99.アキラの声(2)
まるで絶望を叫ぶようなアキラの声が英介の耳元で広がった。
その声は静にも、当然佐倉にもよく聞こえた。
英介の顔を見れば、その声が聞こえてこない者たちにもその内容が想像できただろうが、英介も静も、そんな呼び名なんてもうどうでもよかった。
『空飛ぶカァちゃん』だろうが『空飛ぶ間抜け』だろうが今更のこと。別に大したことではなかった。
でもアキラにはそれがたまらなかった。
目をそらしたくなるほどに、心の底から辛かった。
そろばん教室で仲良くなって、互いにとても気が合って、それからずっと一緒に。
大した喧嘩もせずに、お互いがお互いを一番の友達だと言い切れる相手だった。
アキラが自分で言っていたように、たしかに『親のせいにして、みっともない』のかもしれない。
海水浴で泊まった時の民宿で、アキラの親が『嘘ばかりペラペラと並べ立てて』空飛ぶカァちゃんの悪口をばら撒いていたのを止めることができなかったアキラは、外から見たらみっともない卑怯者に違いないだろう。
そして『それからずっとそのまんま、あの通りになっちまった』と――そのまま放置していたアキラは、きっと恩知らずの卑怯者と呼ばれてしまうのだろう。
アキラという少年は自分の口と態度で、それは違うと言うべきだったと、多くの者たちが当たり前のように言う。こんなふうに――
ーー自分の父親がビールを飲んで別のエリアで寝っ転がっていて、母親は父親に呼ばれて勝手に中間地点に日よけテントを移してその中でウトウト寝てしまったこと。アキラはそれがあの日の真実だったことを正直に話すべきだったと。
ーーすぐに助けようとしなかっただの、飛べることを隠して見殺しにしようとしただのと騒いでいるのは、助けてもらった側の親が、恩を忘れて自分を守るために嘘をついているのだよと。アキラはこの卑劣な親の行いを息子として自ら公表し、申し訳なかったとちゃんと謝れば、どこからか降ってわいた第三者が溜息をつきながらも散々叱りつけた後でなんとか許してくれたかもしれないんだから、そうすべきだったよと。
ーー空飛ぶカァちゃんがボランティアの仕事をしなかったためにひんしゅくを買っていたとか、無責任な人間であるなどと、そんな嘘を言っているのが自分の親だと正直に話して、そんな親の息子の自分が悪いんですと言えたなら、こんなことにはならなかっただろう、だからやっぱりお前が悪いんだよと。
たとえ夏休み中、家の中に閉じ込められて、殴られたり怒鳴られたりしていたとしても、それでもアキラが必死で外に飛び出して親の罪を暴けていたら、苦しむ者の数は格段に少なくて済んだだろう。だからやっぱり悪いのはアキラじゃないか――本当に?
頑張って親の罪と卑劣さを、ちゃんと暴けなかったアキラはどうしようもない人間なのか?
そしてそのうち、手のひらを返した海水浴場参加者とクラスの保護者の一部が叫び始めるのだ。アキラとその親から力で押さえつけられていたのだと。
助けてくれた空飛ぶカァちゃんに『ありがとう』と、来てくれてホッとした、助かったと、あの時アキラは言おうとしていたはずだと英介は思いたかったし、少なくともそういう気持ちを持たないはずがないと英介は思っていた。
アキラは英介の母を慕っていたし、会えばいつでも嬉しそうだったのだから。
英介は確かにアキラが空飛ぶカァちゃんの腕にしがみついて「おばさん、おばさん」と言っていたところをはっきり見たのだから。
悪魔のような父母が家で息子を見張りながら『親が破滅してもいいのか?』と脅してきて、知らない間にそいつらがどんどん嘘を広めていくとしたら、正義と誠実の気持ちだけで11歳の子供がその親を諫め、せめて自分だけでも正しくあらねばと、正義の選択をすることができるものだろうか?
