80.佐倉が見たもの(1)
◇◇◇◇◇
ーーこれは違う。
佐倉は顔を顰めた。
空飛ぶカァちゃんが遠山公男の家で、公男の母親から叱責を受けている。
――『こんなことも出来ないの?何のために勉強したの?英語だかフランス語だか知らないけど、大学まで行っといてこんな常識的なことも知らないの?お母さんはちゃんと教育していなかったんだね。ちゃんと膝をついてお客様を迎える練習をしなさい。今やってみなさい』
ーーなんだこれは?あの夫と子供たちの前でこんなことをさせていたのか?
佐倉はニヤついた公男の母親の顔を見て気分が悪くなった。
空飛ぶカァちゃんはあの母親と父親の前で、来客を迎える際のお辞儀の仕方について酷く叱られ、何度も膝をついて頭を下げさせられていた。
それを見つめる公男の視線。
ーーああ、こいつ、嬉しそうだ。
ーーこの野郎!公男のクソ野郎が!
ーー英介は本当に馬鹿だ。『かあちゃん、なんか茶道の人みたい』とか言って!
ーーなんて間抜けなんだ。嬉しそうに笑いやがって。
ーーだから静ちゃんに怒られるんだよ。
ーーしかし、静ちゃんはいい、実にいいね。
静が言う。
――『まずおばあちゃんがやってみてよ!正しいやり方をみせて』
――『ママはこんな風に人に頭を下げさせられることなんてなかったんだから』
――『せっかくだから正しいお手本が見たいんだけど』
公男の母親が『ああもういいよ。出来ない人に何を言っても無駄だよ』と言う。
それでも『えええ、だってママにお手本見せないといけないじゃん』と言ってごねる静を厳しく叱責する祖父と公男。
ーークズ野郎共めが!
佐倉が捉えたいのはこんなものじゃない。
空飛ぶカァちゃんの苦しみをこっそり覗き見てしまった佐倉は、いったん羽を引っ込めた。
羽を使って空飛ぶカァちゃんの記憶を捉えた後、彼女の息遣いや体の様子を確認したところ、特に変化はない。
ちょっと顔を不快そうに歪めただけだ。
この時の不愉快な記憶が夢となって蘇ってしまったのか?
ーー遠山さん、ごめん。
ーーもう一度だけお願いだ。
ーーあの時見せてくれた『空飛ぶ人々』が気になるんだ。
ーーきっと、あなたの力についてのヒントになる。
ーーだからごめん、あの時のあなたのテグスに触れるよ。
佐倉は空飛ぶカァちゃんのテグスの中から、あの時『空飛ぶ人々』を見せてくれた太いテグスを捉えた。
他のテグスより力強く、少し光を帯びているテグス。
佐倉の羽が近づくと、そのテグスはピクリと羽を避けた。
そして、そのテグスは自身を守ろうとしたのか、佐倉の羽を攻撃しようとしたのかわからないが、震えながら上に登って行く竜のように伸び上がった。
佐倉はそれをただじっと見つめていた。
何もせず、何も働きかけず、しばらく放っておいた。
この太いテグスの持ち主の心が落ち着くまで、何かを仕掛けてはいけないような気がしたのだ。
自分の羽の持つ記憶の中で、どうしても覗くのが辛い記憶がある。
それを、あの時、
ピアノを弾きながら静ちゃんに見られてしまった。
ーー一方的に甥を叱責する卑劣な自分を。
ーー傷つけるだけ傷つけたくせに、それを自覚しようとしなかった自分を。
ーー悪魔のように残酷だったあの自分を静ちゃんに見られた。
ーーでもわかったんだ。
ーー自分だけではどうしたって開けない記憶があるということを。
ーー怖くて開けないけど、誰かに知ってほしいとも思っていたことをね。
ーー軽蔑されてしまうだろう、嫌われてしまうだろう、それでも、
ーー話したかったことなんだ。知っておいてもらいたかったことなんだ。
ーー遠山さん、あれはそういう記憶なのか?
ーーだからあの時、私に注ぎ込んできたの?
ーー悲しみとか、辛さとか、諦めとか、軽蔑とか、そういった何かがあるなら
ーー安心してこの卑劣な私に投げ捨てるといいよ。
ーーこれ程までにみっともない卑怯者で、陰湿で意地の悪い、馬鹿なこの私になら
ーーどんなことを知られたって大丈夫だよ?
ーー今、いい人ぶってあなたの側にいるこの私なら、どんなことだって、
ーーどんな辛い秘密だって、きっと微笑みながら受け止められるから。
ーーできるならそれを静かに保存しておくから。
ーーあなたが思い出したくないことなら、なんとかしてそのテグスが、
ーーテグスの中のその記憶が、今のあなたに語り掛けないでくれるように、
ーー必死で頼み込んでみるから。
ーー知ってた?昔の卑劣な私を知っても、静ちゃんはね、
ーー今も私を信じてくれているんだ。
ーーきっと、好きでいてくれてるんだよ。
ーーそれが本当に嬉しかったんだ。幸せなんだよ。
ーーだから、私は絶対に、ずっとあの子たちを守るからね。
ーーあなたのことも守るから。
ーー勝手にこんなことを決めていて、まるでストーカーみたいじゃないかって?
