第11話 机の下
袖を引いた。
出てきたのは、黒い革のジャケット。肩のところが白っぽく擦れてる。女の子が「あ」と言った。店主は何も言わなかった。
その奥に、まだある。
串屋のトング。保育園の、小さい靴の片方。ミルキードラゴンのストロー袋を輪ゴムでまとめた束。ネイルサロンのチラシ。誰かのイヤホンの片っぽ。サラダチキンの空パック。どれにも、金色の短い毛がついてた。
膝の上を見る。いつのまにか戻ってきたリリーが、前足を舐めてた。こっちを見ない。
「……あんた」
舐めてる。
「あんたでしょ、これ」
まだ舐めてる。
店主と女の子が、同時にリリーを見た。
「……来なくなった猫」と店主が言った。
「……あの子」と女の子がつぶやいた。
それから二人とも、あたしを見た。
「うちの猫。……昨日から」
言ってから、引っかかった。ジャケットが消えたの、しばらく前だよね。トングも靴も、昨日今日で集まる量じゃない。いちばん奥のチラシなんか、日に焼けて色が抜けてる。
目を閉じて、リリーの足取りをさかのぼる。百軒店の館の裏口から、宇田川町の古着屋の前を通って、この机の下まで。同じ道を、何度も通ってる。
「あんた、うちに来る前から、うちに通ってたんだ」
リリーは返事のかわりに、あたしの手首に頭をこすりつけた。
あたしの千里眼は、探そうと思ったものしか見えない。この子の鼻は、誰も探してないものまで嗅ぎつけて、ここに運んでくる。
「……あんた、わりと優秀じゃん」
百軒店で、リナリーが言ってた。ずいぶんなついてるみたい、って。なついてたんだ。ずっと前から。
「懐かれるの慣れてないって、リナリーに言ったばっかなんだけど」
シュンが、カメラを少しだけ寄せた。
「顔、映ってます」
「うるさ。映さなくていいから」
あたしは、店主と女の子のほうに向き直った。配信のコメントで『悪役令嬢の裁判』って言われたし、最後までやっとく。
「判決。万引きも、置き忘れもなし。犯人はうちの猫。二人とも、無罪」
店主が、女の子のほうを向いた。少し黙ってから、頭を下げた。
「疑って、悪かった」
女の子は目を丸くして、それから小さく首を振った。悪役令嬢って、最後に追放される側なんでしょ。シュンが前にそう言ってた。その悪役令嬢が無罪を言い渡すの、わりと気持ちいいじゃん。
あたしは机の下の物を両腕に抱えて、立ち上がった。持ち主を探しに行こうとしたら、向こうから来た。
「あの、それ」
振り向いたら、串屋のミノタウロスが立ってた。炭の匂い。太い指が、あたしの手元のトングを指してる。
「あかりちゃん、それ、うちのトング。しばらく前から見当たらなくて」
「すみません」
トングを返した。リリーは毛づくろいを続けてる。
「あっ、その靴!」
神南の保育園の先生が、坂を駆け上がってきた。あたしが小さい靴を渡すと、先生はそれを胸に抱えて、なぜか向こうからお礼を言った。
「すみません。うちの子が」と、今度はあたしが頭を下げた。
リリーは、毛づくろいを続けてる。
ミルキードラゴンの店主が、カウンターの奥から長い首を伸ばしてきた。
「あ、その袋。補充のたびに減ってると思ってたんだよね」
「すみません。あとで届けます」
リリーは、まだ毛づくろいを続けてる。
謝るたびに、机の上が軽くなった。最後に残ったのは、ジャケットだけ。
ジャケットを持って、店主に差し出した。
店主はジャケットを受け取って、すぐには畳まなかった。あの削れた爪で、襟から袖、背中まで、ゆっくり生地に触っていく。
長く、黙った。
「……猫の癖、ついた」
「え」
「くわえて、引きずって、下に敷いて寝てる。前の持ち主の癖の上に、それが乗ってる。もう売れねえ」
女の子が、小さく「ごめんなさい」と言った。自分がやったんじゃないのに。
店主は、女の子のほうを向いた。
「バイトしない?」
「……え?」
「この猫、また店に来るだろ。昼、誰か店にいてくれるなら」
女の子はしばらく固まってから、やっと声を出した。
「なんで知ってるんですか。あたしが、ジャケットじゃなくて猫のほうだって」
「毎週、猫だけ見て帰る客、覚えるだろ」
店主はジャケットを小脇に抱えて、宇田川町のほうへ歩きだした。女の子は少し遅れて、その背中を追いかけていった。
膝の上で、リリーが毛づくろいをやめて、あたしを見上げた。褒めてほしそうな顔だった。
「褒めてないから」
リリーはもう、こっちを見てなかった。二人が消えた坂の先を、耳を立てて、じっと見てた。