そんなふうに問われたら、多くの者はこう言うだろう。
―――「そんな親を持っていないからわからない」
―――「そんな親の子に生まれたのが運の尽き」
―――「それでも友達を思うなら正直に名乗り出て真実を公表するべきだ」
人間というものは、正義の行いというものをわりと軽々しく語れるものだ。
でもこれだけは確かだ。そういう性質の親を持ち、その親と一生関わって行かなければならない子供の人生は多難だ。
それでも人は正しいことをするべきだと―――もしかしたら、人生というものは毎日が道徳の時間なのか?
ずっと前のこと。
ーー『想像できないなら偉そうなことを言うべきではない』
と、佐倉は指摘されたことを思い出した。
ーー『あんた、次の人生でどうなるかわからんよ、ああいう人間の娘や息子になるかもしれないよ。あんまり偉そうなことばかり言うんなら、お返しにそう言ってやりたくなるよ』
涙を溜めた目で、こんなふうに言われた。
佐倉はずっと昔に、透明な書棚の前に立ち、アキラと同じような目に合って、その先滅茶苦茶な人生を送った人間の人生を眺めていたことがあった。
その時一緒にそれを見ていた相手に言われた言葉が蘇り、佐倉は確かに辛くなった。
佐倉はそう言われて、ひと言も答えなかった。実際は何も言い返せなかったのだ。
もう無関係の人間。英介の人生とは交わることのない相手だと思っていたアキラ。
佐倉はアキラの犯した間違いが、卑劣な行いだったと断定するのが怖くなった。
これは、不運が生んだ避けようがなかった幼い卑劣にすぎなかったのでは?
考えるのが辛い時はいったん自力で現実に戻ればいいとばかりに、佐倉はピアノの音を強く鳴らした。
佐倉は英介の要望通りに同じ曲を弾き続けながら、なかなかアキラに声をかけないなと思っていたら、英介がやっと口を開いた。
「おばさんがアレの名づけ親だったんだ。別にもういいよ。でも、おばさんのことを怒ってないわけじゃないから。俺はアキラのことを言ってんの。アキラはおばさんとは関係ないだろ?俺はわかってた、俺だけはきっとわかってたんだ」
――『英介、』
アキラは声が続かない。
「俺わかってよかった。やっぱりそうだったんじゃないか!アキラのとうちゃんとかあちゃんは確かに自分のことだけ考えて、あんなふうにやったんだろ?でもアキラがそうしたかった訳じゃないんだろ?そんな二人にガミガミ言われて仕方なく、」
ーー『そりゃ違うって英介。俺はもうどうしようもなくなって、放り投げたんだ』
ーー『あの父親と母親が親だってことは、ずっと変わらないって思ったら、』
ーー『こういうことが、これからずっと続いていくと思ったらたまらなくて、』
ーー『もうどうでもよくなって、今更どうしようもできないって、』
ーー『諦めて、放置して、英介とおばさんの苦しみをほっぱらかしにしたんだ!』
ーー『どんなに俺が悪かったんだからって言ってもあいつらは何も言うなって、』
ーー『お前は親を破滅させるのかって、あいつら!』
ーー『でも破滅したのはおばさんじゃないか!』
ーー『俺があんな奴のいいなりになって、』
ーー『でも、多分、怖くて自分も守ろうとしてたんじゃないか?俺は』
ーー『最低最悪だと思う俺』
ーー『英介、俺さ、やっぱり謝りたかった。それとおばさんにありがとうって、』
ーー『あの時おばさん震えてたんだ。俺は馬鹿みたいにしがみついたんだ』
ーー『おばさんは俺を抱きしめてくれて、岸に向かって凄いスピードで飛んで、』
ーー『震えながら大丈夫大丈夫って、言ってくれたんだ!』
