98.アキラの声(1)
その日の朝方に見た夢のことを英介は佐倉に話さなかった。もちろん静にも、誰にもだ。
「佐倉さんのお母さん、俺らってやっぱりまだ外に出ないほうがいいんだよね?」
英介が訊ねると、佐倉の母は小さな声でこう返してきた。
「ほんとにね、私ももういい加減大丈夫だと思うんだけど――どうも昔、あの総理関係の連中とは色々あったらしくて麹町さんが気にしているみたいなのよ。でもきっともうすぐお出かけできるようになるはずだから。あと少しだけガマンガマンってことでね」
英介は「うん、もう少しだよねきっと」と言うと、そのまま庭先でぼんやりと門を眺めていた。
なんとなく落ち込んだ様子に見える英介に、佐倉の父がくだらない冗談を言ったり取りたてのトマトを洗って英介の口に入れたりしてやると、英介はなんとなく自分を心配してくれていることに気が付いたのだろう、すぐに「大丈夫、勝手に出て行ったりしないよ。なんとなく考え事しちゃってさ」と言って笑いかけてきたので彼らもあまり余計なことは言わないでおいた。
しばらくすると英介は野菜の収穫と水遣りを手伝いたいと言いだして、いつも通りの明るい表情に戻ったので佐倉の父も母もそれほど気にしてはいなかった。
釜谷と水谷が深く絡む転落事故後の子供たちの身の安全については、もうおそらく、ほぼ問題はないだろうという状態になったとはいえ、麹町が――というより飯田が、まだ子供たちは出来るだけ外出を控えて、どうしてもという時は車で移動するようにと指示してきたので、英介や栄太郎はほとんど家から外に出られなかった。
飯田が『水谷の残党』などと呼んでいる議員の一部のことを非常に危険視しており、油断した時に狙われたり脅しに使われるのは一番弱い『子供』であると言って、神経質になっているようだった。
ありがたいことであり、佐倉も実際その通りだと思っていたので、事実上休暇中の佐倉は今日まで実家でのんびり過ごす予定だった。
一昨日のライブ配信後は、栄太郎や静の勉強を見たり、父と一緒に水遣りと野菜の手入れをしている英介を眺めながらあれこれと口うるさく指示を出したりして、佐倉は穏やかな時間を過ごしていた。
佐倉が病院の部屋につめていた時は、実家では必ず佐倉の母が家の中で子供たちを守ってくれていたし、基本的には佐倉の父または身内の誰かや佐倉の友人が来てくれて、二人以上の体制で子供たちを保護していたので、この間中ずっと佐倉家はにぎやかで、入院中の三人が目を覚ましてからは子供たちもかなり明るくなり、佐倉がここに帰って来ると更に笑い声も大きくなっていた。
佐倉は昼食後に急にピアノが弾きたくなり、なんとなく『別れの曲』を弾きだした。
以前、英介が『これって別れた人って曲だよね?』などと言って、それを皆で笑ったことを思いだしたので、佐倉は栄太郎にその時の話をしたり、更にグリーングリーンとグリーンスリーブスを間違えて覚えていたことも話したりして、ちょっとしたピアノ鑑賞会が始まった。
英介は妙な顔をして佐倉にこんなことを訊ねた。
「佐倉さん、佐倉さんが一番好きな曲ってなに?それを聴きたいんだけど」
「ええっ、そうだなあ。色々ありすぎるから困るな……」
一番好きな曲などと言われるとなかなか出てこないものだ。
佐倉はしばらく「う~ん」とブツブツ言いながら悩んでいがた、ふと思いついたようで、棚から楽譜を取り出した。
「じゃあ、これにしようかな。アストル・ピアソラの『悪魔のロマンス』って曲なんだけど、多分知らないと思うよ」
弾き始めてすぐ、英介はどうしてだかわからないが寂しそうに微笑んだ。
佐倉には、英介のその表情がなぜかとても大人びて見えた。不思議だった。
悪魔のロマンス――ひと言でいうと『美しい曲』だった。
もの悲しく、それでいて温かみがあって優しくて、花びらが綺麗な水の上を流れていくような、そんな情景が浮かぶメロディーだった。
