82.駆け抜けるテグスと羽
光り輝くテグスの本体が無数に伸ばす触手のようなものは、佐倉の身体のどこを通って進んでいるのかわからないが、指でそれをなぞれない程の猛スピードで身体中を駆け抜けていった。
きっと意志を持って、透明な糸のような、一筋の光のような何かを、佐倉の身体に満遍なく行き渡らせようとしているのだろう。
佐倉の指が、耳が、胃のあたりも背筋も、とにかくあらゆる部分をゾワゾワとさせながらサラサラと流れていく。そんな不思議な感触だった。
痛みはないが時折反射的に指がぴくぴく動き、足の指先が引き攣る直前の時のような収縮が見られた。
また、耳や額の一部がじんわりと温かくなり、肩が勝手に動いた気がした。
佐倉が、これはいつまで続くのだろうかと思っていると、光り輝くテグスの本体が語りかけてきた。
声をかけてくれたわけではない。
不思議だ。頭の中に音として響かないが伝わってくる。
無言のテグスはこう語りかけてきた。
―――『これをやるといいよ』
―――『傷ついた者たちにこうやって語りかけるといい』
―――『駆け抜けるように、身体中を進んで行くといいよ』
佐倉は慌てて訊ねた。
つい大声を出しそうになったが、すぐに音にはせずに頭の中から問いかけた。
ーー(そんなことをしても大丈夫なのか?遠山さんの身体を傷つけたりしないのか?市谷さんや権藤さんにこれをやって、悪化したり神経が傷ついたりしないのか?)
テグスの中の誰かが答える。
しかし、やはり音ではなく感覚が伝えてくるだけだ。
―――『大丈夫。これは神経細胞を傷つけたりしないから』
―――『通り抜けられるということを教えてあげるだけだから』
―――『私達はよくこうやってリフレッシュするんだよ』
―――『きっと早く良くなる』
―――『この身体も駆け抜けるといい。そうすればきっとすぐに、』
「今すぐやって!頼むから。私ひとりじゃ心配だからお願いだ、一緒にやってくれ」
慌てた佐倉はつい声を出してしまった。
そのテグスは、答える代わりに佐倉の身体から一斉に触手を引っ込めた。
佐倉は急に何かをもぎ取られたように体が縮こまった。
そのテグスは、佐倉の身体からあまりにも素早く消えてしまった。
しかし佐倉の焦りは止まらない。
光り輝くテグスの主の気が変わらないうちにと思ったのか、すぐに自分の無数の羽を頭から一気に飛び出させた。
佐倉は今度は声を出さず、光り輝くテグスの本体に語りかけた。
ーー(一緒に駆け抜けて!お願いだ。
テグスは震えてそれに答えた。
佐倉の羽に絡まり付き、それを引っ張るようにして空飛ぶカァちゃんの身体に入り込んでいく。
佐倉の羽が進む。
テグスの本体が空飛ぶカァちゃんの身体の中で蜘蛛の巣のように広がった。
ーー(分裂だったのか!
ーー(触手を出したんじゃなかったのか?
思わず佐倉が訊ねた。
―――『違うよ。分裂でも触手でもないよ』
―――『ただ進むだけだ』
―――『君もできるから。だってそうしないと行き渡らないよ?』
―――『身体を駆け抜けているうちに自然にそうなるから。やってごらん』
佐倉が言う。
ーー(そんな、やったことないんだよ。出来ないよ、一体どうすれば、
―――『ほら、勝手にそうなってるよ。見てごらん一緒に進んでるよ』
―――『ほらもうこんなに行き渡ってる。どんどん進もう身体中を』
―――『ほら!ぴくぴくしてきた。きっとすぐに目が覚める』
―――『きっと痛がるだろうけどね』
佐倉が慌てる。
ーー(痛いだなんて!話が違うじゃないか!
ーー(遠山さんが辛くなったらどうするんだよ!
