46.使い捨ての飛ぶ女(1)
水谷総理宛ての長いメール。
差出人とメールの中味を確認した水谷はニヤリと笑う。
長々と書かれたメールは、ある男の私設秘書からのもの。
―――(ほらやっぱり!だから言ったじゃないの。もうどうしようもないじゃないの、逃げ道がないのはあなたも同じよ。あなただって同じ爆弾を抱えているんだから今更逃げられないのよ。絶対に麹町が助けてくれるわけがない)
水谷が顔を醜く歪めて笑う。
いつもスター気取りの女が親指と人差し指で顎を支えながらアハハハハッと大声を出している。
その水谷の声を佐倉が拾う。
そして一瞬だけギリッと刺激を与える。皮膚の一部をほんの少しだけ摘まんで意地悪く捻り上げるようなイメージを頭に浮かべながら、佐倉は水谷の脳に痛みを走らせた。
―――(痛っ!時々頭が痛むわ。ストレスが溜まっているのかしら?あの男の監視を始めてから胃も痛い。間抜けなミキじゃあるまいし私まで胃がキリキリする)
今拾った水谷の思考の中には佐倉が知りたい答えはない。
水谷のお相手の男が麹町に助けを求めたが、それを断られたというメールの内容がそのまま伝わって来ただけだった。
ついさっき水谷に送られてきたメールは、男の私設秘書からのもの。
水谷が送り込んだスパイからの定期連絡である。
もともとは水谷を支援している団体からあてがわれた女性秘書であり、その女の使い道はその団体から細かい指示が出されていた。
優秀でそれなりに美しい秘書であり、そして愛人としても優秀な女。
水谷としては自分ほどではないにしても、それなりに綺麗なこの秘書を自分の愛人の男にあてがってやった。
裏切りを防ぐために。
勝つために誰とでも組んできた水谷は、ターゲットを巻き込むために沢山のスパイを使ったが、この秘書はそういう面でもとびきり優秀だった。
この女は水谷への忠誠心というより、表向きは無害を装い、しかし裏では“暴力を厭わない連中“すらも顎で使える真に危険な団体への忠誠心からよく働いた。
この女は水谷がその団体と繋がっている限り決して裏切らないし、なにかと使える女だった。
前にこの女が、麹町の秘書の一人である気の弱そうな男と親し気に話しているところを見かけてからは、佐倉にとってこの若い秘書の男は特に注意すべき観察対象の一人となった。
彼の思考に麹町への裏切りはなかったが、その女への強い恋心が見られたために佐倉はどうしても麹町を頼ることができなかった。
もしこの秘書が余計なことをしたら?
麹町が一時的に空飛ぶカァちゃんを庇護下に置いたとして、この秘書の判断一つで何かが起こってしまうかもしれない。
佐倉は父親が言っていたように、今回は麹町に助けを求めるのが一番だと思いながらもそれができなかった。
―――(それにしても、あれほど目障りな女の決定的なスキャンダルを麹町の爺さんは見逃してやるのか?ずっとあの女がトップでいたら内閣は持たないだろうに)
佐倉は麹町がその男の願いを聞き入れるのではないかと考えていた。
麹町を頼るようにうまく誘導し、相談を持ち掛けさせるところまではうまくやった佐倉だったが、その先はそう単純にはいかなかった。
もともと政治の世界に興味もなく、議員らの事情に明るいわけではない佐倉が、海千山千の麹町の決断の行方を理解できるはずもなかったのだ。
―――(よくわかりもしないのに本当に余計なことをしてしまった)
佐倉はそう思っていた。
三人の能力者を刺激して、水谷とその男の駆け引きの絡みから、まずは水谷だけを晒し上げるつもりだったのに、急に横からそれどころではない英介の予知が飛び込んできた。
佐倉の仕組んだくだらない罠は空飛ぶカァちゃんの危機の発生源となってしまっていた。
いずれ自滅すると思っていた水谷に余計な刺激を与えることになった稚拙な罠が、大切な空飛ぶカァちゃんを危険に晒したのだ。
この失敗を一人で抱えるしかない佐倉の心の焦りを知る者はいなかったが、仮に誰かに告白して自分の罪をさらけ出して懺悔し、なんらかの助けを求めたところでどんな意味があろうか。
今まで、信頼する友人たちに何かを頼むことはあっても、その理由の全てはあかさず、協力してくれた彼らに危険が及ばないよう佐倉なりに安全のラインを引いていた。
危険な力を持った自分を制御できるのは自身のみであると思っていたし、その責任を誰かと共有するなどできるはずもなかった。
それに、佐倉のやりようを隣で見つつ『それはやりすぎだ』『そんなんじゃ生ぬるい』と、誰かが監視の役回りを担ったところで実際は邪魔にはなっても手助けにはならないだろう。
喫緊時に繰り出される監視役の助言など、重荷を増やすだけだと佐倉は思っていた。
自分勝手な考え方かもしれないが実際はそれが正しいだろう。
佐倉に何ができて何ができないのかを正しく把握できていない者が、牽制役、監視役を担えるはずがないのだ。
それをわかっていながらも、今の佐倉には“ただ親切心から空飛ぶカァちゃんを助けようとしてれる協力者”と“不安でたまらないこの気持ちを受け止めてくれる誰か”が必要だった。
この失敗を少しずつでも軌道修正して振り出しに戻さなければ取返しが付かない。
その責任の重さを隠し込んだままで、不安でいっぱいのその心を誰かとわかちあおうなど、スパイよろしくこの世界にもぐりこんだ佐倉に許されるはずがなかったのに、今回佐倉ははその一線を越えてしまった。
◇◇◇◇◇
さて、佐倉の助けになりそうな大本命である麹町。
この男の多方面への影響力は水谷が派閥に入り込んできたあたりから、彼の信条とはかけ離れた、むしろ真逆の者たち――とてもじゃないが相容れない悪辣な人間のために使われることが続いていた。
救う価値もない卑劣な政治家の未来を守るために、不都合な事実を隠蔽し歪曲して伝えることを助けなければならず、仕方なしに彼らを擁護するはめになった。
その結果、有権者からは正しい判断材料を奪ってしまうことを知りながら、麹町は大切な仲間と作り上げた派閥を守るために突き進んでしまった。
麹町はクズのような政治家の恥知らずなスキャンダルをもみ消すたびに、この自己矛盾を抱えきれず、時に胃に潰瘍ができ激しい痛みで倒れたこともあった。
もともと血圧が高くカッとしやすい性質ということもあり、クズとの接点そのものが麹町に多大なストレスを与え、文字通り体力と気力を奪っていった。
ずっと前へ前へと進み続けた麹町の根っこにあった強い思い――
『地域を豊かに。教育だけは誰もが平等に。あきらめない社会。皆の生活の向上を』
忌々しい権藤が声高に訴えるまっすぐな言葉を聞くたびに麹町の心はざわついた。
かつての麹町の思いを焼き直したかのような権藤の叫び。
―――(権藤め!何がすぐに国民皆が使えるお金を増やしたいだ!誠実な政治活動?地域愛だ?これらはお前のものなんかじゃない、わしの思いだ!)
