表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/36

34.だみ声の佐倉

 時々、額にピリリと痛みが走る。

 公男(きみお)は額をかばうように手のひらを当ててみる。熱があるというわけではない。


 「きみさん、どうかした?熱でも?」

 空飛ぶカァちゃんが心配そうに小さく声をかける。


 ついさっきまでは興奮気味にはつらつとした声で話していたというのに、個室に入ったとたんに囁き声のようになってしまった。


 「いや、なんか急にズキンとして。もしかしたらこれって偏頭痛ってやつかな」

 「もし痛みが続くようなら病院にい……」

 空飛ぶカァちゃんは言葉を止める。

 公男に対して何かを促したり意見を言ったり、そういったことができなくなっていた。


 あの海難事故以降、公男からどんな言葉が返ってくるかを想像するだけで胸が痛む。


 「ただの頭痛だから平気だよ。それで、今日は大事な話があって来た。これを渡そうと思って」

 公男が取り出したのは離婚届。

 既に署名済。


 公男は、先日(しずか)と会った時のように、取り敢えず雑談から始めるという気にもなれなかった。

 どうせこれから二人で共に気持ちが沈んでいくような話をするのに、少しばかり感じの良い会話をしたところで意味がない。公男はそう思った。


 空飛ぶカァちゃんは予感していたのか、サインの入った離婚届を見ても動揺した様子もなく、その紙をじっと見つめたまま何も言わなかった。


 なにかしら言い返してくると思っていた公男は、だんまりを決め込まれるとかえって腹立たしくなった。

 「まあ黙っていてもどうしようもないから、こっちから今後の話をするけど、」

 公男は、途中で「うっ」と言ってまた額を押さえた。


 空飛ぶカァちゃんは何かを感じたのか、急に天井を見上げ、険しい顔をして立ち上がった。


 「櫻子(さくらこ)?」公男が驚いて声をかける。

 空飛ぶカァちゃんは慌てて「いやちょっと、揺れた気がして地震かと思って」と言ってごまかした。

 「ああ、結構敏感だもんな」

 公男は苦笑いをして何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 結局二人して気まずくなり、しばらくは話が出来そうもなかった。


 天井の上から、何か()()()()()()()()を感じた空飛ぶカァちゃんは、時々上を見上げて警戒しながらも、どうやって子供たちのことを切り出そうかと考えていた。


     ◇◇◇◇◇


――(さすが遠山さんだ。上から伸ばしたことにも気づいたか。でも誰の仕業かはわかってないからよかった)

 公男の額に天井からパンチを入れたのは佐倉である。

 空飛ぶカァちゃんの気がそれた時に、二か所くらいに細いパンチを入れてやった。


――(静ちゃんの言い方を真似するなら『テグスの糸』を目の前にちらつかせて、奴のふざけた考えを探ってやりたいが、遠山さんに気付かれたらおしまいだからな)


 佐倉が入れたパンチは公男の額の奥と左右のこめかみあたりの二か所。このあたりで留まっている。これで公男の思考は佐倉にダダ洩れ。


 今のところ空飛ぶカァちゃんも、このパンチを入れたのがドアの外の喫茶フロアにいる佐倉だとは全く気づけていない。

 上階まで飛ばしてターゲットにパンチを投げ込む。佐倉の最近のお気に入りのやり方。

 慎重にやりたい時の飛ばし方だ。


 佐倉はこのテグス、頭から出る糸のようなものを長年『羽』と呼んでいる。

 本当に何年も、10年20年もの間、これを『妖精の羽』と呼んでいた。

 だから、新幹線の中で静が何度もこれをテグスと言った時に吹き出しそうになった。

 

――(静ちゃん、いくら何でもテグスはないよ。ロマンのかけらもないじゃないか。

 英介だったらなんて言うかな?『光線』とかか?せめて『レーザービーム』とかって言ってくれよ)


 佐倉は本を読むふりをしながら、静のテグスを思い出してクックッと笑った。


 そして、急に佐倉の『羽』が軋む。

 個室にいる公男の思考が入ってきた。

 公男の中で、明確に言葉に変換されていなくても、羽から伝わる全てが来る――


 心に引っかかっているもの、怒りのおおもと、今一番片付けたい問題、気がかりなこと、捨てきれない愛情、同情、悲しみ、後悔――謝りたかった過去、今更どうしようもない失敗。


 公男の頭の中から、そんなものが一気に佐倉に押し寄せてきた。


 佐倉は思う。

――(こいつは愛情も同情も、後悔や優しさも持て余している。そうした捨てきれないものがあるのに、それを心の奥の奥に追いやって、押しつぶしてぐしゃぐしゃにして放置している。

 新しくて(らく)そうな未来を描いて、それを後押しする母親や父親と共に生きる道を、光のある場所に置こうとしている。

 心の奥に押しつぶした思いなど、早くなかったことにしたいだけだ)


