29.静、泣く(2)
―――『頭から糸が飛び出すみたいに』
静の頭の中に、店での父親との会話が蘇る。
ギリギリと胸を締め付ける、痛くて鮮明な父親の思考、感情。
静がそれを思い出したくなくても、その妙な糸が記憶をデータとして保存しているのではないかというくらいに、父の心の声はあっという間に蘇り、自分の頭に逆流してくる。
その残酷なひと言ひと言は、佐倉を見てほっとして流した静の涙を凍らせた。
◇◇◇◇◇
一時間と少し前。
ファミレスで父親と会った時、自分から呼び出したくせにくだらない世間話しかしてこない父親にうんざりして、静はろくに返事も返さず呆れた顔つきで父親を睨んでいた。
―――(パパったら何の用で呼び出したんだろう?ママのことを聞き出したいのかな?英介に酷いこと言ったことを謝りたいのかな)
などと思いながら、途切れることなくどうでもいいことをしゃべり続けている父親を、つい探るように見つめてしまったたその時のことだ。
自分の頭からぴょこんと飛び出た透明な細いテグスのようなものが数本、父親に向かってグッと伸びていった。
最初は見間違いかと思った。
でも、こんなにはっきりと細い透明な糸のようなものが父親の顔の周りにゆらゆら浮いているのに、全く気に留めた様子がないことから、これは自分にしか見えていないものだということに静は気づいた。
そして、あの時に佐倉が言ったことを思い出した。
『静ちゃん、いいね?自分に何か妙なことが起きても絶対に人に言うな。医者も先生も、友達にも、家族にもだ』
背筋がきゅうっと凍るような感覚があり、静は多分、無意識に険しい表情をしていたのだろう。
おしゃべりに何の反応も返してこない娘の顔を見たその父はこう思った。
―――(嫌われたものだな。そりゃそうか、かわいそうな立ち場の母親を味方するのは当然か)
父親のこの思いは途切れ途切れに静に伝わってきた。こんなふうに。
―――(嫌われ……かわいそうな…の母…味方……当然か)
そして残酷なことに、静がよりはっきりと父親の感情、思念を感じ取ったのは次の言葉からだった。
―――(やっぱり余計なことを言うのはやめとこう。まずは離婚が先だ。離婚前に子供ができたなんて、彼女が焦ってにおわせでもしたらまずいことになる。あの人にはきつく口止めしとかないと。まあ大丈夫だろう、おとなしい女はこういう時も楽だ)
父親が頭で考えているこの感情、言葉を、はっきりと捉えてしまった後は、まるでラジオのチューニングが上手くいった後のように全ての言葉がはっきりと聞こえた。
次々に頭に入る父親の声。
目の前でニコニコしているのに、まさかこんなことを考えているとは!――静の胸はひどくかき乱された。
さらに父親の独白が続く。
―――(いくら美人でも三日で飽きるってのは本当なんだな。あんなに気性が激しくて頑固だとはなぁ。結局、静も英介もあいつが囲い込んで育てたからああなったんだ)
―――(まあ、飛んで生計は立つんだから心配はないしよかったよ。はあ、英介をどうするかだよな、母さんは英介を気に入ってるからなあ……全く、引き取れって簡単に言うよなあ)
―――(でも母さんも酷いよな、いくら静とそりが合わないからって英介だけをなんてな。長男だから仕方ないと言えって、そんなこと静に言えるか?まあこの子も親にパンチ入れようとするような子だし、母さんが静の高速ジャンプを見たらぶっ飛ぶぞ!)