ーー『それなのに俺は、おばさんにひどいことをしたんだ、英介ごめん』
ーー『そう、俺、英介と同じで転校するんだよ。あいつら離婚するから』
ーー『母親の家に行くことになった。だから今日が最後のチャンスで電話番号を、』
「ええ?どこに?何県にいくの?」英介は慌てた。
ーー『俺の行き先、聞いてくれんの?相変わらずしょうがねえよな英介は』
ーー『山の方、だからプールがあるかどうかわかんねえや』
「だめだ絶対泳げよ!ちゃんと練習再開しろよ?住所をメールで、いや今、今教えて」
ーー『俺の住所を聞くのか?本当に英介は馬鹿だよな、だからしずちゃんに、』
ーー『しずちゃんのこと忘れてた。ごめん』
ーー『俺が最悪だったことを、悪かったことをごめんって伝えてくれよ』
ーー『そろそろ、大石のお母さんに悪いから、俺、明日引っ越しなんだ』
ーー『学校のみんなには挨拶できないけど、英介にだけは挨拶したくて、』
ーー『それに、英介の声が聞きたかった。俺だってお前の声を聞いてなかった』
――『だからそろそろ切らないと、俺』
「待って!」
英介が慌てて大声を出した。
「ピアノ聴こえるだろ?いい曲だろこれ。だからもう少しだけ。だって引っ越すんだろ?大石のおばさんも許してくれると思うんだ、あのおばさん良い人だもん、優しい人だから」
ーー『ええ?英介がピアノなんて珍しいよな。でも……じゃあそうするか』
ーー『この曲が終わるまで話すか?』
「うん、そうするから。わかったよ、この曲が終わるまでにする。だから約束してよ。ピアノが終わるまで切らないで』
英介は佐倉を縋るような目で見つめた。
佐倉は頷きはしなかったが、ゆっくりと目を閉じた。
すると、佐倉の父が隣に座った。そして楽譜を自分の近くに寄せた。
佐倉が頷き、二人一緒に弾き始めた。きっとこれは保険だ。息子の指がへばった時のための。
ーー『英介、今度おばさんに会った時に伝えてくれるか?俺のこと』
ーー『俺が、最悪だった、馬鹿だったって。本当に悪かったってことと、』
――『ありがとうってことも』
「伝えるよ。かあちゃんはアキラの母ちゃんたちの話は一切しなかったけど、アキラのことは心配してた。アキラが真っ青になって震えてたって言ってたんだ。だから必ず伝えるから。ねえちゃんは今いるけど、伝えとく」
ーー『そうか、しずちゃんにはどやされるな……てかもう口も聞いてもらえないな』
ーー『ごめんって伝えて、本当に悪かったって、うちの親のことも、なにもかも』
こんな時、静はやっぱり黙っていられない性格だった。
英介からスマホを取り上げてこうだ。
「自分で言え!遅すぎるよあんた!うちのママの50メートル走より遅い!ちゃんとママにも、いつか自分でも言いなさいよ。きっと――きっと待ってると思う。あんたが会いに来たら嬉しいと思う。
ただしあんた一人で来なさいよね。私たちはあんたには会いたいけど、あんたの親とは会いたくないから。
それに水泳もやめたって?だらしなくて情けないよ。どんなに後ろ指さされても、辛くあたられても、親のことで色々言われてもへこたれるんじゃないよ!相手の鼻を見てヘラヘラしてやんな!鼻毛でも見つけるんだね。そうしたら平気になるから、何を言われてもへっちゃらになるよ。
そろばんの練習も続けなさいよ。数学の先生になって、美人と結婚するんでしょ?そんで、とうちゃんの教え方が日本一だって言わせるんじゃなかったの?しっかりしなさいよ!だいたいあんた、コスゲの弟なんかを子分にするんじゃないよ。あんなカスはほっとけ!