 佐倉は自分の中の大きな怒りを思い出す。

 いつまでもその怒りを鎮めようとしない佐倉を、前へ進めない臆病者だと非難してきた者がいた。

 佐倉は、何年も透明な書棚の前に立ち続け、沢山の人の生き死にを見つめた。

 時に誰かの人生に手出しをして、その運命に無神経に割り込み、はらはらしながら過ごしている佐倉を、正義感を振りかざして非難していた者がいたのだ。


 しかしそれはかつて、のことだ。

 そいつは今や佐倉の愉快な『身体・精神保健調査員』を笑いを堪えながら演じきれる男になっている。


 公男の思考に集中しながらも、先日公男(きみお)にちょっかいを出したとぼけた調査員の姿を思い浮かべてしまう。

 そうなると、どうしても口元に笑いが込み上がる。


――(遠山公男。こいつは普通の男、ごく普通の人間だ。だからなんだというのか?失敗をしない人間などいない。だから許せと?許すか許さないかを決めるのは本人だけだからと、遠山さんを放っておくのが正しいのか?


 遠い昔。

 私の心が持つしぶとい怒りの感情を忘れるように諭してきた人間は、どうやら『公平性と中立性』を信条としていたようだった。

 そいつは私が、透明な本の中に生きている怒りや悲しみで押しつぶされそうになっている()()を助けようとすると、それを正面から非難してきた。


 本当に余計なお世話だ。

 私が誰を助けようが勝手じゃないか。

 私は自分が必要と思ったら、何を言われようが手助けをやめなかった。


 そいつは言っていた。

――『そうやって誰かの人生に手出しをして未来を変えたことで、本来あるはずだった未来が変わったらどうするの?ちゃんと本人が苦しみを乗り越えて、より良い人生を掴んだかもしれないじゃないか。みんなが幸せになれるかもしれない未来を勝手に変えるつもりか?』と。


 私のことを『神様にでもなったつもりか?人の成長を信じずに、余計なことをしているだけだ』と。

 いつもいつも、そいつからそう断じられた。

 なぜ他者の怒りや悲しみをあんたが代行して鎮めようとするのかと、偉そうに指摘してきた奴。

 でも、そいつの今はどうだ?

 この前は私と一緒にこいつ、公男に電話をかけて、

――『虫歯の治療の後には歯石取りはしましたか?』と電話して笑ってたじゃないか。


 中学時代に、やってもいない盗難事件の犯人にされかけて、孤立無援だったそいつを救うきっかけを作ったのは私だった。

 その頃からずっと一緒にいる。私の従弟の息子がそいつだ。


 もし盗難事件の犯人にされて退学になるのが本来の人生だとして、その後で苦しみを乗り越えたら、より良い人生を掴めたか?

 たとえその時に、父親と母親を悲しませても、ああ乗り越えられてよかったねと本当に思えたのか?


 透明な書棚の前で、そいつが、かつて私を非難した時に言っていた言葉をすっかり忘れていたとしても、私は忘れていない。

 この『羽』の中に蓄積されたあの時の感情も、それよりずっと前に、心を痛めつけられた時の苦しみも悲しみも、執念深いこの私にはきっと、ずっと忘れることができないようだよ。

 

 私の従弟の息子、愉快な『身体・精神保健調査員』は新しいこの世の生では、男に生まれ変わった。

 かつてはちょっとした美少女だったのに、悪人面(あくにんづら)と言われる強面(こわもて)な顔に生まれ変わり、母親から世界一可愛い顔だと言われて育ち、あいつはそれを、『やめてくれ、俺の顔をほめないでくれ!』と耳を押さえて懇願しながら大きくなった。

 他の友人たちと一緒に中・高と私と一緒に過ごしながら、大学に行ってからも、社会人になってからも皆でつるんで、好き勝手に、いつも助け合って過ごした日々はとても楽しかった。


 頑固者の私は、今も変わらない。

 『公平性と中立性』なんて冗談じゃない。

 追い詰められた盗難事件の容疑者の冤罪を晴らして、嘘をついていた卑怯者たちを完膚なきまでに叩き潰すのが妖精の羽をもつ佐倉烈のやり方なんだ。


 だから、公男さんよ。

 あんたが自分を守るために遠山さんを追い詰めようとしたり、非難して傷つけたりしたら羽を叩きつけてやるからな)


     ◇◇◇◇◇


 佐倉の羽がまたピシリと軋んだ。

 すぐに二人の会話に耳を澄ます。


 『静と英介は本人が望むなら浅草で過ごせばいいと思う。ただ、』

 空飛ぶカァちゃんが慌てて口を挟む。

 『きみさん、お願いだからあの子たちと一緒にいさせてほしい。これだけはお願いします、どうか』


 佐倉の羽の強度が増す。電気が走ったように張りつめる。

 (遠山さんの必死な声に胸が痛むよ。こんなに苦しそうな妻から子供を取り上げるなど、普通の人間ならできるはずがない)


