78.空飛ぶカァちゃんのテグス
麹町は被害者家族と子供たちに対し、佐倉を通じ病院への見舞いの許可を出した。
子供たちの安全のために匿っていた件――事件の加害者の現在の状況からみて、今後彼らが子供たちに害を及ぼす可能性はほぼなくなったと判断されたからだ。
水谷に同調し持ち上げていた者たちは、今や麴町を含む党の重鎮に平身低頭して媚びすり寄り、生々しい自分の手土産について新しい権力者となり得る相手の耳元で囁き蠢いていた。
手土産を気に入ってもらえ、仮に助けてもらったように見えても実際は汚れ役を担うだけだろうし、あっさり切り捨てられれば、その議員は次の選挙までの期間、そこらを這いずり回って頭を下げる自分の姿を想像してさぞ胃が痛くなることだろう。
ところで、橋本菜月やカメラマンの丸山をいいように使っていた団体にもじきに警察の手が入るとのことで、この件は麹町の右腕、飯田が手配済のため一切心配は不要とのことだった。
きっと奴らを潰すために慎重に準備を整え、周到に罠を仕掛け、長い間反撃の機会を待っていたのだろう。
佐倉のような人間には逆立ちしても真似できないことだ。結局、佐倉は畑違いの場所でもがいているだけだった。
佐倉は飯田という男に面識がなく、また、この男のことを麹町の思考から拾い上げたことがなかった。
きっと、飯田という人物が現在浅草の事務所で何をしているか、任せている案件の進捗はどうなっているかとか、麹町の頭の中には心配も不安も一切なかったのだろう。
麹町なら『あいつにお鉢が回れば安心じゃ!』とでも言うだろうか?――きっとそんな人物なのだろう。
佐倉は、ぎゃあぎゃあとうるさい麹町を思い出し、そんな人物がいるからあんなふうにしていられるんだななどと思いながらこれまでの数か月を振り返った。
空飛ぶカァちゃんをここから救い出せれば、もう佐倉はこの場所に用はなかったし、そもそも山本ミキが叩き潰されたことで佐倉の居場所はなくなった。
佐倉はこの居場所のことを思う。
山本ミキの事務所で共に過ごした黒田――彼は、尾崎と麹町が開催した研究会で自分のために声を上げてくれた。
麹町の前で自分の評価が落ちてしまうようなことを佐倉のために話してくれたのだ。
淡々としていて冷静で仕事の出来る男。それでいて情が深く、温かみのある黒田と過ごした数か月を思い佐倉は微笑んだ。
朝の7時過ぎに権藤、それに続くように8時過ぎに目を覚ました市谷の処置は、移動することによるリスクを避けるためにそのまま特別療養環境室で行われた。
佐倉は部屋から出されたが、首の固定の再調整ほか骨折箇所のギプスの確認や呼吸の管理などが時間をかけて行われた。
二人共、特に市谷は肋骨ほか腕など骨折箇所に強い痛みと、酷い打撲をしたようなだるさが強く、強力な鎮痛薬だか鎮静剤だかが投与されたらしい。
かなりの重症ということは間違いがなく絶対安静ではあるが、どうやら頸椎の骨折はあるものの、奇跡的に脊髄や神経には損傷がなかったと改めて判断された。
二人は処置後眠ってしまい、部屋は静かなものだ。
ーーーきっと二人は回復するだろうと、権藤と市谷の家族に伝えられること。
佐倉はまだ、決して安心できなかった。
しかし、それでも一歩進めたのだ。
先生は奇跡だと言っていた。
もしかしたら、遠山さんの飛行の能力が関係しているのではないか、それに加え、市谷が横から当たったタイミングもまた奇跡だったのでは、と何度も口にして「本当に良かったですよ本当に!」と言った先生の興奮した表情を佐倉は思い出した。
佐倉はそれを聞いていた時、自分でも気づかずに、深呼吸するように深く深く息を吸った。そしてゆっくりと吐き出した。
もう何日もの間、夜中に何度も起きてはここにいる三人の呼吸を確かめ、それぞれのベッドの横で目を真っ赤に腫らしていた佐倉に、年配の看護師が「ほら言ったでしょ?大丈夫な気がするって私は言ったじゃないの!だからね、きっとあの人ももうすぐ目が覚めますよ」と声をかけてくれた。
そして彼女は涙ぐむ佐倉に「ほらまた全く!だからあの怖い麹町さんに泣き虫って言われるんですよ」などと言って背中をポンポンと叩いてきた。
見舞いが来るまでに少し寝なさいと言われた佐倉だったが、結局休むことは出来なかった。
車で、静や英介たちがここに到着するまでの数十分。
今度こそ失敗せずに空飛ぶカァちゃんを助けるための次の段取りについて、佐倉が病院のソファベッドに腰掛けてぼんやりと計画を立てていた時のことだ。
空飛ぶカァちゃんの頭から、静のテグスにそっくりの透明なものが飛び出した。
佐倉はびくりとして立ち上がった。
そのテグスの気配に、なぜかぞっとさせられたのだ。
誰にも見えないはずだと思いながらも、ついコソコソとドアの外を確認しに行き、まずは扉をしっかりと閉めた。
そして権藤と市谷の間仕切りカーテンを引いてから、空飛ぶカァちゃんのテグスをじっと見つめた。
ーーー本数にしてどのくらいだろうか?十数本、というところか。
佐倉は迷ったが、自分も羽を伸ばした。
まずは一本だけを。
あと数十分もすれば、咲太郎の運転する車に乗った子供たちと、タクシーに乗った父と母がここに来てしまう。
空飛ぶカァちゃんがここまで無防備にテグスを見せたのは初めてのことだった。
佐倉は慎重に自分の羽をそっと――『コン』とぶつけた。
その瞬間。
一気に何かが流れ込んできた。
何か――断片的な記憶のようなものだろうか?