だいたいあんた、うちの番号と住所を頭に入れたのか?クズ親にメモを取られたらまずいだろ?今すぐ暗記しろ!もし忘れたらね、麹町議員に手紙を送んな。きっと届けてくれるから。負けんなよ?絶対に嫌な親にも誰かにも負けんなよ?いいね」
ーー『麹町議員て、しずちゃんそりゃ無理だよ、何言ってんの全く』
ーー『相変わらずか、まだ英介の背中を痛めつけてんのか?』
ーー『しずちゃん、ごめん。長い間そのままにしてて、ごめん』
ーー『最悪なことして、俺は顔も見れなかった』
ーー『ごめん、元気で。話してくれてありがとう』
静は泣いてしまう前に英介に渡した。
ーー『英介ありがとうな。いつも楽しかった。一緒にいるのがすごく、』
ーー『もう無理だけど、楽しかったんだ』
ーー『話を聞いてくれてありがとな。ごめん』
ーー『大石のお母さんに悪いから、そろそろ、』
「まだ曲が終わってないじゃないか!ちゃんとそろばんとか水泳とか、がんばれよ。やめんなよ?数学の先生になって、美人の奥さんをもらってさ、将来は絶対にとうちゃんが一番の先生だって、」
ーー『英介、俺はもう母親のことも父親のことも呼んでないんだ』
ーー『とうちゃんとか、かあちゃんとか、そういうふうに呼んでないんだ』
ーー『俺、もう呼べなくなったんだ。呼びたくなくなった』
ーー『だから、かあちゃん呼びは英介に任せるよ、いいだろ?』
英介も、静も、きっと佐倉も胸が苦しくなった。
アキラの気持ちが痛いほど分かった。
「別にいいぜ俺は――ていうか、転校初日にその『かあちゃん呼び』の布教活動をしたよ。
ほら、アレだよ『男ってものはかあちゃんって呼ぶものなんだよ』ってクラスの女子に言った。
結構真面目な感じで言ったからそれなりにウケた。アキラのパクったんだ」
ーー『そうか、パクったか』
アキラが泣いているのがよくわかった。
ーー『ピアノ、随分長い曲だよな?リピートモードみたいじゃねえか』
ーー『実際に弾いているみたいだけど、まさかわざと弾いてもらってるのか?』
「違うって!佐倉さんこの曲ものすごく長いって言ってた。だから、」
ーー『違うだろ、その人、俺がこんなだからわざとずっと弾いてくれてんだろ?悪いよもう』
ーー『もう、行かないと』
ーー『さっきも、俺の母親がこの辺探しに来たみたいでさ、
ーー『大石のお母さんが知らないふりしてくれたみたいなんだ。そろそろ行くよ』
佐倉が小声で明日は何時に出るかを聞いてと言ってきたので、英介が訊ねた。
「明日の引っ越しは何時なの?」
ーー『朝から積んで、多分、昼頃に出るとか言ってた。全部引っ越し屋さんがやってくれるらしい』
「そうか、今日が最後なのか。アキラ、住所は大石に預けておいて。それから、俺アキラと話せて嬉しかった。前みたいに、変わってなくて嬉しかったんだ。電話くれてありがとう」
ーー『俺もずっとそうだった。本当にずっとそうだった。ありがとうな英介、元気でいろな』
曲はまだ終わっていなかったが、二人の最後の電話はここで終わった。
空飛ぶカァちゃんの誕生秘話ひとつと謝罪。
英介も静も、もちろんそれを受け入れていたのだが、その一本の電話はそれぞれの胸に重苦しい問いを投げかけた。
やっと曲を終えた佐倉の横に英介が立った。
「佐倉さんごめん。俺、夢のこと隠してた。朝見た夢じゃもっと短い時間しか話せなくて……アキラが謝っても俺、なんかうまく言えなくて、なんとか話そうとしたんだけど。どんどん声が詰まったんだ。
佐倉さん本当はね、夢で見た時はさ、俺が馬鹿みたいなことしか言えなかったから、アキラ困っちゃてさ。アキラが笑ってピアノの曲が終わるまで話してほしいって言ったんだよ。俺、夢の中で焦っちゃって、一生懸命何か話すんだけど、うまくいかなくて。だから、ごめん。あんなにずっと弾かせてごめん。でもありがとう佐倉さん」
佐倉も、隣の佐倉の父も次から次へと涙が流れ落ちていった。
きっと他の皆も同じだった。
さて、全員の顔が俯きかけていたところで、呑気な声で咲太郎と慶次がやって来た。
「なんか辛気臭いな。どうせ烈が原因だろ?」
慶次がこう言うと、咲太郎が笑う。
「そうだろうな、そういう空気はいつも烈が連れてくる」
佐倉はいつも失礼なこの二人に、ちょっとした波乱を期待せずにはいられなかった。
お読みくださりありがとうございます。
また長めになってしまいました。今後はサクッと読める長さを心掛けたいと思います。




