58.勝つ者、負ける者
隣のビルの自転車置き場には権藤のスマホと通話で繋がり、ボイスレコーダーを構えた末次准教授が潜む。
そして、逆側。ピンクビルの奥側のビルには録画中の小暮。
電気工事士のフリをした市谷は、ぐるぐる巻きになった青色のコードのようなものを手に持ち周囲をぐるりと歩いた後、ピンクビルにひと気がないのを確認できたのかわからないが、急に大胆になりピンクビルの一階の端に陣取っていた。
じっと、上、三階を見上げる。
明かりがついている部屋はたった一つしかない。
その部屋に向ってゆっくりと進む空飛ぶカァちゃんと権藤の様子を見守る。
空飛ぶカァちゃんは権藤に言われた通りに、注意深く明かりのついた大きな窓に近づき、端からそっと中を覗いてみた。
中は普通の部屋のようだ。
ソファが二つと小さなテーブル。そして奥にはベッドが置いてあった。
総理が誰かと食事をしながら懇談をするような部屋には見えない。
まるで安いビジネスホテルの一室のようだ。
空飛ぶカァちゃんは何かがおかしいと思った。
出来ることならこのまま引き返したくてたまらなかった。
しかし、ここまで来て総理に挨拶もせずに帰ることは出来ない。
空飛ぶカァちゃんは小さな声でこう呼んだ。
「水谷総理?遠山です。水谷総理、いらっしゃいますか?」
すると、骨ばった太い男の手がぬっと窓から飛び出した。
乱暴に飛び出たその手が空飛ぶカァちゃんの腕を物凄い力で掴んだ。
空飛ぶカァちゃんは「きゃあああ!」と叫び、足場に座り込んだ。
その不気味は手は空飛ぶカァちゃんを立ち上がらせようと両手を伸ばしてきた。
「やめてください!」と叫ぶ空飛ぶカァちゃんにいやらしい男の怒鳴り声が降りかかった。
「ギャアギャアうるさいんだよ。無能の嫌われ者が!役にも立たない体だけの女のくせに!俺に助けてほしいんだろ?だから総理に頼んだんじゃないのか?」
「違います!私は総理に娘のことで話があると言われてここに来たんです。手を放してください、人を呼びますよ!」
「本当の馬鹿だな。人が来るはずないだろうが!あの水谷がセッティングしたんだから。あの人がわざわざここを指定したんだよ。あんたが俺に助けを求めてるって言うから話を聞いてやりに来てやったんじゃないか!こっちが悪いことでもしているかのように言うんじゃないよ。お前なんて頭を使わずにただ体を使って?やれ団地だ、工場だ?そんなもんの点検だけやってる無能のくせに!いっちょ前にわめくんじゃない。しおらしく部屋に入れ!話を聞いてやる。それとも何か?俺がお前を襲うとでも?自惚れるなよ?飛ぶだけの体だけの女のくせに、もったいつけやがって!早く立て、こっちに来い!」
「釜谷先生!手を放してください。本当に人を呼びますよ!」
―――(((バチン!)))
大声を出した空飛ぶカァちゃんの頬を釜谷が強く叩いた。
空飛ぶカァちゃんはいきなり叩かれて驚いてしまい、一瞬力が抜けてしまった。
釜谷はそれをせせら笑い、腕を強く引き、空飛ぶカァちゃんを部屋に引きずり込もうとした。
その時だ。
「このクズが!手を放せ」
三階の足場を匍匐前進するように進んで、この窓の下まで来ていた権藤がついに立ち上がり、釜谷の腕を強く払った。
空飛ぶカァちゃんはやっと解放され、窓から離れたところまで下がった。
権藤は叫ぶ。
「このいやらしい卑怯者が!水谷総理がセッティングしたと言ったな?あの人があんたをここに来させて、遠山さんを呼びつけたんだな?あんたらほんとに最低だよ。なんだって?しおらしく部屋に入れば話を聞くだと?飛ぶだけの体だけの女のくせにだと?あんなふうに殴るなんて!あんたほどのクズを俺は知らないよ」
「お、お前、どうしてここにいる?どういうことだ?」
「どういうことも何も、こんな夜にこんなところに呼び出すあんたらがおかしいだろうが!今の話は俺が全て、全て証言しますよ。あんたらの卑劣ないやらしい行い全てを!」
その後すぐのことだ!―――
釜谷が両手で『ドン』と権藤の体を押した。
両手で、強く!
大きな窓の前で大声で怒鳴っていた権藤が『フッ』と。
空飛ぶカァちゃんの視界から消える。
「――あっ!」
権藤はビルから斜め下に向って落ちてゆく。
空飛ぶカァちゃんが息を呑む。
斜め下に落ちてゆく権藤の顔が歪む。
怒り、絶望、悲しみ、諦め……
空飛ぶカァちゃんの目に権藤のその瞬間の表情がはっきりと映り込む。
だが――飛ぶ!