しかし、どうもはっきりしない。
空飛ぶカァちゃんが、空を飛んでいる誰かを眺めているようだ。
しかし、空飛ぶカァちゃんがこの時どこにいるのかはわからない。
ただ、沢山の人間が飛んでいる中で、たった一人の人を見つめているようだ。
髪の長い、色白の女性を。
その女性が微笑みかけてきた。
すると、その笑みに応えるように、その女性に白い手が振られた。
その手が空飛ぶカァちゃんのものだということが佐倉にはわかった。
ーーー『待ってて!すぐ持ってくね』
空を飛んでいる女性がそう言うと、視界が揺れた。
多分、空飛ぶカァちゃんは声を出さなかったのだろう。
うんうんと頷いて、きっとまた手を振ったのだろう。
一体これはなんだ?
彼女は何を見ているのか?ただの夢なのか、それとも―――
佐倉はここで、空飛ぶカァちゃんが何かを答える声が聞こえた気がした。
しかし、ちょうどその時だ。
廊下から英介の声が聞こえた。
すると、空飛ぶカァちゃんのテグスはサッと消えてしまった。
ーーー『なぜ?遠山さんに英介の声が聞こえたのか?テグスが引っ込んだのはなぜだ?』
佐倉は今、それを考えていたかったのに、英介が飛び込んできた。
「佐倉さん!かあちゃんはどう?権藤さんみたいに目を覚ました?」
英介は声を落としてこう訊ねてきた。
「いや、まだなんだ。でも先生が電気の刺激で損傷があるかどうかを調べたところ脊髄や神経は無事だって言ってたから。多分きっと、きっと大丈夫だと思うんだよ。朝の処置の時に先生がね、もしかしたら飛行の能力と市谷さんが横から当たったことによる幸運が重なって、奇跡的に無事だったんじゃないかって言ってたよ。もう少し待ってみよう。きっと、目が覚めるから」
佐倉がなだめるようにこう言うと、英介は「市谷さんと権藤さん、かあちゃんを助けてくれてほんとにありがとう。ありがとうございます」と言い、閉められたカーテンを順に見つめた。
「二人が目が覚めてよかったよ佐倉さん。もうすぐ姉ちゃんも、栄太郎も来るよ。あと佐倉さんの友達も来てくれたんだ!お母さんとお父さんもね」
佐倉が答える前に、静と栄太郎が入って来た。
栄太郎は相変わらず物静かで遠慮がちだったが、きょろきょろと閉められたカーテンを見比べて、佐倉を見つめてくるので、佐倉はそっと背中を押しながら権藤のカーテンを開けてやった。
痛々しく固定され、沢山の機械を付けられた父親を見て栄太郎は胸を押さえた。
小さな声で「お父さん」とつぶやいてとうとう泣いてしまった。
続いて入室した慶次が、栄太郎の頭を撫でながら横についてやった。
咲太郎もまた、同じように栄太郎の頭をポンポンと軽く叩いて「よかったな」と言った。
うんうんと頷く栄太郎を見て、英介も一緒に涙を流した。
静は眠ったままの空飛ぶカァちゃんをじっと見つめ「ママのかたきをとってやるからね。沢山の味方が出来たからさ」と耳元で囁いた。
「多分、強い痛み止めの薬を入れているみたいだから二人はしばらく目を覚まさないだろうけど、また状況を知らせるから」と佐倉が言った時、母と父が入って来た。
やつれ、目を腫らした息子を見た佐倉の母は、以前佐倉が病院に運ばれた時にやったように、背中とお腹を両手で挟み込んで「二人の目が覚めて本当によかったわね。きっと遠山さんももうすぐよ」と言い微笑んだ。
その横で頷く父と大切な友人にからかわれながら、佐倉は今日やっと議員会館での日々に別れを告げた。
その日はもう空飛ぶカァちゃんのテグスは姿を見せなかった。
見舞いの彼らが部屋を出て行っても、佐倉が自分の羽をちらつかせても、空飛ぶカァちゃんはただ静かに眠ったままだった。
お読みくださりありがとうございます。
実はまだ麹町やら誰やらにこき使われますが、ひとまず今後は空飛ぶカァちゃんに専念する予定の佐倉でした。




