35.いつまでも手を振る
遠山公男の様子がおかしくなってから、空飛ぶカァちゃんはずっと天井を見上げていた。
しかし、敵意も気配もなくなっている。
目の前の公男は両手で額と耳元を押さえたまま。
『頼むからやめてくれ』という小さな声が聞こえたが、空飛ぶカァちゃんはもう公男を気遣う声をかけるのをやめた。
具合の悪そうな公男への声掛けの代わりに、空飛ぶカァちゃんは現実的な提案をした。
「きみさん、具合も悪そうだし、具体的な内容については弁護士さんをお願いしたほうがいいね。そのほうが冷静になれると思うから。静と英介は私が引き取りたいというのは変わらない。でも今日はもうやめよう。離婚の意志はちゃんとわかったから」
公男は顔を上げ「そうだな、今日はもうやめておこう」と言い、日程についてはまた連絡を取り合うことになった。
額に汗が滲み、一気にやつれた表情の公男に空飛ぶカァちゃんが微笑む。
「ずっと謝りたかった。このこと」
そう言って、空飛ぶカァちゃんが天井まで飛ぶ。
そして、顔を下に向けて目をつぶって見せる。
「スースーって。夜中にこんな姿を見たら怖いよね。きみさんホラーとか苦手だったでしょう?」
いきなり飛び上がった空飛ぶカァちゃんに驚いた公男は「急に飛ばれると心臓に悪いぞ」と言ったが、その顔からは険が取れていた。
頭の中に語り掛けてきた早口のだみ声は鳴りを潜め、今は何も聞こえてこない。
――(あいつはいなくなったのか?でも、また余計なことを言いに来て、本当に櫻子にばらすのか?)
公男はあのだみ声の男から逃げたくて、一刻も早くここを立ち去りたかった。
椅子から立ち上がろうとした時に、空飛ぶカァちゃんが天井からふわりと宙返りをして目の前の椅子にゆっくりと腰かけた。
「ちょっとなに、そういうのはナシにしてくれよ。本当に心臓に悪い。そんなことができるようになったのか?」
目を大きく見開いて公男がつい大声を出した。
「そうそう!すごいでしょ、毎日トレーニングをさせられてたんだけど、そのおかげか体幹がしっかりしてきて最近すごくパワーがでるの。連続宙返りみたいなこともできるんだけど、見る?」
空飛ぶカァちゃんがはしゃいだようにこう言う時は、大抵が自分が不機嫌だったり落ち込んでいる時だったな、と公男は思った。
「いや、いつ落っこちるか見ているだけでハラハラするからいいよ」
「そうか、残念。静ほどじゃないけど運動神経がアップしたところを見せたかったのに」
にっこり笑ってそう言う妻が公男にはが痛々しく見える。
今日ずっと八つ当たりするようにきつく接してしまった自分が恥ずかしくなった公男は、せめてそのことを謝ろうと思った。
だが、空飛ぶカァちゃんに先を越される。
「私が急にこうなっちゃったことだけど――別に私が悪いわけじゃなかったって、そう思っているの。今は本当にそう思うんだ。だって急に飛べるようになった原因は誰にもわからないんだからしょうがないよね。
それから、アキラ君を助けたのは英介に頼まれたからじゃないし、船が間に合わないと判断したら自分から行くつもりだった。何度もこのことを英介に言ってるんだけど、あの子はまだ自分のせいだと思ってるみたい。そのことはおいおいわかってもらえばいいと思ってるんだけど――でも、きみさんには本当に悪いことをしたね。私のせいで苦しめてしまってごめんね」
「えっ?」と言って、公男は空飛ぶカァちゃんを見つめた。
少しだけでも笑顔を見せようと思うのに、それができなかった。
今、本当に申し訳なさそうに謝られて、アキラの海難事故以降ずっと意地の悪い態度だった自分が『そんなことないよ』とか『苦しんだりしていないよ』とか、今更ここで言ったところで空々しいだけだ。
黙っていると、額がまたキリキリと痛んだ。
しかし例のだみ声は聞こえない。
――(消えたのか?なんで黙っているんだろう?)
