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40.またもや貸し出された本のこと

 「おばさん、おばさんの本が……」

 佐倉の母の声は少し震えていた。


 空飛ぶカァちゃんはふと思いついて軽い気持ちで本を渡したのだが、何やらわけありの様子が見て取れて、軽はずみなことをしてしまったのではないかと焦っていた。


 「これは、おばさんの小説よね?どこを探しても見つけられなかったのに……」

 古い本をそうっと撫でながら、佐倉はの母は涙を浮かべた。


 その切ない表情に空飛ぶカァちゃんは胸が締め付けられるような気持になり、思わずこう言ってしまった。

 「よろしかったらお貸ししますのでぜひお持ちになってください。これ、とても温かい気持ちになる小説なんです。大切な親御さんとの思い出を元に、たった一人の大切な肉親の方へのお詫びと、その方の幸せを願って書いた小説だそうですよ。あとがきにそう書いてあって、」

 「たった一人の肉親?」

 佐倉の父がつぶやく。

 「はい。あとがきにそう書いてありました。その肉親の方に伝えたいことがあったけど言えなかったとかで、それで書いたんだと」


 佐倉の母が震える手で小説の後ろのぺージを開く。

 

――『献辞を入れたりしたら逆にきっと読んでくれないでしょう。だからといって、あとがきにこんなことを書く私は臆病者です。それでも伝えたい思いを込めて書きました。あなたへのお詫びと、あなたの幸せを心から願う』

 

 佐倉の母は聞こえるか聞こえないかの声でそれを読み上げ、途中で涙がこぼれて続けられなくなった。

 空飛ぶカァちゃんは、そのただならない様子にうろたえてしまい、さっき自分がされたように佐倉の母の背中をそっと撫でた。


 (うかつだった。佐倉さんに聞いてからにするべきだった……)

 空飛ぶカァちゃんはそう思い、すっかり気落ちした様子の佐倉の両親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 ここで謝るのも失礼な話だし、だからと言って口を挟むわけにもいかない。

 どうすればいいのかとうじうじ考えていたのだが、佐倉の父がかすれた声で「ありがとうございます」と言った。こちらも目尻に涙が滲んでいる。


 空飛ぶカァちゃんは、虹色の音符の話からそれた話題を持ち出した。

 自分のせいでこうなったのに、自分の力でこの空気を変えることは出来そうもなかった。


 「佐倉さんが……実は私の翻訳した小説を手に取ってくださって、その最後のところに私がこの作者の方のように翻訳することを目標にしていて、いつも参考にしていたと書いたことを喜んでくださったんです。佐倉さんは多言語を習得されているので、翻訳にまつわる様々なお話をしてくださることもあって、娘がこの本を佐倉さんにお渡ししたのが始まりなんですが、つまり、」

 「烈はこの本をもう読んだのですよね?」佐倉の父がこう訊いた。

 「はい、多分お読みになったかと」

 「そうですか、あいつが」

 「作者の方はお母様が慕っていた方だと仰っていました」

 空飛ぶカァちゃんがこう言うと、佐倉の母は「前に古本屋さんで、あの子にちょっと話したことがあって、その時からずっとあの子は本を探してくれていたんです。私にとっておばさんは、この作者は、本当に大切な人だったんです」

 「そうだったんですか。ご親戚だったとは知らなくて、私、」

 空飛ぶカァちゃんが申し訳なさそうにこう言うと、佐倉の父が涙声で「いいえ」と言った。

 「妻は肉親じゃないんです。私が、この糸数万里の甥なんですよ」

 

 空飛ぶカァちゃんはあまり気にしていなかったのだが、この小説には、“たった一人の肉親へのお詫びの思いが込められている“ということと、それをその肉親である甥がこれまで“読んでいなかった“ということに今さらながら気づいた。


 それがどういうことなのかを考えると胸が苦しくなった。

 佐倉さんがこの本のことをご両親に話してもいないのに、軽い気持ちで渡してしまうなんで、自分はなんて馬鹿なことをしたのだろうかと思い、今すぐにでも謝りたい気持ちになった。 