ーーその通りだよ!
ーーなんたって私は推し活中のサイコパスサイキッカーなんだからさ!
ーー麴町先生や尾崎さんの推し活なんてしてないけど、
ーー私はあの本と出合ったあの瞬間から、ずっとあなたを見ていたんだから。
ーーどうか気味悪がらないで。
ーー私は女性でもあり男性でもある妖精とでも思ってくれよ。
――私の羽は妖精の羽なんだよ。私がそう名付けたんだ。
ーー人という生き物は、生まれ変わって男になったり女性になったり、
ーー時には親子になったり、姉弟とか、姪や甥や、師弟の間柄とか、
ーー恋人とか隣人とか、色々その生によって関係性が変わるんだよ。
ーー面白いと思わないか?
ーーでもね、これだけはわかってるんだけどさ、
ーー何度生まれ変わっても敵は敵。味方はずっと味方なんだ。
ーー知ってた?今私の周りにいる人間はね、いつだって、どんな世界でだって、
ーー私の味方だったんだよ。
ーーそれでビックリしないでくれよ?あいつら、水谷や釜谷って奴はさ、
ーー前に私の大切な人間や私自身を徹底的に痛めつけた敵の子供だったんだよ。
ーー山本ミキや本村なんてのもまあ、ちょっとした敵だったよ。
ーー私の大切な人間たちを傷つけた奴らのひとりだった。
ーー驚きだろう?咲太郎の前世の娘が今の私を見たら、大変だよ。
ーーあの子ならこれを『無関係な相手への代償的報復』だ、とか何とか言いだして
ーーこの私を軽蔑するだろうよ。きっとね。
ーーでも仕方がないと思わないか?
ーー私だってあいつらが正しい人間であろうとしていたなら、こんなふうに、
ーーやっつける必要はなかったんだからさ。
ーーでも大切な恩人のあなたを、ああやって虐げている奴らを、
ーー滅茶苦茶に叩き潰して何が悪いんだ?
ーー許せなかったよ。あなたを傷つけようとしたあいつらを。
ーー殺したいほど憎かったんだ。
ーーこんな私を少しでも、役に立ててくれるなら、
ーー困っている時に使える奴だと思ってくれるなら、その記憶を見せてほしい。
ーーそして何があなたを苦しめていたのか、どうしたらこの生で幸せになれるのか
ーー私に考えさせてくれないか?手伝わせてもらえないだろうか?
ーー無防備に私にテグスを見せたあなたは、無意識下ではこの私を、
ーーこの情けない私を、警戒してはいなかっただろう?
ーー少しはそう思ってもいいだろう?
ーーあたなの苦しみとか、恥ずかしい記憶とか、そういうものはきっと、
ーー私の持つそれに比べたらきっと、絶対に美しい苦しみだったと思うんだ。
ーー重荷を下ろして、面倒なことは私に任せて前に進んでほしいんだ。
ーー私は静ちゃんに、それをさせてしまったかもしれないんだ。
ーーあの子は私のために、何も言わないでくれているんだよ。
ーー悪魔のようなねえちゃんだって英介はいつも言ってるけど、
ーー静ちゃんは優しい子だよ。
ーー英介は静ちゃんが守ったんだ。
ーーどうかお願いだ、この太いテグスがあなたの苦しみのおおもとでないならば、
ーー何があなたを苦しめているの?どうしたら肩の荷を下ろせるの?
ーー私を救ってくれたあなたのために、私に手伝わせて欲しいんだ。
「もう一度だけ」―――
佐倉はそう言って、あの時と同じように慎重に、光り輝く太いテグスに自分の羽を『コン』とぶつけた。
するとまた、自分の羽に何かが流れ込んだ。
あの時は沢山の人間が空を飛んでいたが、この景色はそれとは違う。
確実に、違う日の出来事の記憶だろう。
これはきっと、空飛ぶカァちゃんの心が徹底的に痛めつけられた日の記憶なんだろう。
佐倉は恐ろしいものを見た。
まるで血を吐くような空飛ぶカァちゃんの悲鳴が聞こえた。
ーー『待ってて!すぐ持ってくね』
こう言って微笑んでいた女性。
空を飛んでいた美しい色白の女性が、高い塔から落とされた瞬間だった。
その人は手を後ろ手に縛られ、首に何かを巻き付けられている。
空飛ぶカァちゃんは駆け出した。
視界が揺れる。
間に合わない、絶対に間に合わない!
けれど諦めない!空飛ぶカァちゃんは落ちてくる女性を受け止めるために物凄い速さで駆け出した。
しかし、空飛ぶカァちゃんの動きに気付いた者たちがいた。
何の感情もない、冷たい人形のような者たちが一斉に空飛ぶカァちゃんに向って飛ぶ。
後ろから物凄いスピードで飛んで来る男たちが空飛ぶカァちゃんを捉えた。
空飛ぶカァちゃんは二人の男に取り押さえられ、前に進めなくなった。
そして、見てしまったのだ。
目の前で、その美しい色白の女性が地面に叩きつけられる瞬間を!
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次回もこの続きになります。