空飛ぶカァちゃんが続ける。
「夜中に浮き上がる私に嫌気がさしていたのも知ってたよ。寝不足だったみたいで申し訳なくて、なんとかしたくて色々やったんだけどね――知ってたかもしれないけどベッドに紐を付けて、その紐をグルグル腰に巻きつけてみたこともあったんだけど、そうするとベッドの片側が紐に引っ張られてガタガタしたのでやめたんだ。
いつも怖がらせてごめん。あんまり謝るとそれも不愉快そうだったから、どうしたらいいかわからなかった。
アキラ君の両親をかばっていたのも、きっと飛ぶ人間を怖いと思う気持ちを誰よりもわかっていたからなのかもって思ったんだ。
正直、私にはどうしようもなかったけど、それでもごめん。
あちらに帰ってすっきりした気持ちで過ごしてくれるなら本当に良かったと思う。今までありがとう」
口下手な妻がこんなにしゃべるなんてと、公男は驚いた。
それに、確かに彼女にはどうすることもできなかったし、いつも辛そうだった。
泣きそうな顔で謝っていたのに、冷たく突き放してばかりだった。
額が、今度はギリギリと締め付けられる。
一部が熱くなっているようだ。ものすごく痛い、きつい。
――(ああわかってるよ。ちゃんと話すべきだし、謝るのは俺のほうだ)
「ありがとうとかって言わないでくれ」
公男がこう言うと、空飛ぶカァちゃんはまた傷ついた瞳を隠すように下を向いた。
違う、そうじゃないんだ、と声をかけようと思ったが公男はそのまま続けた。
「仕方がないことだったのに、俺が嫌な態度をとって……それで櫻子が謝ると、今度はそれを嫌がって八つ当たりして、悲しませた。全部俺のせいだったよ。
わかってたけど、イヤで。なんか辛くて、そうしてしまった。
そもそも、結婚した時から罪悪感でいっぱいだったんだ。櫻子の将来を潰してしまったって、そう思っていたから」
「将来を潰す?」空飛ぶカァちゃんが聞き返した。
「だってそうだろ?卒業間近に妊娠させて、普通じゃ入れないような会社への就職をパァにさせたのは俺だから」
ずっと心の奥にあった後悔を公男は告白した。
今まで言えなかったこと、言うつもりもなかったこと。
空飛ぶカァちゃんの卒業が近づいた時期に、静がお腹にいることが分かった。
就職してまだ二年目だった公男は迷ったが、どうせあと数年したら結婚するつもりだったし、自分のキャリアに傷が付くわけでもないと思った公男は『全て櫻子に任せる』と言って判断を投げた。
そして、生むつもりなら喜んで一緒に育てるし、万が一、他の判断をしたとしても、それはそれで責任を取ると言った。
こう言われた空飛ぶカァちゃんが『万が一の他の判断』を選ぶはずがなかった。
それをわかっていながら公男は敢えて判断を任せた。
結局、空飛ぶカァちゃんは、ずっと志望していた一流企業の内定を辞退し、結婚、出産の道を選んだ。
公男の実家での空飛ぶカァちゃんの立場は――『就職が決まっているのにしっかりとしたお付き合いができなかった、だらしのない娘』であったし、こんなに若くして責任をとって結婚する羽目になった息子がかわいそうだ、という思いを聞かされながらの結婚生活が始まった。
よく義母から電話で嫌味を言われ、それに落ち込む空飛ぶカァちゃんに対して『年寄りの忠告は素直に受け止めて、多少きつくても受け流さないと成長しないから』という、公男からの見当違いの講釈を聞かされる日々だった。