追う!
斜め下の権藤へ向かう。
――シャッ、シューッ!
風を切る。
一瞬の音。
権藤と空飛ぶカァちゃんにしか聞こえない音。
空飛ぶカァちゃんは思う。
――『初めてだ』
――『初めてこの力を愛しいと思う』
――『飛べるから助けられる!』
流れ星のような速さ。
なぜだかわからないこのスピード。
自分でも知らない、理解できない、今までにないほどのスピード。
ほんの一瞬の。瞬き程の速さで権藤に追いつく。
抱きつく!
同時に自分の体を下に!
背中を下に、背泳ぎのようにして権藤を抱きかかえる。
体は地面につかない!大丈夫だ!
滑るように進む。進むが、止まらない!
長く続く壁が!まずい!
できるだけ上に、上に行こうとするがきっとダメだ!
勢いが凄すぎる!
もう制御ができない。
このままだと壁にぶつかる。
せめて、斜めからあたらないとまずい!
きっとこれは一瞬。
そして同時に、もう一つの一瞬!
衝撃!
横から何かがぶつかって来た。
――『ドン!ズン、ズシャッ』
斜め横からの凄まじい衝撃!
鈍い音。
その衝撃をもたらしたものが空飛ぶカァちゃんと権藤の体にしがみつく。
恐ろしく重い物体が、二人の体にぶら下がった!
そしてそのまま斜め前に滑るように進む。
斜め前の壁に向かって引き寄せられるように。
スピードが物凄い。
横からぶつかって来た重くて大きな物体が、人間が!
空飛ぶカァちゃんがもたらした流れ星のような速度をなだめるように、抑えにかかった。
空飛ぶカァちゃんが風を引き寄せる。
自分でもよくわからない。空気の層が出来上がる。
三人の人間の塊を、空飛ぶカァちゃんの風の層が包み込むように覆う。
しかし、そのまま上には上がれない。
もう斜めに突き進むのみだ!
大きな物体の正体――市谷が、二人をかばうように抱え込む。
太い腕と厚い胸でが絶対に離すまいと力をこめる!
しかし守りも、重さも、速さには勝てない。
ついに壁が彼らを痛めつける!
市谷の体が二人を抱えたまま壁に激突した!
筋肉と脂肪の塊が二人分の体重を抱え込んだまま、斜めから壁をこすっていくように前方へ進みながら倒れ込んだ。
倒れ込んだ三人はピクリとも動かない。
動いたのは、末次と小暮だけだ。
末次がすぐに救急車を呼ぶ。
そして、状況を伝えた後に、ビルの裏側に入れる横道について説明する。
小暮は三人の側で声をかけ続ける。
しかし、三人は音もなく横たわる。
◇◇◇◇◇
いつの間にかピンクビルの三階の窓は閉められ、そして明かりが消えていた。
そこには誰もいなかったかのように。
何も、なかったのかのように。
ーーー『絶対に振り向くものか』
ーーー『落ちたところを見てしまったらこっちの負けだ』
ーーー『俺は軽く押しただけ。そのまま窓を閉めて部屋を出たんだから』
ーーー『落ちたところを見たのに見捨てて逃げたんじゃない』
ーーー『全く知らないことだ。落ちたんだか、滑ったんだか知ったこっちゃない』
ーーー『そうだ、そう。飛ぶ女と権藤がここに来たことなんて誰も知らない』
ーーー『誰も知らないし、きっと俺は押してない。勘違いだ』
ーーー『そうだ。おれは今日は女のところにいたんだ』
ーーー『いや、どこにいたのかはよく考えよう。そのほうがいい』
釜谷は静かに一階に降りて行き、そのまま表玄関から走り去った。
ちゃんと部屋にも、ビルの玄関にも、きっちりと鍵をかけ、あっという間に夜闇に紛れた。
走りながら思う。
何も起こっていない。
俺は知らない。
ビルの監視カメラは切ってある。
今の俺はサングラスとマスクをしているんだ、誰だかわからない。
やはり俺は、勝つ方の人間だ。
負ける方の人間は、権藤や飛ぶ女のようなやつらだ。
ここにいた証拠なんてない。
すぐにあそこから出られてよかった。
権藤が死のうが運ばれてどうなろうが知ったこっちゃない。
権藤はどうせ生きちゃいない。あんなに強く押した……いや、どこかの誰かが押したんだから。
飛ぶ女の言うことなど、誰が信じるものか!
嫌われ者の飛ぶ女など。
――救急車が駆け付けた時、釜谷は既にこの町から消えていた。だからこの日、釜谷は救急車のサイレンを聞いていない。
お読みくださりありがとうございます!
今回は本当に嫌な奴の話でした。
次回は病院でのお話です。
少しでも気になりましたら読んでいただけたら嬉しいです。




