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第16話 貸し

 声が先に来て、姿はあとから来た。


 腕章の男女が先に降りてきて、階段のいちばん下で並んで止まった。手をだらんと下げたまま、道を塞いでる。


 その後ろから、もう一人。姿より先に、甘い香水の匂いが降りてきた。


 区役所のグレーのスーツなのに、体にぴったり合ってる。ゆるめたネクタイの上に、細いシルバーのチェーン。明るいアッシュの髪は、前髪を上げてきれいに流してあった。男は、二人の二段上で止まった。


「あかりちゃんでしょ。配信見てるよ。ってか区役所みんな見てる。休憩室で」


 なにこの人。軽すぎじゃん。どこまで本気か、ぜんぜん読めない。


 あたしが一歩前に出ると、男は一歩、階段を上がった。


 距離が、変わらない。


 男は二段上で笑ったまま言った。「置いたね、さっき。カップ」


「……は?」


「生ミルクティー。床に置く音。あのあとに声が変わるんだよね、毎回。音だけの回、全部そう」


 男がスマホを軽く振った。画面には、あたしの配信が映ってた。カメラが床に転がったままの、真っ暗で音だけの配信だ。


「降りてくる途中も、ずっと聞いてた。いい声だったよ、さっきの」


 ふうん。ずっと、聞いてたんだ。


 男はスマホをポケットに戻した。


「あ、そうだ。こないだの回の前髪、よかったよ。あかりちゃん、ああいうの似合う」


 笑ってる。目尻だけが下がって、目の奥は動いてない。


「でも、それはうちのだから」


 同じ声のまま、お父さんのほうをあごで指した。お父さんの顔は見ないで。


「人のこと、うちのって言う男、いちばんモテないやつだよ」


「よく言われる」


「勝手に連れ出しちゃ困るんだよね」


 男はそう言いながら、座りこんだ班長を見下ろして、腕章の女に聞いた。「これ、まだ使える?」


 女がうなずくと、男は「じゃ、いいや」と言った。


「通して」とあたしは言った。


「えー」


「通して」


「困るんだって」


 三回目の「通して」は、言わなかった。


 あたしは数秒先を見た。女の人を抜いて、男の人を抜いて、階段を駆け上がって、この人の襟をつかむ。二人は構えないし、よけもしない。倒せる。


 でも、襟をつかんだその先で、この人は同じ顔で言う。うちのだから、と。


 別の先も見た。襟を取らずに、凪の手を引いて駆け上がる先。シュンを担いで走る先。


 どの先にも、この人が残ってた。


 カップに伸ばしかけてた手を、自分で下ろした。


「うん」


 男の声は、何も変わらなかった。


 男は、爪のきれいに整った長い指で、上着から黒くて薄い手帳を出した。ページをめくる。


「一件目、六月」


「……なに」


「二件目、八月」


 六月も八月も、知らない。……はず。


「三件目、今日。……でも、いいよ。通す」


 男は凪のほうを見た。はじめて、凪だけを。


「三十七番、返してほしい? じゃ、お願いして」


 凪の口が開いた。


「書いて。城育ちなんで、借りは踏み倒さないから」


 凪が何か言うより先に、あたしが言った。この子にお願いさせるくらいなら、あたしが借りる。


 男の目が、ほんの少しだけ動いた。「はやいね。助かる」


 ペンのキャップを口で外して、書いた。「貸しね」


 あたしは、男の手帳をにらんだ。「それ、利子つかないやつだよね」


「つけないよ。優しいから、俺」


 次は、あたしが貸しをつけてやる。


 男は、凪に言った。「お礼は?」


 凪がお父さんを見た。お父さんは、何も言えなかった。


 凪が小さく頭を下げた。「……ありがとうございます」


「うん」


 男は階段を上がりかけて、一度だけ振り返った。


「串屋の人さ、謝礼出るのに通報しないんだよね。なんで?」


 本当に分からない顔だった。誰も答えなかった。


 その笑い方を、あたしは知ってた。新宿のホストクラブで、何回も見た笑い方だ。


「……凍夜?」


 口が勝手に動いた。男の動きが、一瞬だけ止まった。


「んー? 誰それ。いい男?」


 もう何もなかった顔で、スマホを見た。「あ、五時」


 慣れた手つきで、手帳を胸ポケットにしまう。


「補充するし。三十七番のとこ」


 誰にともなく言って、階段を上がっていく。振り返らない。


 階段の上から、声だけが降ってきた。


「明日も机、出すんでしょ」


 足音が消えた。腕章の二人が、横にずれた。階段が空いた。


 後ろで、シュンが起きた。


「……令嬢、今の」


「寝てていいよ」


 負けた。たぶん、生まれて初めて。めちゃくちゃムカつく。でも、通れる。


 お父さんの手を取った。ごつごつしてた。お父さんが凪の手を取って、凪がシュンの手を取った。四人と一匹で、階段の一段目に足をかけた。


 今度は、ちゃんと上がれた。


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