「これ、別にピアノ曲ってわけじゃなくてね、もとはバンドネオンが入った五重奏なんだよ。綺麗なメロディーだろう?」
佐倉がこう言うと、英介はおかしなことを言ってきた。
「佐倉さん、この曲、しばらくずっと続けて弾いててほしいんだけど。終わりにしないでずっとこれを弾き続けてほしいんだ。だめ?」
「ええっ、英介がそんなこと言うなんて珍しいな。この曲が気に入ったのか?そうか、気が合うな」
佐倉はなんとなく嬉しそうだった。
「うん、すごく気に入った。ありがとう佐倉さん」
英介がこう言った時だった。
さっきからずっと、英介が握りしめていたスマホが鳴ったのだ。
英介はじっとそれを見つめて、息を吐いた。
そして、震える指で緑色の応答ボタンをタップした。
すぐに英介は「アキラ?」と口にした。
きっと何も答えてくれなかったのだろう、英介はもう一度「アキラでしょ?俺、なんかそんな気がして朝からずっと待ってたんだ」と言ったのだ。
佐倉は背筋がぎゅっと冷えた気がした。
ピアノをやめて英介の側に行きたくなったが、英介は別に部屋から出て行きはしなかった。
英介はそのままピアノの側にある一人掛けのソファに深く座った。
「俺のカンって当たるんだぜ、アキラは知ってるだろ?朝、夢にアキラが出てきたからなんとなく待ってた」
英介のこの言葉に、電話の主はやっと観念したようだった。
ーー『あー、バレたか。そうだった。天気とか席替えとか、英介は良く当ててた』
ーー『英介、元気だったか?』
「元気なわけないじゃん。破壊遺産野郎と、釜谷とか水谷とか、最悪の野郎共がかあちゃんに色々やってきて、はっきり言ってもう悲惨だった。でも良くなったから、やっと大丈夫になりそうなんだ。だから、だから、」
英介は言葉がつまった。
久しぶりに話したというのに、なぜか前と同じように話せているような気がして涙が浮かんだ。
なぜ浮かんだのかわからないが、英介は何かが込み上げてくるような気がした。
それでもアキラを安心させたくて英介は続けた。
「心配しなくて大丈夫だから。多分歩けるようにもなるし、きっと元気になると思うって看護師の人が言ってくれたから」
この言葉を聞いたアキラから、まるで深呼吸をした時のような深い息の音が聞こえた。
ーー『マジか!良かった、おばさんマジで運動神経ないし、高いとこから落ちたりして本当に大丈夫だったのかって俺、』
アキラもまた言葉につまってしまった。
英介はつとめて明るく話そうとした。
「ほんとだよな、かあちゃんって50メートルを14秒とか15秒とか、もっとだっけ?とにかくそんなタイムで走るんだぜ?俺の倍以上かかるって呆れちゃうぜ。でも色んな人が助けてくれたんだよ、だから大丈夫だったんだ」
ーー『マジか、本当に良かった。俺さ、おばさんに、』
「アキラ、今家にいるの?」英介はなぜかわからないがこう訊いた。
アキラは言いずらそうだったが『マジで英介ってカンがいいんだよな』といい、
ーー『実は、大石のお宅にお邪魔してる』
英介が「えええええ!なんで?大石と話したこともないでしょ?どうして?」と無遠慮に訊くと、アキラが気まずそうに答えた。
ーー『実は、昨日携帯を取り上げられたんだ。それに、もうずっと前に英介の連絡先を消されて番号がわかんなくなっちまって、かけられなくて』
「取られた?どうして?おばさんそんなことしないでしょ?なんで?」
ーー『ああ、連絡先を消したのは父親の命令ってやつ。母親はあいつに逆らえないから。正直俺も逆らえない』
アキラは気まずそうに言った。
「ああ……アキラのとうちゃん怖そうだもんな。そうか、でも大石のとこになんでまた?実は仲良かったの?」
ーー『いやそういうわけじゃない。大石とはほとんど話したことないの知ってるだろ?俺は大石には好かれていなかったし、どうも怖がられてたっつうかさ。でも今日は俺が勝手に来たんだ。図々しいと思ったけど、そうするしかなくて』