―――『他人がやるからいいんじゃないか』
―――『私がやってもあまり刺激にならないよ』
―――『私達はいつもお互いにやってた。容赦なくね』
―――『これをやってリフレッシュすればきっとよくなるから』
―――『この身体が終わったら、あの人達の中にも入るといいよ』
―――『君のそれ、力が強いから駆け抜けて行けばすぐ元気になるよ』
―――『痛いって言っても気にしちゃダメだ。必要なことだから』
ーー(あなたは本当に遠山さんなのか?なんて冷たいんだ。
佐倉はこのテグスから淡々と語りかけられているうちに、自分が覗き見たサイキックの世界の住人を思い出した。
―――『きっとそう感じるだろうね。私だってそう思っていたんだから』
―――『誰も気にかけちゃくれない世界なんだ』
―――『人が死んでも皆すぐに気持ちを切り替える』
―――『だから私が死んだ時も皆すぐに忘れたんだ。それはそれで有難かった』
―――『この思い、記憶は、今は新しい私には渡さない方がいいから、だから、』
―――『君が、君の中に……羽って言うんだっけ?その中に保管しておいて』
―――『君が必要だと思ったら新しい私に伝えてほしい』
―――『もうどうすることもできない過去の記憶をわざわざ渡す必要もないと思ったんだ』
―――『だから私はそのままにしていたんだけどね』
―――『でも、やっぱり時々思い出そうとしているみたいなんだ』
―――『なぜだかわからないけど、新しい私も過去を必要としてるのかな?』
―――『君が、全て思い出したようにね』
―――『あんな小さかった君が、全てを蘇らせてしまったように』
―――『覗き見たみたいでごめんよ。さっき君の記憶が入って来たからだよ』
―――『乗り越えられた君に託すよ。私の全てを託してみるよ』
―――『だから、どうか、この新しい私が苦しくならないように、』
―――『これ以上悲しまないで済むように、助けてやってくれ』
―――『これからいつでも私に羽を当ててくれ。こっそり君に話しかけるから』
ーー(待って!お願いだよ。いかないで。
ーー(権藤さんと市谷さんにも一度だけでいいから、
ーー(一回だけでいいから、二人も一緒にやってくれよ!
ーー(私が失敗するのが怖いんだ。助けてほしいんだ。
―――『もちろんだよ。君がそうして欲しいなら一緒にやるよ』
―――『でも大丈夫だよ。君はちゃんと出来てた』
―――『さあ新しい私はもういいだろう。あの二人をやろう』
光り輝くテグスの主は、あっという間に権藤の身体に入った。
佐倉もそれに続いた。
身体の中を進む。広がる。
そして、権藤に語りかける。
テグスと羽たちの、願いと祈りがこう伝えるのだ。
―――大丈夫だ。ちゃんと通っている。すぐに良くなる、元通りになると。
次は市谷の身体を行く。
テグスの主が佐倉に語りかけてくる。
―――『ああ、こっちはちょっと張り切って行こう。かなり痛んでる』
―――『何度も何度も駆け抜けよう。彼は自分を犠牲にしがちな人なんだろうね』
―――『君はこういう人たちを絶対に尊重する人間だろう?』
―――『だから任せるよ。三体の身体を一生懸命駆け抜けて行ってくれ』
光り輝くテグスの主は伝えてきた。
―――『彼らが眠っているうちにこうやってあげるんだよ?大丈夫だよきっとよくなるから』
―――『ねえ、君ならきっともうわかっていると思うけど、』
―――『私は姉と同じように、全く同じやり方で死んだんだ』
―――『自らそうした。監視の目をかいくぐって、やってやったんだ』
―――『私はもう飛びたくもなかった。誰も助けられない力なんて不要だ』
―――『でも、新しい私はたくさん人を助けただろう?』
―――『私はそれがとても嬉しかったんだ』
―――『子供たちのおかげだった』
―――『あと、君のおかげだよ』
―――『私を助けてくれてありがとう』
―――『そんな君が、もっと幸せになりますように』
―――『ではまたね』
「待って!お願いだ、待って!」
佐倉はもう二度と会えないような気がして叫んでしまった。
しかし、そのテグスの主は消えてしまった。
あっという間に頭の中に引っ込んでしまった。
光り輝くテグスの主はまた会えると言ってくれたけど、空飛ぶカァちゃんが目を覚ましたら、そうそう話すことは出来ないだろう。
佐倉には渡された記憶の重さを噛みしめていた。
とても辛く、重い、傷だらけの記憶だった。
衝撃と傷が深すぎて、空飛ぶカァちゃんは自分を守るためにこれらの記憶と感情から目を背けたのだろう。
自分の羽をいくつか丸々使ってやっと抱えていられるほどの感情の記録を、佐倉は引き受ける羽目になった。
光り輝くテグスの主は一方的にそう決めて、あっという間に渡してきた。
こんな自分が空飛ぶカァちゃんの大切な記憶や心の傷を抱え持つことを軽く考えてはいけなかった、と佐倉は思う。
イヤなものや見たくないものは全部、自分の所に捨てて行けばいいなどと言った自分は、なんて傲慢で烏滸がましい奴なんだろうと。
それでも佐倉は、それを受け入れるしかないのだ。
もしいつか、空飛ぶカァちゃんがその記憶を必要とした時に、遠い昔のあなたから頼まれてこの羽の中に大切に保管しておいたんだと言うしかないのだから。
眠り続ける空飛ぶカァちゃんに佐倉は語りかける。
ーー(あなたにはもう何にもとらわれずに前に進んで行ってほしいんだよ。
ーー(この傷だらけの記憶は私が大切にするから、
ーー(忘れ去られたアルバムのように、大切に保管しておくから。
ーー(昔、そうやって古いアルバムを大切にして人の心を救ってくれた人がいたんだよ。
ーー(その人には幸せが訪れたから、私にも幸せがくるかな?