 だが、自分の気持ちだけでそうするのも申し訳なくて、もうどうしたらいいのかわからなかった。


 空飛ぶカァちゃんは、確かにもともと無口で口下手な女性だったが、夫の両親から不愛想でつまらない嫁だと言われ続けてきたために、目上の相手と話すのが特に苦手だった。

 というより若くして結婚し、それから数年の間、数日おきの電話で姑からの小言を聞かされているうちに更にひどくなってしまった。

 何か失言をしたわけでもないのに話し方や態度のことをチクチク言われ続けたら、どんな人間だって人と話すことが怖くなってしまうだろう。

 さっき佐倉の両親から温かい言葉や親切を受け取った後だからこそ、空飛ぶカァちゃんは自分の失敗が情けなくて、こんな時の適切な声掛けできなかった。


 佐倉だったらいつだって相手の気持ちを明るくするように振る舞えるし、そうやって自分も慰められてきたというのに、こんな時に何も言えない自分が本当にふがいなかった。


 空飛ぶカァちゃんが口ごもっていると、佐倉の父が苦しそうに口を切った。

 「情けない話なんですが……伯母の本は、家にはほとんどないんです。前に私が、」

 「こちらの本、お貸しいただけるならぜひお願いします」

 佐倉の母が横から口を出した。あまりにもすばやく。


 こんなに優しそうな夫人が夫の話を遮るように言ったので空飛ぶカァちゃんは驚いたが、それはおくびにも出さずに答える。

 「もちろんです。浅草の実家には他にも沢山あるんですよ。大学の時もずっとお世話になった本なんです。私が集めまくっていたのでかなりありまして、あと少しで欲しいものは全部揃うんです、ですからそれももし、」


 「ぜひ貸してください!」今度は佐倉の父が身を乗り出す。

 「はいぜひ。ですが、申し訳ないのですが、私は勝手に出歩けなくて、佐倉さんに取りに行っていただくか、娘に持ってこさせるかしないといけないので、少しだけお待ちくださいね」


 空飛ぶカァちゃんがこう答えると「ええっ出歩けない?それも例の山本がそうさせているんですか?」と佐倉の父が訊ねた。

 「はい。その、私が飛行することで不安を感じたり……防犯上のことだと思いますが、不快感を覚える方も多いからと。それに何かしらの犯罪に、」


 また佐倉の父が大声で口を挟む。

 「なんだって?犯罪だと?」

 「そんな声を出して!遠山さんが驚いているじゃありませんか」

 「いやだってさ、そんな失礼な話があるか?犯罪だとか不快感だとか、あの破壊遺産は何を言ってんだ。いやあの総理のほうか?本当にとんでもない奴らだよな。色々噂には聞いてるが本当にろくでもない最悪のクズ共めが」

 「それはそうね。資金問題だけじゃないものね、妙な団体との繋がりももうとぼけられないはずなのに、先は短いはずと思っていたらなんてしぶといのかしら」

 「ほんとさ!烈も何をやっているんだ?そんな人権無視の横暴をそのままにしているなんて。あいつも情けない奴だな」


 「いえ!それは違うんです。佐倉さんが来てくださる前はもっと、その、酷かったんです。佐倉さんは山本先生をうまくなだめながら少しずつ状況を改善してくださったんです。前の担当の黒田さんが教えてくださったんですが、佐倉さんは少しずつやらないと山本先生を説得できないからと仰って、うまく私の環境を整えてくださったんですよ」

 佐倉を非難する言葉を聞いた空飛ぶカァちゃんは、これだけは言いたかった。


 「だからって好きな時に出かけられないとかっておかしいだろう?ご主人とかお子さんにはちゃんと会えているんですか?」

 「はい、事前に申請すればもちろん会えます。佐倉さんがすぐに手配してくださいますし、実は夫とは離婚しまして、この件でも佐倉さんには弁護士さんを紹介していただいて、お世話になったんです。子供たちもすごくお世話になっていて」

 「そうだったんですか、それは、その、無神経に申し訳ありません。山本と総理憎しで熱くなって申し訳ない、いい年をして熱くなるなんて、烈じゃあるまいし本当にすみません」


――(ん?佐倉さんは熱くなったりしないと思うけど?)

 空飛ぶカァちゃんはそう思ったが、ひとまずこう返す。

 「いいえ、ご心配くださりありがとうございます。お恥ずかしい話ですが、私がこうなる前……政府預かりになる前から、あまりうまくいっていなくて、ですから仕方なかったんだと思います」


 「そうでしたの、私も娘を連れて再婚したんですよ。烈が生まれたのは奇跡でしたの。お医者さんも驚いていたんです、かなりの高齢出産でしたから。その上あの子はものすごく健康で、あんなに大きく育って。離婚して、再婚して、私本当に幸せになりましたの。だから離婚したって別にいいじゃないかと私は思うんですよ。お子さんたちは今はちょっと寂しい気持ちもあるかもしれませんが、新しい環境でまた始めるのも悪くないと思います。静ちゃんと英介君でしたよね?あの子もよく話してくれるんですよ。とてもいい子たちだって」


 「ありがとうございます。子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいですが、私は今すっきりした気持ちなんです。また翻訳の仕事をやってみたいとか、新しい言語を学べないかとか、色々考えたりしているんです。こんな状態なのに笑っちゃますよね」

 「それはいい!この状態から抜け出して自由になれたら……烈にそうさせるように私からもせっつきますが、早く普通の生活を取り戻して新しく始めるといい。まだお若いんだから何でもできますよ。それに比べて、烈はいい年をしてあんな奴の……」

