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「慌てすぎないでください!」
「持ち物は置いて!」
「とにかく速やかに高いところへ逃げてください!」
新月機関が大きな声で、丘の上まで避難する町の人々を導いている。整然としたみごとな集団行動だった。クロエという超速理解者がこの世界にいてくれて本当に助かったとテツジは思う。海辺で体験する強震など、被災しているいないに関わらず全ての日本人のトラウマである。幸いにしてまだ夕日は沈んでおらず、視界が通らないほど暗くはない。
テツジはツヴァイヘンダーを背負い、(その方がなぜか早く走れるのだ)、誘導する新月機関や町人たちよりひと足早くセンター向こうの丘の頂上まで駆け上がっていた。いつか射撃練習をしていたあの丘だ。もちろんいち早く逃げたかったからとかではなく、そこに凪がいるのが見えたからである。
「凪さん!」
凪は海を見ていた。表情がわかるほどの明るさはないが、彼は夜目が効く。眼下では道標代わりに立っている新月機関が光晶を持って並んでおり、その白い灯りが点々と揺れているのが見える。テツジとしては「足が速い方だから」と下の方を担当しているうららのことがどうしても気になってしまった。
「……本当に津波が来ると思うか? テツジ」
凪の声も心なし緊張しているようだ。
「あの震災のときは、津波の到達まで1時間くらいかかった場所もあったそうです」
「祭りの準備でほとんど全員が外にいたのは幸いだったかもな」
「同感です。海面に変化はありますか?」
「うーむ、今のところあまり変わら……」
声が、ぶつ切りに途切れた。
「どうしたんですか?」
「……まずい」舌打ちした。
「え?」
「ムカデの体積が急激に減っている」
ゾワッと、嫌な感覚がテツジの背に走った。この丘は人類の生存圏と危険地帯の境目だ。既に丘の上には町人たちが少しずつ到着し始めている。
「近くの……ダンジョンですか?」
「全部のダンジョンだ。今の地震で孔自体が壊れたのか? だが全部ってのは……ああ、クソ、まさかこれは地震じゃなくてそもそも……」
宵口の帷に、突如、低く嘶きが響いた。狼のようだった。テツジは瞬時に、初日のダンジョン攻略で見たあの巨大なボスモンスターの姿を思い浮かべる。
ぐぉーっ、鈍い音が続く。
あらゆる方向から立て続けに。
『ブーブークッション』の音だった。
急ぎ丘を上っていた町人たちのざわめきが、一瞬にして静まり返る。気がつけば海の向こうにわずか見えていた最後の橙色も沈んでいて、世界に夜が降っていた。
辺りに濃密な〝死〟の気配が垂れ込めたような、そんな雰囲気だった。
「クロエ!! リタ!!」
絶望を引き裂くように、凪が叫ぶ。
呼ばれた二人は言われるまでもなく凪の側に駆け寄ってきていた。
「新月機関は急いで集合し全員ここで町人を守れ! 俺は……」
一瞬リタを見て、頷く。
「俺とリタは、行く!! 耳を塞げ!!」
唐突に銃を両手で構え、空に向けて撃ち込んだ。
耳をつんざく爆音。
火薬と月明かりが、遥か空の彼方で射抜かれたものの輪郭を刹那の間だけ揺らめかせた。恐らくはあの竜である。
それが、鬨の音だった。
銃声を合図にしたように、ガタガタと世界が揺れ始めた。先程の地震とは質が違う、ドボドボと湿気ったような震動が不規則に幾つも重なる。
性犯罪者たちが……およそ千人の奴隷たち全員が、町と丘陵地帯を囲む森の中へと『出撃』していた。センターの中にいた者も屑籠に収容されていた者たちもみな這いずってでも外へと体を投げ出し、丘を囲むようなルートで八方に進軍していく。
まるで蟻の大群のようだった。
光晶を持っているかあるいは体に埋め込まれているのか、幾体かの中に混ざる光がまるで鬼火のようにおどろおどろしくシルエットを際立たせる。群れの中にテツジは幾体か、今までは見たことのないような巨大な化け物たちの姿が垣間見た。
それは背に他の性犯罪者を載せた戦象にも見える。
大きな羽らしきものを持つものもいる。
単純に背が高く上半身が異様に太った個体や、長過ぎる槍を持つもの、そして巨大な腕そのものしか言いようのないような奴隷の集合体……。
「間に合って、よかった」
麻痺した耳が少しずつ回復してきた頃、凪がそう呟くのが聞こえた。クロエの持つ灯りに照らされた顔に、生白い傷跡がいくつも光る。
彼は笑っていた。
「……終わらせるおつもりですか?」
クロエが聞いた。こんなときでも彼女の声は冷たい。
「ここは任せる。弓と矢はできる限り運ばせる。テツジも最悪のときは……頼むぞ」
「……はい」
例え覚悟が足りていなかったとしても、そう答える以外にはなかっただろう。あそこまで腹をくくった人間の顔を見てしまっては何も言えない。
これが、浅川凪という男なのだ。
突然飛ばされた異世界で、その世界の勇者に単独で勝利し、そのまま跋扈していた魔物の群れに立ち向かった、この世界の英雄……。
この人がいなければこの世界は終わりだったと、テツジは改めてそう思った。
*
緊張の糸が限界まで張り詰めている。凪とリタは放たれた矢のように夜の森に消えていった。ひっきりなしに続く銃声と男たちの悲鳴は戦いの激しさを物語っているが、今のところ魔物たちが現れる気配はない。
集まった町民たちは、丘のやや下の方でぎゅっと息を潜めていた。本当に、一切誰も喋らない。今のところ津波の気配はないがだからといって町には戻るわけにはいかなかった。津波を体験したことのないこの町の住人がよくぞそのことを理解してくれたと思う。
皆、新月機関を——クロエ・クーリを信じているのだ。
どこかでくしゃみの音がする。何人か薄着で出てきてしまった人が寒さに震えているのだ。それを近くの人や子どもが抱きついて温めている。とても愛おしい光景だ。全ては夥しい量の性犯罪者たちの犠牲の上に成り立っているとしても、守らなければ……。
タタッと、足音がした。
「テツジさんっ!」
うららちゃん……と、口に出しかけて、言葉を飲んだ。走ってきていたのは新月機関の戦闘員・アニーだった。もとから人形のように整いすぎた顔の彼女だが、左手に持つ光晶の白い照明下にあっては本当に人とは思えない。
「テツジさん!」
あまりに耳に馴染まない彼女の叫びに、テツジは剣を持ったまま多少うろたえる。
「ど、どうしました?」
「うららちゃんがいません!」
彼女は言う。
「どこからも声が聞こえないんです!」




