33.急ぐ夫と笑う佐倉
土曜午後の調査員の訪問から数日。
公男は火曜日の夕方の電話で、その調査員から追加の内容確認の連絡を受けた。
通院していた歯科医院で『虫歯治療後に歯石取りをしたかどうか』を確認するなど、あまりにもふざけている。
こんなことを知ったところで精神保健の分野に何の関係があるというのか。
公男はひとまずこの馬鹿げた質問に真面目に答えたが、調査員のとぼけたしゃべり方にイライラしてしまい、つい会社の廊下で大声を出してしまった。
「もう二度とかけてこないでください。他に聞きたいことがあるなら今、この電話で言ってください。歯医者ではその日、歯石取りの他には歯ブラシを買わされて歯磨き指導を受けましたよ。
熱を出した時に行った内科で処方された薬についてはこの前もお伝えしましたが、飲み切らないうちに治りましたよ!それが何か?あとは何かありますか?」
帰りの打刻をした直後に入った連絡だったので、つい廊下の奥で立ち止まって通話してしまったのがいけなかった。
とぼけた調査員の気の抜けた声で何度も復唱確認されているうちにイライラが最高潮に達してしまった。
―――『はい、歯石取りをして歯ブラシを買わされて歯磨き指導を受けた。なるほど……歯石、歯石を取ったと。歯ブラシも買ったと。それで歯磨きの指導をと』
嫌がらせで電話しているんじゃないかと思えるくらい、小馬鹿にしたような話し方だった。
公男はすぐ近くで部長が首をかしげているのにも気づかず、電話の相手にため息混じりの問い返しをしてしまった。
「だいたい歯石を取ったとかどうのって必要な情報じゃないでしょう、嫌がらせでやってるんですか?そんなことで精神保健のチェックとかって呆れますよ!」
こう言ったところで、電話中にも関わらず部長が手を振って公男を呼び寄せた。
公男が焦って「いったん失礼します」と言って電話を切ったところ、
部長は、終業後ではあるし人の少ない廊下だからいいが、電話の相手にあんな風に声を荒らげるのは感心しないということを穏やかに注意してきた。
礼儀正しく温厚な人柄だと思っていた公男が見せた意外な一面に、その部長は驚いた様子だった。
公男はお叱りはもっともなことだと素直に謝罪した後に、部長から根掘り葉掘りと電話の相手のことを聞かれて、妻の家族ということで通院歴を調べられていることを打ち明けた。
部長はそれを聞いてますます説教臭くなり、義務で連絡してきている調査員に対してあんな言い方はよくないだとか、誠心誠意回答すべきだとか、得意げな顔で偉そうに注意してきた。
その上、その説教は長引いて、公男の疲労は更に積みあがった。
やっと部長から解放されて車に乗り込んだところで、部長に言われた通りに先ほどの調査員に電話を掛けた公男は、調査員から今回の調査に関する今後の予定を聞かされた。
今日の最終聞き取りをもとに、調査結果をまとめたものを妻にも提示し、彼女自身の体調や精神状態のチェックの後で家族も含め、何らかのケアが必要かどうかを判断するという。
具体的にはいつ、妻へのチェックや調査結果報告を行うかを訊ねたところ、調査員がはっきりと週明けになると言ったので、公男はそれより前に妻と離婚の話し合いの機会を持つことにした。
既にもう、互いに連絡し合うことはほとんどなく、妻の方もこちらに縋りついてくるようなことはないと思うが、子供たちのことを思って離婚を躊躇する可能性はあった。
英介を引き取ることは叶わないかもしれないが、それでも公男はいいと思った。
母親以外の女性から生まれた赤ん坊とここで暮らすなど、傷つきやすい英介がどうなってしまうかわからない。
先日、英介と電話で話をした母親が、新しい学校で楽しそうに過ごしている英介の様子を伝えてきたが、無理やり連れてくるのは可哀そうなことになるかもしれないと言っていた。
海難事故の後、あれほどまでにうなだれて落ち込んでいた英介が、今元気に過ごしているというなら、その環境を取り上げるようなことはしたくない。
常識的な提案をして、まず離婚しよう。
赤ん坊のことは、おいおい話していけばいい。
公男は、まだ正直に話すつもりはなかった。
翌日、新しい担当の佐倉という男に、公男はまず連絡を取った。
あの二人の調査員とは大違い。
人当たりが良く感じの良い男だった。
土曜日に、官舎近くの個室のある喫茶店で会えるように手配までしてくれた。
妻は自由な行動が制限されているため、佐倉が喫茶フロアで待っていてくれるそうだ。
