第17話 串券
凪の家は、道玄坂の裏の、古いアパートの二階だった。
お父さんは台所に立って、お椀を洗ってた。洗い終わって、もう一回洗ってた。半年ぶりの家で、手の置き場が見つからない背中だった。
凪はテーブルについて、その背中を見てた。
「謝礼」と言って、凪がテーブルに紙の束を置いた。輪ゴムでとめた、串券の束だった。
「これしかない」
「これ、串屋の?」
「毎日、一枚くれた。入口に立ってると、通りがけに。使わなかった」
「なんで」
「父さんと使うつもりだったから」
あたしは数えなかった。数えたら負けな気がした。
いちばん上の一枚だけ取った。
「一枚でいい。残りは二人で使うやつだよね」
凪の顔が動いた。半年、爪を噛んでこらえてたものが、そこであふれた。声は出さなかった。ただ、ぼろぼろ落ちた。
台所の水が止まった。お父さんは振り向かなかった。振り向かないでいてくれた。
あたしは泣かない。今日は、この子の番。かわりに手を取った。冷たくなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。台所の蛇口から、しずくが一つ落ちた。
「明日も、立つの? 入口」
凪は首を振った。「……もう、いいから」
「じゃ、あの机どうすんの」
「片づけた」
「えー。脚だけ直せば、まだ使えたのに」
凪が、はじめて少しだけ笑った。笑うと、お父さんに似てるじゃん。
玄関で、お父さんがはじめてあたしに頭を下げた。
「あかりさん。ヘルメット、持って帰ってきてくれて」
「拾ったの、この子だから。あたしは手、引いただけ」
外に出たら、坂の上の空が、もう暗くなりかけてた。帰り道、串屋の前で、ミノタウロスが炭をあおいでた。
「ハチ公の紙、新しくなってたぞ」
「見た?」
「見てねえよ。俺が見る用の紙じゃねえ」
階段で、あの男が言ったことを思い出した。串屋の人さ、謝礼出るのに通報しないんだよね、なんで?
答え、これじゃん。あんたには一生わかんないやつ。
ミノタウロスは炭のほうを見たまま、続けた。「……あの子、今日は立ってなかったな」
あたしは串券を一枚出した。
ミノタウロスは券を見て、あたしを見て、黙って串を二本焼いた。一本はシュンの分。
「令嬢、券一枚で串二本って、計算合ってます?」
「合ってないから、おいしいんでしょ」
シュンは少し考えて、黙って串をかじった。
ハチ公の台座の横は、もう何もなかった。段ボールの机があったところに、ガムテープの切れ端が一つ落ちてた。
貼り紙は、同じ場所にあった。『渋谷区からのお知らせ』で始まる、地下区域への立ち入り禁止の告知だ。文言は、一字も変わってない。
下に、一段だけ増えてた。
『【参考】令和八年九月十一日 午後五時四分頃
当該行為が確認されています。』
その下に、四角いQRコードが印刷されてる。
午後五時四分。あたしが凪のお父さんの手を引いて、階段を上がった時間。
「ふーん」
シュンがスマホを構えて、QRコードを読み取った。そのまま、黙った。
しばらくしてから、シュンが小さく言った。
「……手です。令嬢の手が、誰かの手を引いて、階段を上がってます」
あたしは、画面を見なかった。
「令嬢、これ……」
「なんでもない」
よし。明日も、机は出す。看板の字は、大きめで。
あたしの渋谷ダンジョンライフは今日も楽しい!