「そうするしかなくて、そうなのか……大石は元気なの?」
英介は意味が分からずいったん話をそらした。
ーー『大石は元気だよ。実はさ、昨日コンビニでライブ会議だかそういうのをやったって話を聞いたもんで、なんとなく気になってさ。それで母親に聞いたら怒り狂って……そんで携帯も取られた。で、もうどうしようもなくて、大石なら英介の番号を知ってるかと思って、番号だけでも教えてもらいたくて来たら、おばさんが電話貸してくれるって言ってくれて、俺、貸してもらってかけてるんだ』
「そうだったのか!だからか――アキラは、」
英介はこう言ってから言葉が続かず、互いに声をかけられず、というか、学校の授業以外でアキラの声を聞いていなかったことを思いだした。
「アキラとは、海水浴からずっと話もできなかったから、俺、」
英介がこう言った時、静が英介を睨みつけ、首を左右に振ったのを栄太郎は見た。
栄太郎は静の腕を引っ張って、自分の方のソファに連れてきた。
静は黙ってこれに従い、大人しく栄太郎の隣に座った。
別に静は文句を言うつもりはなかったが、ただ胸がざわざわしてしまったのだ。
そして、栄太郎も静が何かを言ったり騒いだりすると思ったわけではなかった。
ただ、余計な何かが触れたら、英介が粉々になってしまいそうな気がして怖かっただけだった。
しばらく沈黙が続いた。
英介もアキラも、次の一言がなかなか出なかった。
しかし、いきなり押しかけて電話を借りている立場のアキラは覚悟を決めるしかなかった。
アキラはついに声を出した。
でもアキラは『今、電話まで借りてて、でも俺、どうしても、』と言ったきり言葉が続かず、何かが込み上げてきた様子だった。
なかなか話し出せないアキラが心配になったのか、大石の母が何か言っている声が聞こえてきた。
『あっちにいってるから何も気にせずゆっくりでいいよ。それにかけ放題だからいくら話したって大丈夫なんだよ。一時間だって二時間だって平気なんだよ?』
アキラの声がおかしかった。すみません、すみません、と言いながらきっと泣いてしまったのではないかと英介は思って、心配でたまらなくなった。
ーー『俺、おばさんに、英介にも、ごめん。本当にごめん』
ーー『ずっと辛い思いをさせてごめん』
ーー『本当は海で俺、』
アキラはこれ以上、なにも言えなくなっていた。
英介はアキラの謝罪には全く触れず、他のことをペラペラとしゃべり続けた。
「アキラの声、授業以外で聞かなかった。他の奴らとも話してなかっただろ?なんで?俺と話すつもりがないのはわかったけど、他の奴とも一言も話してなかったじゃんか!
俺思ったんだけど、おじさんに人と話すなって言われたのか?だからあんなふうにしてたのか?怖い顔してさ、大石とかだったら怖かったと思うよ。
俺は別にあんな顔されたって怖くもなんともないけど。
それに体育もやる気ないみたいにダラダラして、カッコつけようとしてたのか?水泳も行ってないって聞いた。だらしねえと思わないのかよ。
俺なんてあいつらに色々言われてムカついてんのに、それなのにカッコつけてダラダラやって、マラソンも適当だったしさ!一体何なのあれ?
それに、なんで転校する日に一言もないんだよ。ムッツリして黙り込んでさ!
大石はノートくれたの見てただろ?女の子はなぜか泣くし!
関係ない奴らは――あいつらなんて、俺にまたサッカーやろうって?ふざけんじゃねえよ!
アキラはあんなやつらをずっと調子に乗らせて完全に放っといて!
俺がいなくなって何とも思わなかったのかよ?どうせあいつらなんて、」
アキラは黙って聞いていたが英介が話すのをやめたので、どうしても気になったようだった。
ーー『あいつらなんて?あいつらが、今もなんか言ってきたのか?』
「今?今は別に何も。ただ、あの時あいつらがとんでもなくムカついたんだよ!
