかかってる。渡る人はちゃんといて、キャリーカートを引いたゴブリンとすれ違った。板がぎしぎし鳴る。手すりは誰かが後から足したやつで、高さがてんでばらばら。
亀裂の縁に立つと、下から古い匂いがした。埃と、電線の焦げた匂いと、それから——なんだろう、これ。渋谷の匂いじゃない。
「じゃ、降りよっか」
あたしが言うと、シュンは機材を背負い直した。人間のくせに、こういうときだけ普通についてくる。
「あんた、こないだ地下街で大ネズミ見て倒れたじゃん」
「あれは寝不足です」
「ふうん」
「令嬢。俺、下でなんかあっても、たぶん役に立たないんで」
「知ってる。カメラだけ回してて」
生ミルクティーを一口。よし。
一歩、亀裂に足をかける。
下から上がってくる風が、いつもより冷たかった。