以前、政治家の若い頃の姿を特集したテレビ番組の中で、高校生だった権藤の姿が映し出されたことがあった。
その時、女性キャスターからマイクを向けられた権藤はあどけない表情ではにかみながら、麹町の著書を読んで感動したと言っていた。
麹町はそのことを覚えていて表立って何か言うことはなかったが、少なくとも権藤の活動を陰ながら見守っていた。
その権藤が麹町に『どうして変わってしまったんですか?』と問いかけてきた時、麹町は権藤が大っ嫌いになった。
変わってなどいない。
別に金が欲しいわけでもなければ、名誉が欲しいわけでもない。
じわじわと入り込んできたクズのような議員たちが麹町の居場所を侵食していった。
もちろんわかっている。
彼ら彼女らのせいだけではない。吞み込まれた自分が悪いのだ。
最近はスカッとの兄ちゃん・佐倉と関わるようになり、なぜか権藤の顔を見る機会が増え、そのたびイライラさせられていたが、そんな時に水谷のスキャンダルを手土産にやって来た男が釜谷である。
―――(ずうずうしくも、このわしに助けを乞うとは!)
―――(もちろん使わせてもらう。録音録画もとってある)
ただ、仕掛けるタイミングは慎重でなければならない。
たとえ『覆しようもない証拠が揃っているから。以前から消したい奴が相手だから。ちょうど潰したい奴から懇願されたから』と――こんなふうに、うまい具合に面白い弱みが手に入った時こそ注意深くやらなければならないものなのだ。
クズのような小物の政治家のやらかしを何度ももみ消してきた麹町爺が、消したい相手大本命の水谷を叩きつぶせるスキャンダルをどのタイミングでどうやって使うかなど、佐倉のような自己中心的な一介の秘書にわかるはずもなかったのだ。
麹町は今回ふってわいた水谷の弱点を握りつぶしてやるつもりはなかったし、もちろんそのうち利用するつもりでいたが、なぜか嫌な予感がしてならなかった。
―――(これは、わしのタイミングじゃない。何かがおかしい。妙だ、なぜそう思うのかわからない)
こんなふうな感覚が麹町を慎重にさせていた。
そして、そんな麹町の思いを察したわけではなかったが、佐倉のほうは、今回は権藤に助けを乞うしかないと思っていた。
あの時のこと。
―――『もし遠山さんに何かあったら、力になってくれますよね?』
こうたずねた時に、即答で必ず力になると約束してくれた権藤を信じていたから。
味方でいると言ってくれた権藤を好ましく思っていたから。
この甘えが、権藤の立場を危うくさせ、空飛ぶカァちゃんを危険に晒すことになった。
◇◇◇◇◇
深夜。
水谷はひとり、酒を飲みながら”ぴん”と閃いた。
―――(ああこの閃き!私ってさすがだわ!アハハッ)
さっそく水谷は薄笑いを浮かべながら、金次第でどんなことでもやってのける卑劣な男に電話をかけた。
「あんた、久しぶりに働いてもらうわよ。いいカメラを持ってきなさいよね。
ねえ、あの空飛ぶ女はあの人の新しい愛人になってもらうことにしたから。
あの女、離婚したばかりらしいからちょうどいいのよ。
日時はこちらから知らせる。みっともない二人をいい具合に撮ってちょうだい。
どうせ役立たずの女なんだから、裏切り者を消すのに使わせてもらうことにしたの。だってちょうどいいじゃない?
使えない女なんてこういう時に役に立ってもらわないとね。
私を裏切ったあいつを、恥ずかしいスキャンダルまみれにして消してやる!」
―――今この時、佐倉の羽はここには飛んでいなかった。
いつもの佐倉なら、たとえ真夜中であろうとも水谷に羽が届くところまでやってきて、悪魔のような女が眠りに落ちるその瞬間まで鋭い羽で見張っていただろうが、佐倉は権藤との電話に夢中になっていたために、危険な女の醜い指令を聞き逃してしまった。
いつもお読みくださりありがとうございます。
次回は久々の権藤と、佐倉の秘密のお話です。