ーー(その人の真似をして、あなたの記憶を私がずっと大切にしていこうと思うよ。
ーー(私にその資格があろうがなかろうが、もう仕方ないじゃないか、だって
ーー(あなたの光り輝くテグスの主が勝手に渡してきたんだ。
ーー(だから遠山さん、こればっかりは仕方ない、諦めてね。
ーー(あなたは、これから自分が大切に寄り添っていたいと思うものを
ーー(ゆっくり探していってくれ。
ーー(遠山さん、こっそり言わせてほしいよ、ありがとう。
ーー(あなたは、私のような情けない、みっともない、意地悪な翻訳家を、
ーー(好きだと、参考にしていたとあの本に書いてくれたね?
ーー(本当に嬉しくて、胸がじゅわっと温かくなったんだよ。
ーー(そんなあなたに、私はこの先何を返せるだろう?
ーー(私は自分の手で、あなたをあそこから助けたかったんだけどさ、
ーー(でも、もうあなたにはたくさんの味方がいるんだよな。
ーー(私の力などあまり役に立たなかったよ。
ーー(私はそれでもずっと、あなたの幸せを変わらずに願うよ。
◇◇◇◇◇
佐倉が、空飛ぶカァちゃんの光り輝くテグスと一緒に三人の身体に羽を入れてから一時間ほどが経った。
特に痛みを感じた様子もなくすやすやと眠っていた権藤と市谷が、寝言なのか痛みを訴えたのかわからないが、小さな声を上げたので佐倉はそっとカーテンを開けてみた。
彼らは気持ちよさそうに眠っていた。
権藤は少し笑っているようだった。夢を見ていたのだろうか?
市谷を確認すると、少し顔を歪めていたが、朝より顔色が良くなっていた。
テグスの効果かどうかはわからないが、空飛ぶ世界の人々のことだから、この世界の医療とは違うアプローチで回復を図ることもあるはずだ――佐倉はそう思った。
ーーー(本当に身体がリフレッシュ出来たというのなら、
ーーー(明日の朝の回診で、何か医師に気づきがあるはずだ。
ーーー(今日より回復が見られたら今後も安心してこれができる。
ーーー(今回も英介は予知は冴えてたな。
ーーー(遠山さんの回復の見込みが立ったら、静ちゃんと英介の力のことをゆっくり話そう。
ーーー(そして、一日でも早く遠山さんが自由に、
ーーー(あなたが本当にやりたいことを思う存分出来るように、
ーーー(今度こそ力を尽くそう。
空飛ぶカァちゃんのテグスは全て引っ込んでしまったけれど、それでも佐倉はずっと空飛ぶカァちゃんのテグスに向って話しかけ続けていた。
どのくらいたったのだろうか?
空飛ぶカァちゃんのベッドの足元の椅子に腰掛けたまま、佐倉はついうたた寝をしてしまった。
とても気持ちの良い眠りだった。
久しぶりに全身の力が抜けていくような、深い眠りが佐倉の頭をこっくりと揺らしていた。
「佐倉さん?」
かすかな、小さな声が、人工呼吸器から漏れた。
いつもの佐倉だったら、多分すぐに飛び起きただろう。
佐倉はこの囁くような優しい声に気付けなかった。
こくりこくりと頭を揺らし続けたまま目を覚ますことができなかった。
三人の身体の中を駆け抜けたことで、佐倉は自分でも気づかずにかなりの疲労を感じていたようだった。
空飛ぶカァちゃんがもう一度呼びかけた。
今度は声を出さずに、佐倉の頭の中に語りかけた。
―――『佐倉さん?さっき、私に何か言いましたか?』
―――『よく聞こえなかったんです。もう一度聞かせてください』
お読みくださりありがとうございます。
次回は空飛ぶカァちゃんと佐倉の話です。