アキラが俺のことをどう思ってるだの、アキラの前をうろうろするなとか、
アキラがせいせいしてるんだから消えろとか言ってきて、これから先はうちは親子でお先真っ暗だとか言って笑ったんだ!
アキラは口も聞きたいくないって言ってるから絶対に近づくなって言われたんだよ!
あんな野郎、何がまた一緒にサッカーやろうぜだ!冗談じゃないぜ!
それなのにアキラは平気だったのか?そういうの嫌いじゃないのか?
だって、アキラは大石をいじめたりしてなかったじゃないか!
俺知ってるから、大石だって言ってたから。
大石が――そこにいるか知らないけど、聞いてみろよ。
大石が、俺がさんざんあいつらに言われている時に言ってきたよ。
アキラはあいつらともずっと口をきいてないから、別にあいつらに、ああしろこうしろとか言ってないと思うって!
言ってないんだろ?あいつらが勝手に言ったんだろ?
だっておかしいじゃないか!なんでアキラが俺やかあちゃんをあんなふうに、
かあちゃんが悪いみたいに言う必要があったんだ?
だって海で、砂浜に戻ってきた時にアキラはずっとかあちゃんにしがみついて、
震えて、おばさんおばさんって何か言おうとしてたじゃないかよ!
何であの時言いたいことを言わなかったんだよ?きっとアキラは、何か言いたかったんだろ?
それをお前のとうちゃんが無理やり引き離して怒鳴ったんじゃないか!
それで、俺のかあちゃんのことをアキラを見殺しにするつもりだったのか、とかコソコソ飛べるのを隠してたのかとか言い出して!
それに、アキラのかあちゃんもアキラになんかコソコソ言ってたろ?
その後でアキラが物凄い怒った顔をしたんだ!
俺はなんでなのかって。なんで怒ってんだって思ったよ。
ずっと睨みつけてきてさ、俺とかあちゃんを憎むみたいに。
ずっと頭に来てたけど、でも俺、思ったんだ。
あの時かあちゃんにしがみついて、おばさんおばさんって、なんか言おうとしてたじゃないか!
それを言えよ!ちゃんと言ってくれないと、」
ーー『英介、悪かった。ごめん、俺が最悪だった』
ーー『その通りだよ。俺が最悪だからおばさんをあんな目に合わせた』
ーー『英介も、しずちゃんも酷いことになった。俺のせいだ』
ーー『おばさんに助けてもらって、あそこに来てくれて本当にホッとしたのに、』
ーー『海で、本当に怖くて、抱き上げてもらって俺は本当に良かったって、』
ーー『ずっと、おばさんおばさんって呼んでた』
ーー『おばさん呆れてただろ?あの時それしか言えなかったんだ、俺』
ーー『飛んでいる時はありがとうって言えなかった。おばさんってだけ言ってた』
ーー『こんなこと言ってみっともないと思うし、言い訳に違いないけど、』
ーー『父親に引っ張られた時も、おばさんを掴んで、おばさんって呼んだんだ』
ーー『でもそれから俺は、もう何も言えなくなったんだ』
ーー『こんなふうに、あいつらのせいみたいに言って、
ーー『親のせいにして、俺がみっともないって思うだろけど、』
ーー『あの二人が、民宿でペラペラ嘘ばかり言い出して、俺はもう、』
ーー『それからずっとそのまんま、あの通りになっちまった』
ーー『会社で仕事が出来なくなったらどうするんだって、あの父親に言われて、』
ーー『ちゃんとしてなかったお前らが悪いって、すごく怒鳴って、』
ーー『母親は毎日あいつに殴られて、俺も……』
ーー『そんで――最悪なんだ本当に。英介、俺の母親がアレを言ったんだ』
ーー『いいか、もう本当に最悪なんだ』
ーー『あの母親が言ったんだ、ネットとか色んなのでさ、』
ーー『英介はあいつが、何を言ったか知ってるのか?言ったんだよ俺の母親が、』
ーー『空飛ぶカァちゃん、ってさ』
ーー『あいつが、最初におばさんをああいうふうに呼んだんだ!』
お読みくださりありがとうございます。
次回も同じエピソードになります。