そんな時に世話になった研究室の教授から共同翻訳の声がかかった。
在学時に字幕翻訳のコンテストや絵本の翻訳コンクール等の受賞経歴を持つ空飛ぶカァちゃんが、就職もせず家庭に入ったことを知った教授が声をかけてくれた。
高齢の教授が一人で翻訳するにはボリュームがある本だったため、実力のある空飛ぶカァちゃんが選ばれたのだ。
義母からは『子育て中にそんなことを!』と文句を言われたが、公男はこのことだけは応援してやった。
応援することで公男が困ったり負担になることは一つもなかったし、自分の母親からは優しい息子だと言われ、ただ義母からの『家事をおろそかにするな』という空飛ぶカァちゃんへの小言が増えるだけだった。
そして、空飛ぶカァちゃんは見事にこれをやり切り、教授にも満足してもらえた。
佐倉が五冊買っていたという小説がこれである。
見事な内容だったがあまり売れなかった。
今でこそ評価の高い作家の作品ではあるが、当時はまだデビューしてから日も浅く、それほど認知されていなかった。
最近この作家の知名度は高くなり、空飛ぶカァちゃんの翻訳した小説の価値も上がってきているのだが、今それどころじゃない空飛ぶカァちゃんは、まだそのことを知らない。
公男が続ける。
「櫻子が子供をその……諦めて、就職を選ぶはずがないとわかっていたよ。それを、櫻子の判断に沿った形にして、その責任を取った自分でいようとした。
母さんがあんな態度だったのに放っておいたのも俺だ。正直言うと、櫻子が悪く言われたり、何かちょっとした失敗をして母さんに叱られていると、なんかこう安心できたんだ。自分のことを棚に上げて、悪いのが櫻子だと――そういう中にいると、自分が櫻子の将来を潰したことを考えなくて済んだから」
空飛ぶカァちゃんはこの告白には呆然としてしまった。
まさか公男がこんな話をしてくるとは思わなかった。
「学部は違ったけど、俺は櫻子ほど優秀なわけじゃないし、特別な才能もないから就職先もそこそこ、って感じだったし――でも、一つだけ確かなのは、俺にはあんなすごい賞なんて絶対に取れやしない。
認めたくはなかったけど卑屈な部分があったんだと思う。
その俺が!就職をフイにさせる原因を作ったんだ!このことがもうたまらなくて、本当に辛くて死にそうだった。でも、静が生まれて本当に嬉しかったことも確かなんだ。可愛くって、たまらなくて」
「きみさん」
空飛ぶカァちゃんは、聞いていて辛そうだった。
「櫻子を否定する言葉を聞くとなぜかほっとしたんだ。最低だろう?
意地の悪い母さんの嫌味な言葉を聞いていても、アキラ君の件で櫻子がまわりから責められても、俺は平然としてたよな?そんな最低な奴なんだ俺は――
もっと最低なことを言おうか?俺は、俺は、会社で偶然同級生の女に会って……その女と、その女との子供ができた。先月それを聞いたんだ」
空飛ぶカァちゃんは、さすがにその告白にショックを受けた。
「子供?」と小さな声を出したが、その先は続けられない。
公男のほうが続けた。
「ああそうだ。また最低なことをしたんだよ。子供のことは母さんも父さんも知ってる。
母さんが……英介だけはこっちに引き取れって言ってきて、この前、静にそのことをどう思うかをさりげなく聞こうと思って、あの子を呼び出したんだが聞けなくて。
聞けるわけないだろう?英介だけでいいだなんて!
