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脳がチリチリと焦げ付いている。心臓が真っ黒に染まってしまったようだ。取り返しのつかない絶望に神経という神経が痛みの信号を発している。
怖い。
それが一番近い感情だった。
テツジは、うららがいないのが怖かった。
殺されたのが怖かった。
犯されたのが怖かった。
どんな気持ちだったか想像するのが、とてつもなく恐ろしかった。
〝ただ犯されて、殺される……そうやって死んだ人が、この世にいる……〟
脳内に、凪の言葉が木霊する。
(そうだよ……僕も、知ってたはずなんだ)
男の下半身が顔に迫る、そこから目を逸らすこともできないまま、テツジはようやく、すべてを理解した。
これは本当に、なんでもない。
ただの強姦殺人だ。
〝恐怖への抗い方を、俺は殺意しか知らない〟
低く、深い、闇のような、凪の言葉。
メモリを上げるように、その声が段々と大きくなって……。
遠くで環境音のように鳴り続けていた銃声もまた、明らかに近づいていた。
センターのすぐ横とも思えるほど近くで起きた3発の発射音。テツジとレイパーが同時にそれに気がつき、入口のアーチを見た。
浅川凪が、奴隷たちとともにそこから中を覗いていた。
この世で最も性犯罪を憎む男の目が、灰色に光っている。
「ひえっ……」
情けない声を上げ、男は慌てて胸ポケットから何かを取り出し、恐らくは指にはめた。
ふっと溶けるようにその姿が消失する。
(ふざけるな……っ!)
テツジは動けない。喋ることもできない。
だが当然、許すこともできない。
あまりの悔しさに視界が澱み始めていた彼の体に、突然、強烈な血しぶきが降り掛かった。
凪が、(おそらく)奴隷の一体を破裂させて血を撒き散らしていた。
その血が消える不可解な領域が、一瞬だけ浮かび上がる。
銃声一つ。
弾が弾けた場所に、凪は虎よりも素早く飛びかかった。
何かを掴む。
瞬間、テツジの首に巻き付いていた首輪が外れ、彼は「うぁー……っ!」と不明瞭な呻きを発した。
すぐに動くことはできなかった。
安心、虚脱、憤怒、絶望……どれも彼の現状を説明するには言葉が足りない。信じられないくらいに流れていた汗が全て乾いて、体が熱病にあてられたように魘されている。うまく呼吸ができないまま、テツジは震える自分の体を抱きしめていた。
視界の端で、凪が捕んだ男に何かを話させている。その内容もうまく聞き取れない。
(終わった……?)
考える。
(……何が?)
どれくらい経ったか——1分も経っていなかったのかもしれないが、ともかく凪が、台の前に立った。普段は彼が手術台として使っている大理石、その上に横たわるうららの死体を、彼はじっと見下ろしていた。きっとミシェルの亡骸も……。
舌を出して、目を閉じた、ミシェルの顔が見えた。
瞬間、胃酸が逆流し、テツジはその場に嘔吐した。
げえげえと咳き込んだそれで、ようやく体に酸素が回る。
(なんで……どうして…………)
顔に、影。
凪が、テツジの前にいた。
うららを殺した男の首を掴み、彼に向けて突き出している。銃弾が当たったであろう男の右足は骨と肉腫で止血され、両腕は降参を示すように無意味に広げさせられていた。
改めて男を見る。
伸び放題のヒゲと髪と、汚い肌をした痩せた男。背丈はテツジとあまり変わらない。息が臭い、ただの浮浪者である。
「お前は、何をした」
凪の声。
男は唾を飲んで、語り始めた。
「こ、こここ、この子、を、れ、レイプしてころ、殺しました……」
「……なぜ?」
「だ、だって! だってだって! めっちゃ可愛かったからぁあぁ……ひとりじめなんてずりいよぇ……」
「なぜ、殺した?」
「こ、怖かったから! だ、だってこんな魔法使ったことないし! 時間切れとかあったら、こ、殺されるかもってお、おも、思って! ホントは殺す気とかなかったんですけど、勢い、いきおいなんです!! でもどうせこの島は沈むし、いいかなって、お、おお思っちゃって!」
男は鼻をすする。本気で怯えて泣いている。
「あ、あ、あんな地震、こんな島ひとたまりもねえよぉ! だったら死ぬ前に犯りてえ女犯っとかないと損じゃねえですか! あんな可愛い子みんなでやろうよぉ……ねえ……うぅ、くそ、わかんねえだろうなあお前らイケメンには!! う、ああ、で、で、死ぬ前に死ぬ前にって思いながらチューしてたら、なんか、か、かか、噛んじゃって! こんなかわいい顔もったいねえって思ったけど、でも一回噛んじまったから止まんなくて! こんなの初めてです! 俺もそんな性癖あったなんて知らなかった!!」
凪の口が、ゆっくり動く。
「愉しかったか?」
「わかんねえよぉ……だって、急がなきゃ急がなきゃって思ってたから……でも、でも、でも………」
「…………」
「あとは、お、おっぱいが普通だったらよかったのになぁ……って…………」
「……なぜ、犬も殺した?」
「そ、そんなの急に入ってきてビックリしたからで……」
ミシェルは、人を襲えない。
(僕の……せい?)
