1
本当は、美しい愛の物語が好きだ
それを愛するためには、お前らの存在が邪魔すぎた
*
翌朝だった。うららは凪の館……今は新しい転生者・テツジが使っている家を一人で出た。この島はよく強い風が吹く。少し肌寒くて後悔したが、戻る気にはなれなかった。
遠くに霞む魔王城を一瞬だけ見て、足早に町への道を歩き始める。
息が詰まってる。
胸が死ぬほど痛い。
うららはかつて、最も恨んだ男の声を思い出していた。その男は傲慢で怠惰で最低で、それでいて彼女に対しては妙に優しく語りかけるのを好んでいた。本当に気持ち悪い。
なぜ今、そんなことを思い出してしまっているのか……。
街外れにある大きな切り株のそばに、柵で囲われた小さな区画がある。わずか4羽のニワトリが大切に飼われているその家が普段、うららが住まわせてもらっている場所だった。毎晩帰っているわけではない。
裏口から入ろうとしたら、彼女が手を掛ける前に戸が開いた。寝巻きで髪も乱れたままのアニーがうららを出迎える。足音が聞こえていたのだろう。彼女は新月機関で一番耳が良い。そして恐らく、クロエの次に勘が良い女の子だった。
「……だいじょうぶ?」
アニーの細い声。
うららはしばらく、立ち尽くした。
そして、抱きついた。
アニーの手がすぐに背中に回る。いつものように何も言わない。いつものようにとても優しい。
「……やっちゃった」
声がこぼれた。
涙もこぼれた。
「アニー……私、またやっちゃった……」
*
「どうしたテツジ? 今にもお迎え来そうな顔してるぞ」
「やっちゃい……ました」
焼け残った泥炭地のように黒い声がテツジの喉から爛れ落ちた。この世界に飛ばされた当初にやっていた視察を除けば、私的な理由で凪を訪ねたのは初めてである。
「……うららとなんかあったのか?」
凪はエプロンで血まみれの手を拭う。奴隷改造施設『センター』の手術台に寝ていた男の手にノコギリを渡した。そいつはそれを自分の親指の先に当ててギコギコ切り始める。悲鳴が上がった。
「流石に……ここじゃ話しにくいか」凪は言う。「外へ出よう」
*
「昨日、うららちゃんと、その、お付き合いすることになりまして……」
農地の間を歩きながらテツジは話す。
「それは……俺も死ぬほど嬉しいんだが、それで?」
「……これは、ほんとは人に言っていい話じゃないんですが」前置く。「凪さん以外に話せる人がいないので……聞いて下さい」
「おう」
「昨日は僕、ずっとうららちゃんと一緒にいたんです。本当にずっと一緒に。つまり、その……朝まで」
「うっ……」
「もちろん、僕から言い出したわけはないです。でも、うららちゃんがその気だったというか……ああ、くそっ」
言葉が上手くまとまらない。彼にしては珍しいことだったが、そのまま話す。
「ともかく、僕からしたら少し足早にそうなっちゃったというか……」
「…………」
「大丈夫だと……思ってたんです」
テツジは気落ちしたまま息を吐いた。
「うららちゃんには、胸がない。そんなこと僕には小さな話です。全く些細です。本音を言うと……思ったより全然平気だったくらいなんです。生々しい話で申し訳ないんですが、僕だってこっちの世界に来てからずっと何もなかったし……でも……」
「うん」
テツジはふらふらと俯く。
「うららちゃん自身が、僕の思っていた何倍も、それを負い目に感じてた。それを……見落としてました。最低ですね。うららちゃん、僕に体を見せるの、死ぬほど辛そうで……」
凪の手が、テツジの肩に乗った。無骨で大きな手だった。だが何も言わない。テツジの言葉をずっと待っている。
「うららちゃんは、きっと、そういう恐怖とか全部、振り払いたかったんですよね。だからあんなに急いで……それなのに僕は………………」