静はこれを聞いて背中がびくっと反り返った。
そしてフォークは手から滑り落ち、ライス皿の上でガチャりという音を立てた。
もう指に力が入らない。
静は感覚のない指ではなく、手の甲で口を押えた。
眉間に皺を寄せた娘の妙な仕草を見て、その父親はこんな風に思った。
―――(なんだ?体調でも悪いのか?そうか、別に俺を無視してるわけじゃなかったのか。そうだよな、俺はなんだかんだ静には甘かったし。マザコンの英介なんかよりよっぽど可愛がってやったもんな)
「静、具合が悪そうだな、熱でもあるのか?そうなら今日はうちに泊まって、」
こう言ったところで、また静の頭に父親の声が流れ込んだ。
―――(ってそれはダメだ!彼女がまた家に来たらまずい。静が来ていると知ったらわざと来るかもしれない。いやまさかそこまではしないか)
―――(ホームまで送ってやって今日は帰すか、かわいそうだが仕方がない。でも、さすがに今日ばかりは母さんも、こんなに元気のない静に辛く当たるようなことはないだろうし、今日はやっぱり、)
「パパ、なんだか気分が悪くって、テストも近いし今日は帰る。ごめんね。本屋さんに寄ってから帰るね」
実際には父親は頭の中で考えているだけで何も口にしてはいないが、静は父の思考をさえぎった。
そんなところに行きたくない、行けるわけがない。
「そ、そうか?さっきから元気がないからどうかしたのかと思ったが、熱っぽいんじゃないのか?」
静の父は本当に心配してこう聞いたのだが、静は首を横に振った。
「なんか食べすぎちゃったのかも。だから、パパはこのまま一人で帰ってよ、駐車場代かかるよ。さっきあと少しでプラス1時間になっちゃうっていってたじゃん」
「ああそうだったな、でもそんなことはいいけど、本当に一人で帰れるか?」
「平気だよ、本屋でゆっくり見たいものがあるから。だから、ここでさよならだね」
静はもう父親の顔を見たくなかった。
英介だったら、きっと怒りだしていただろう。
でも、あの家で自分が歓迎されていないと知った後で、いやな態度をとるのだけは悔しくてできなかった。
私たちを囲い込んで育てたというママだったら、どんなに悔しくても私たちのために我慢して、何事もなかったようにしてここから立ち去っただろうから。
静は歯を食いしばって少しだけ笑顔を作った。
駐車場の入口の透明な自動ドアが開く。
父親が手を振って車を置いた場所に向かって歩いて行く。
その背中を見送っていたら、一度だけ父親が振り向いて、にっこり笑ってまた手を振ってきた。
静もそれに手を振り返す。
よくそうやっていつまでも手を振ってくれた父親との思い出が蘇る。
さよならなんだと静は思った。
一人で帰ってね、私はもうあそこには行かないんだ。
◇◇◇◇◇
レトロな喫茶室。
「さあ、静ちゃんこれ食べよう。見かけは地味だけどこのチーズケーキとっても美味しいんだ。この前山本先生の代わりにここに来た時も食べたんだ」
静はこれには答えず、佐倉の頭をじっと見つめた。
自分と同じようにテグスが飛び出しているなら、今自分が思い出した父親とのやり取りを、佐倉は知ってしまったのではないかと思った。
ずっと下を向いていたからわからなかったし、何も感じなかった。
それでも、佐倉なら難なく自分の頭の中を読んでしまうだろうと思った。
「糸は出てないだろう?そんなことしないよ。もちろん私なら簡単にできるけど、静ちゃんの口から聞くべきだと思うからさ。よければ帰りの電車で聞かせてよ、イヤなら話さなくてもいい。こっちはこっちで出来ることをするだけさ」
静は声を出さずに首を振る。
そうだ、佐倉ならやってもやらなくてもそれがバレないようにすることくらい簡単だろう。
あれこれ疑ったところで自分にはわからない。
でも、佐倉がとても優しい人だと知っている。
いつだって気にかけてくれる。今日もすぐ来てくれた。
そんな佐倉が言う。
「どんな時でも味方でいるよ、って――私にはずっと前にそう言ってくれた大切な人がいたんだ。
その人はね、いつ、どんな風に姿を変えてもそう言ってくれたから、だから私は最強なんだ。
静ちゃんには私がそうなるよ。ずっと静ちゃんと英介の味方だからね」
これ以上泣きたくないのに佐倉のせいでとまらない。
ほんの少し涙を浮かべた佐倉の顔がとてもあたたかくて、胸がいっぱいになった。
(私だって佐倉さんの味方でいるよ。その人に負けないくらい、どんな時だって味方でいるから。ありがとう佐倉さん)
心の中で静がこう言うと、きゅっ、と静の頭のテグス糸が伸びた。
すると、佐倉の瞼も涙を支えきれなくなった。
―――(そうだね、一緒に味方でいよう)
佐倉も心の中でそう言うと、透明な二人の糸が絡まった。
次回は少しだけ佐倉の秘密が出てきます。