本気でそう思ったわけではない。
だがその言葉が脳裏をよぎったとき、彼の頭の中で何かが切れた。
今まで感じたことのない力に体が突き動かされる。
気がつけば、足元に落ちていた剣を手に取り、その刃を男の肩口に押し当てていた。
腕が震える。
ズルっと男の肩から血が流れた。
「ひっ……や……」
「喋るな」
凪の言葉に、男は口を噤む。
「…………っ」
「テツジ」
彼の名を呼びかける凪の声は、立入禁止を告げる警邏のように、不気味なほど平静だった。
「前にも、こういうことがあったな。覚えてるだろ? 前にもこういうやつの話を聞いた。そうだな?」
「…………」
「気持ちは、あの時と一緒か?」
袈裟斬りに、男の体に血が滲む。きっと一押しで、真っ二つにできる。
「あの時俺は、俺の何が間違えているのかを聞いた。今でも答えは同じか?」
「…………」
「殺せば、足りそうか?」
「…………」
「どうなんだ、テツジ」
「…………」
「テツジ……」
初めて、声が震えた。
テツジはゆっくりと視線を上げる。
彼を見下ろす凪の、揺光に照らされた表情は、いつものあの狂戦士そのものな怒りの形相ではなかった。
「俺がやるよ」
泣きそうな目で彼は言う。
「わかるよ……ひっでえ気分だよな。こんなのってないだろ。許せねえ、許せるわけがない。だが、どうしていいかわからないだろ。本当は俺だってそうなんだ」
「…………」
「テツジ」
「…………」
「俺は、やれる。必ずやり遂げる。やり遂げてきた。お前がやるより残酷に、お前がやるより完璧に、お前が望むより執拗に、俺は、お前の恋人を殺した性犯罪者を、やれる限りやり尽くす。お前はやらなくていいんだ」
「…………」
「俺は……間違えてるんだろう?」
凪の声は震えていた。本当に哀願するような調子だった。
「それでいいんだ。お前は間違えなくていい。お前は迷わなくていい。俺は、たとえお前が望まなくともそいつを殺す。殺すから……」
「……」
「俺は、うららの……お前の、味方だ」
「…………」
テツジは、刃を男に向けたまま、ゆっくり首を動かし、周囲に目を向けた。
比較的改造の薄い、人の形を保った奴隷たちが何十人も、三人を囲い込んでいる。
彼らの顔と表情を、テツジは久しぶりに意識した。
いつの間にか、できるだけ見ないようにしていた。こんな奴らいないと思っていた。
全員、普通の日本人だ。際立って目立つこともない。老若も入り混じっている。銭湯にいた男たちを無理やり引きずり出してきたような、暗く緊張した表情をしているだけの、当たり前の男たち。
彼らは今、何を思っているか……。
〝かわいそう〟
とか、
〝やりすぎだ〟
そして、
〝もったいない……〟
ブンッと、テツジは剣を振った。
男の鼻が斬り落とされ、悲鳴が上がる。
なんて……無駄な行為だろうか。
心など全く晴れない。涙一滴、汗一滴乾かない。
それなのに……。
うらら、
ミシェル、
どうして……。
「凪さん……」
テツジは、灰のように真っ黒な精神で、呟いた。
「やっぱり……あなたは、必要だ」