母さんは勝手な人だよ、俺もそう思う。
でも英介が今の学校で楽しそうにしているって聞いて、やっぱり二人共櫻子に渡すべきだって思ったんだ。それなのに、櫻子にすんなり渡せなくて。最低な奴なんだ俺は」
公男はこう言って頭を抱えた。
例のだみ声が聞こえてくればいいと思った。
それでもっと自分を追い詰めればいい。
その声でおかしくなって倒れてしまいたかった。
どれくらいたったのかわらかない。
公男の手がテーブルの上にポトリと落ち、コーヒーのソーサーに当たって音がたった。
空飛ぶカァちゃんは、公男の頭頂部をじっと見つめていた。
考えていることは、静と英介がこのことをどう思うか、また傷ついてしまうのではないか、ということだけ。
知らせないわけにはいかないだろう。
誰が知らせるのか?――公男にできるわけがない。
『自分が話すしかないんだ』と、空飛ぶカァちゃんは、そう決心するしかなかった。
「きみさん、このことは私から二人に話すね。だから何も言わなくていい。私は二人を手元に置いて育てたい、それだけだから」
そして、更にこうに続けた。
「きみさんが私のことで罪悪感を持ち続けなくてもいいよ。きみさんが最初に言った通り、私が選択したことだよ。あの時、静が生まれて幸せだった。今も本当に幸せだから。
きみさんに子供が生まれるなら、静と英介は私が大切に育てるから、どうかそうさせてほしい」
公男は頷くしかなかった。
そしてすぐ、公男の頭から佐倉の羽が去り、熱と痛みがスーッと消えていった。
◇◇◇◇◇
個室から出ると、佐倉がにこやかに二人を迎えた。
「もうよろしいんですか?もっとゆっくりしてもよろしかったのに、私に気を遣われたんじゃないですか?」
公男がこれに答える。
「いいえ、ありがとうございます。佐倉さん、これ、つまらないものですがよろしければお召し上がりください。甘いものがお好きだといいんですが」
「ええっ、甘いもの大好きです!ありがとうございます」
佐倉の言い方には愛嬌があった。
空飛ぶカァちゃんも「いつもお世話になって、ありがとうございます」と言って微笑む。
喫茶店の入り口で公男と別れ、空飛ぶカァちゃんはゆっくりと手を振る。
曲がり角の手前で公男が振り返る。
空飛ぶカァちゃんはまだ手を振ったままだ。
公男が手を振り返して、しばらく立ち止まる。
空飛ぶカァちゃんと公男の手が止まり、最後の一振りで二人が同時に手を振った。
公男は、空飛ぶカァちゃんになのか、佐倉になのかわからないが、軽く会釈をすると角を曲がって歩いていった。
残された佐倉と空飛ぶカァちゃんは、他愛もない話をしながら二人でゆっくりと歩いた。
官舎に着くと、空飛ぶカァちゃんはさっきと同じように手を振って佐倉を見送ったが、佐倉がバスケット選手のように“後ろ向き歩き“をしながら、ずっとこちらを向いたまま手を振ってくるので、空飛ぶカァちゃんは転ばないかと心配になり、『危ないですよ!』とガラにもなく大声を出した。
佐倉は笑いながら、その一本道を後ろ向きで走って見せたり、その場でグルグル“後ろ向き歩き”のままで回って見せたりした。
空飛ぶカァちゃんはハラハラしながらも、そんな佐倉がかわいらしくて、ついぶんぶんと大きく手を振ったりした。
曲がり角を曲がった後に、佐倉がひょこりと顔を出した時も、空飛ぶカァちゃんはまだそこに立っていたので、笑いながら手を振り返した。
佐倉が『このままだと遠山さんが部屋に入れないので退散します!』とメールを寄越してきたので、やっと部屋に入った空飛ぶカァちゃんは、今の佐倉のふるまいを思い出してくすりと笑ってしまった。
あんなに辛い話し合いをした後なのにこんなふうに笑えるなんて、と。
―――『今日は佐倉さんが来てくれてよかった』
空飛ぶカァちゃんは心からそう思った。
なんと言って今日のことを説明するかをよくよく考えて、正直に子供たちに話そう。
そして、いつまでも一緒に前を向いて生きていこうと伝えるんだ。
空飛ぶカァちゃんはそう思って微笑んだ。
お読みくださりありがとうございます。
次回は英介と佐倉の友人の回です。
今後ともよろしくお願いいたします!