「俺が殺したあのクズの影が、見えちまったんだろ」
先を見越した凪の言葉。
テツジは頷いた。
「……わかるよ。よくわかる」肩を強く揺らされる。
「うららちゃん、あんなに息苦しそうだったのに……怖がってるのに……慣れすぎてた。うららちゃん自身がそれをめちゃくちゃ嫌がってる感じがして……それでも、それでもなんとか嫌な記憶を塗り潰そうっていう気迫に、僕、途中で気圧されて……」
「……」
「最悪だ」
立ち止まり、顔を覆った。
「それだけは駄目だった。そうなるのだけは駄目だった。絶対に、それだけは……」
ぐっと肩を抱かれた。
「お前は悪くねえよ」
「うららちゃんが感じてた負い目を……本当に、ハンデにしてしまいました……クソすぎる。終わってる」
「仕方ないって」
「マジ……ありえない。こんなに自己嫌悪したの初めてです」
「口調でわかるよ」凪は少し笑った。「あんま自分責めんなって。恋愛なんてあれだ……割とそんなことばっかりさ」
「…………」
「重症だな」
「……凪さんは、大丈夫だったんですか?」
「うーん、俺の相手はクロエだからな」 凪は語る。「さっきお前は生々しい話なんて言ったが、それってぶっちゃけ、死ぬほど大事な話だろ。ここは現代でもフィクションでもない。テレビだのスマホだの都合のいいスクリーンはないが、生々しい身体だけがずっと手が届く位置にある。たとえ、相手が性犯罪の被害者であってもな。俺なんて本気で去勢しようか検討してたくらいだったんだが……クロエに先手を打たれた」
「……流石ですね」
「クロエは言ったよ。『こんな不具の体でよろしければ』ってな。そんなん言われて誰が引き下がれる? ハハッ……ようするに、手のひらの上だったのさ」
話し込む二人の脇を、裸足のケンタウロスたちが何体か駆け抜けていった。遠隔地で待機している『ブーブークッション』のような改造奴隷たちのもとへ『餌』を運ぶ部隊だろう。
魔物化ができるようになって以降、ケンタウロス兵の数は倍近くに増えた。血液型が合わずともよい上に時間が経った死体と(摂食を経ず)混ぜても問題ないのだ。
左右の農地ではまだ人間の農奴がカブを育てているようだが、ところどころ葉が枯れているのが見えてとれる。同じく反対側から、ケンタウロスが西の牧畜地帯へ持って行く麦カゴを抱えて駆け抜けていった。
「前も言ったがな」凪は言う。「ここにいるレイパーどもと比べりゃお前の後悔なんて罪どころか徳ですらある。お互いに善意しかないんだから、必ず良い結果が待ってるさ」
大きな手が、テツジの頭を撫でた。
「……でも、キツいっす」
「参ったな」
「だって、あんだけ凪さんに啖呵切っておいて、レイプ被害者のトラウマを軽視してたんですよ? クズですよクズ」
「言い方」凪はヒヒヒと笑う。「大丈夫だって。人間関係なんて失敗の連続さ。修復に時間かかることもあるだろうが、それでもお前もうららも……」
タタタと軽い足音がした。
凪と二人で振り返り、ドキリとする。
ケンタウロスや農奴とすれ違い、うららが凄まじい勢いでこちらに向かって走ってきていた。
「テツジさんっ!!」
裏返った叫び声。
「うららちゃん!? え、ど、どどどうし……」
牛のように彼女は彼のもとに飛び込んできた。なんとか受け止めることには成功したが、心臓は火山の噴火よろしく激しく血液を回している。
彼女もひどく興奮していて、
「見てください!」
いきなり自分の服の胸元をぐっと引っ張り、傷跡を見せてきた。
「うわっ!?」
思わず目を反らしかけたが、見てと言われた以上、わけもわからず彼はとにかく目を凝らす。
「え……?」
黒かったはずの切断痕。
薄っすらと、だが明らかに、赤みがかった皮膚が膜を貼り始めていた。