 佐倉の父は、破壊遺産を守っている姿をテレビで見た時は息子が情けなくなったと言って、溜息をついた。


 「いいえ、佐倉さんはご立派です。佐倉さんまで色々言われているのに、責任をもって山本先生をお守りして、本当に真面目で誠実な方です。それに、佐倉さんは私よりうんと年下ですよ」

 空飛ぶカァちゃんがこう言うと、二人そろって『えええっ!』と声を上げた。


 「お子さんはいくつなの?」佐倉の父が問う。

 「13歳と12歳です」

 「いや、ものすごくお若いから烈と同じか下かと思ってたよ」

 空飛ぶカァちゃんは、ははっと笑い「実は学生結婚ってわけじゃないんですが、卒業してすぐ結婚することになりまして」と答えた。


 佐倉の父と母はこの後に空飛ぶカァちゃんの事情について、しつこく質問したりも、さり気なく聞き出そうとしたりもしなかったが、二人してこんなことを言った。


 「もし、烈に遠山さんみたいな方がいてくれたら私、本当に嬉しいんだけど」

 「ほんとだよな。でもあいつは、へそ曲がりでわがままで、その上生意気なやつだから無理か」

 「そこまで酷く言わないで。烈は遠山さんのことをすごく大事に思っている様子なのに、そんな悪口を吹き込まないでちょうだい」

 「だってさ、今日だってほんとに偉そうだったんだよ。防火ウェアの写真を早く寄越せって言って何度もメールを送ってくるから慌てて送ったら、写りが悪いとかなんだかんだと。この前もまた和菓子とかあいつの指定する健康食品を母さんに買って帰れとか言ってきてうるさいし。そのくせ今度の旅行先にまで口をだして過保護だしさ」

 「いつも心配してくれてるだけじゃないの。遠山さん、誤解しないでね、そんなにへそ曲がりじゃないんですよ、いいところもあって、」


 空飛ぶカァちゃんは二人の会話に驚いた。

 あんなに穏やかで落ち着いた感じの佐倉が、両親の前では全く違う様子を見せているのかと思うと、想像するだけで口元が緩んだ。


 「でも佐倉さんはとても優しい方ですよね。それに楽しくて面白くって、私も子供たちもいつも助けられているんです。本当に感謝しています。へそ曲がりなのは、知りませんでしたけど」

 空飛ぶカァちゃんが笑うと、二人もつられて笑い出した。


 「まあ息子はいい奴なんだがへそ曲がりなのは本当だよ?特に私にだけわがままでさ、昔からてこずらされていたんだよ。信じてもらいたいね、本当なんだから」

 佐倉の父は困り果てたような顔つきでこう言ったが、その声は弾んでいた。

 本当に息子が可愛くて仕方がない様子だった。


 空飛ぶカァちゃんは、自分もまた温かい両親に育てられたと思っていたが、佐倉の両親もまた心の優しい温かい人柄だった。

 初めて会ったというのに、まるで前からの知り合いのような、そんな気持ちにさせられる二人だった。


     ◇◇◇◇◇

 

 佐倉の父が車を呼び、あと5分ほどで到着すると連絡が入った。

 玄関先で防火スーツを置いた後すぐ帰るつもりが、いつの間にか軽く3時間ほど経っていた。


 「つい楽しくて長居してしまったね」

 佐倉の父が立ち上がり、二人は静かに頭を下げた。

 「今日は思いがけなく大切なものを見つけられて、本当にありがたかった。あなたがこの本を大切にしてくれたこと、そのおかげで私は長年の後悔と向き合えました。感謝します」

 「ええ本当に。しばらく本をお借りしますが、今度またこの本のこともお話しましょうね。ありがとうございます遠山さん。それから、いいですね?山本に負けちゃいけませんよ。本当に火事の現場には行ってはいけませんよ。熱で倒れたふりをしてどこにも行かないんですよ」


 二人に心配をされ、励まされ、空飛ぶカァちゃんは久しぶりに他人の温かさに触れた気がした。

 縁もゆかりもない自分にこんなに親身になってくれて、最後まで身を案じてくれたことが嬉しかった。


 「はい、そのようにします。火事の現場には絶対に行きません。今日お忙しい中届けてくださって、ありがとうございました。お引止めしてしまってすみません」

 空飛ぶカァちゃんは心からこう言って、二人がタクシーに乗り込み、その車が左に曲がるまでずっと手を振り続けた。

 離婚の話し合いをした日の帰り道、ここまで送ってくれた佐倉とそうしたように、いつまでも手を振った。

 久しぶりに会う親戚や古い友人に会った時のように、懐かしい気持ちにさせられる二人を見送った後、空飛ぶカァちゃんは、はあーっと深いため息をついた。


――(佐倉さんになんて言って謝ろう)

 急に現実に引き戻されたようだった。

 

 

 

 


 

 

 

お読みくださりありがとうございます。

明日は静・英介姉弟の佐倉宅訪問です。

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