――『その日は予定もないので本を読みながらコーヒーを飲んでいるので何時間でも大丈夫ですよ』
と言ってくれて、先日の調査員とは違って話が通じる相手だったので公男はホッとした。
静の話だと、子供たちにも親切で何かと気にかけてくれているとのことだった。
英介とは気まずいままだし、静とは会話はできても昔のようには話せなくなっている。
父親として、そばにいて手助けすることもできない今、子供たちを気遣ってくれる人間が近くにいるということは本当にありがたいことだった。
その佐倉が、例の二人の調査員を寄越したなどとは夢にも思わない公男は、佐倉への手土産をあれこれ考えながら、市役所で離婚届を入手した。
◇◇◇◇◇
土曜日。
官舎に空飛ぶカァちゃんを迎えに行った佐倉は、遠山公男との約束よりもかなり早い時間に待ち合わせ場所の喫茶店に入り、奥側の席に座った。
そして佐倉は、先日、静が持ってきてくれた透明なカバーの付いた『虹色の音符』をカバンから取り出して、空飛ぶカァちゃんに深々と頭を下げた。
「えっ?一体どうされたんです佐倉さん」
空飛ぶカァちゃんはいきなり頭を下げてきた佐倉に驚き、おろおろとして両手を前に出した。
佐倉はにっこりと笑う。
「静ちゃんからまだ聞いていないんですね。実はこの本、私の母が慕っていた人物が書いた本なんですよ。だから貸していただいて嬉しいのと、大切にしてくださったことがもう本当に嬉しくて!ありがとうございます遠山さん。感謝します、本当に」
「ええっ、本当に?お母様はお知り合いなんですか?私この方の翻訳小説は全部読みました。それに、小説じゃなくても翻訳したものは結構集めたんですよ、それはもう色々。最近も……こうなる前までは集めていたんですが」
――空飛ぶカァちゃんには自由がなくなっていた。
――好きな本屋にも行けやしない。
そして、空飛ぶカァちゃんは興奮気味に続けてこう言う。
「実は、既に持っている本の中でかなり傷んでいるものがあって、状態の良い初版本が神田の本屋にあったんです。でも先生の本は最近かなり価格が上がっていて、その時は手持ちがなかったんです。
私、後日それを買うつもりだったのにこんなことになってしまって……他にも、店主さんに頼んでいたものもあるんですが、もしも、なくなっていたらどうしようっていつも心配だったんです」
佐倉はこれを聞いて目がキラリと輝いた。
「それ!私が買ってきましょうか?遠山さんから頼まれたって言えばお店の方も売ってくれますよね?その旨を一筆書いていただければ買ってきますよ。ああ、そんなに集めてくださったんですね!」
「そんなことを頼んでもよろしいのでしょうか?ずっと気がかりで、もうなくなってしまうんじゃないかって落ち込んでたんです。ありがとうございます、もしついでがあったら、ぜひお願いします」
「ついでじゃなくても行きますよ。ものすごく嬉しいな、絶対に買ってきますから。他にご存じの本屋さんはありますか?」
前のめりで聞いてくる佐倉につられて、空飛ぶカァちゃんもついつい饒舌になる。
「もちろんたくさん知っていますよ。私はかなりのお得意さんなんですよ。あれば買っちゃうのでお店の方も連絡をくださるんです。お教えしましょうか、紙に書きますね」
佐倉と空飛ぶカァちゃんは、神保町の古書店街から始まり、高田馬場や吉祥寺、しまいには神奈川の書店についても話しだして、お互いの知っている情報を手書きの地図に書き入れた。
どの本がどこにあったとか、店主の名前などを書き入れながら二人は古書の情報交換を楽しんだ。
空飛ぶカァちゃんは公男と会うことが辛くて朝から気分が沈んでいたのだが、佐倉のはしゃぎっぷりがおかしいのと、本当に心から喜んでいる様子がかわいらしくて、ついつい笑顔で話しているうちに今日の目的を忘れかけていた。
そして約束の時間の五分前。とうとう公男が入店してきた。
佐倉はサッと立ち上がり、公男に深々と礼をする。
丁寧な挨拶に、公男もつられて深く頭を下げた。
空飛ぶカァちゃんは薄く微笑み、立ち上がった。
佐倉が店員に声をかけ、個室への案内と注文を依頼したところで、
――「では私はこちらの席でこのまま待っていますので。本当にゆっくりなさってくださいね。本を読んで待っているのでお気遣いなくお願いします」
と公男ににっこりとほほ笑んだ。
最悪の調査員に不快な思いをさせられた後での佐倉の笑顔は、公男にはキラキラと輝いて見えた。
お読みくださりありがとうございます。
次回は佐倉の大活躍回です。