 しかし、空飛ぶカァちゃんの懇願をはねつけるように公男が言う。

 『母親だけがそう思うわけじゃないよ。俺だって二人が大切なんだ。そう簡単に、はいそうしようとは言えないよ』

 『でも!せっかくいい友達ができて、明るい英介が戻ってきたのにまた転校させるのはあまりにも、』

 『転校させろと言ってるわけじゃない。学校はそのまま通えばいいさ。ただ親権についてはそう簡単なことじゃない。特に英介は長男なんだし』

 『長男?じゃあ静はどうだっていうの?』

 『そこのところが難しいところだろ。簡単に子供と暮らしたいとか、一人で先走られても困るんだ』

 

 公男は親権については空飛ぶカァちゃんに譲ることになっても仕方がないと思っていたが、必死に頼み込んでくる妻の様子を見て、すんなり渡すのが惜しくなったようだった。


――(お腹の子のこともある。後になって、俺と彼女の両方から慰謝料をよこせ、なんてことになったらそれはそれで大変だ。櫻子に、子供を手元に置けることのありがたみを思い知らせてからのほうがいい)

 公男は、計算高くこう考えた。


 この感情のかけらを拾い上げた佐倉の羽がさらに強度を増す。

 さっき天井から打ち込んだ公男の額の羽パンチが額から脳へギリギリと触手を伸ばす。


 そして、佐倉が喫茶フロアから直接、声を届ける。


ーーー(おいお前。空飛ぶ美女の旦那さんよ。随分偉そうにカミさんに説教たれてるな)


 突然頭の中から聞こえた声に、公男は「えっ?なんだ?」と言って頭を押さえた。

 「きみさん?」空飛ぶカァちゃんが驚いて声をかけたが公男は答えない。


 妻の様子からは、聞こえたのは自分だけなのか、空耳なのか、判断がつかない。

 しかし、更に妙な声が響いてきた。


ーーー(間抜けめ。こっちだ、すぐ上だよ。いいや、下かもな。どっちだと思う?)

ーーー(こうやってカミさんにお前の愛人のガキのこと、今すぐバラしてやってもいいぜ)

ーーー(お前には止められない。俺は異能持ちだからな。まだ政府も知らないサイキックだよ)

ーーー(空飛ぶ美女のファンなんだ。この前の事故で、彼女に家族を助けてもらったことがある男だよ)

ーーー(お前、なんだって?親権はそう簡単なことじゃないって?ならお前はどうだ?愛人と子供は簡単にできちゃったってか?随分と自分勝手だな)

ーーー(あっちに座ってる秘書の男にもお前の愛人のことぶちまけてやろうか?)


 耳障りで、雑音のようなガラガラ声。

 かすれていて息切れしているような声。

 その男が責め立ててくる。

 そいつの声が止まらない――


ーーー(お前の考えてることは簡単に読めるからな。愛人のこともお腹のガキのことも、こうやって頭ン中に入り込んで色々なやつにバラしまくれるぜ。お前みたいな奴はこうされても仕方ないだろ?)

ーーー(なんか空飛ぶ美女が深刻そうな様子だったから近くに来てみたら、なんだって?彼女から子供を取り上げるのか?愛人とガキのことを隠したままで偉そうに!このカスが!)

ーーー(おとなしく頭を下げて子供を渡すんならともかく。奥さんに向かってなんだって?先走るなだと?このクズが)

ーーー(今から空飛ぶ美女の頭ン中に話かける。クズは横で泣いてろ!)


 「待ってくれ!待って!」

 公男が叫ぶ。

 「やめてくれ、わかったから。待ってくれ」


 「きみさん?どうしたの?さっきから頭を押さえて、」

 「ちょっと黙ってろ!」

 公男が空飛ぶカァちゃんに怒鳴る。


 公男の怒鳴り声に反応するように、佐倉の声まで大きくなっていく。

 しかし、喫茶フロアは静かなものだ。

 客はほとんどいないし、佐倉は本を読んで微笑んでいるだけだ。


ーーー(あーあー、とんでもない男だな。やっぱりクズだったか。このままで済むと思うなよ)

ーーー(意外と似たようなタイプが女性の敵になるんだな。見た目温厚で明るくて、感じのいいやつが多いのが不思議だよ。お前みたいにさ!)

ーーー(そんなカスは()()()()()立場の、第三者の俺様が成敗するのが一番じゃねえか?空飛ぶ美女に汚れ仕事は似合わねえからな)

ーーー(公正中立ってのはこういう時に使うといいぜ。お前には公平さを求める資格はないだろ?)

 

 佐倉の羽が鋭利なナイフのようにギリギリと震える。それはピリピリとした痛みと共に公男の頭に混乱を与えてゆく。



 


 


 

 


 

いつもありがとうございます。

次回は公男退場です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