140.文字も言葉もうまく語れず
レザック紙を大量に買い、開明墨汁と書液、そして何本も小筆を揃えた佐倉は、夜になると一人で暮らしていたマンションで、静に依頼された『その先の文字』の練習を重ねた。
もともと書は不得手ではなかったが、もう数十年、筆を持っていないのだ。
まずは達筆と言われていたあの頃の自分を取り戻さなければ、一冊しかないこの見本本に取り掛かることは出来ない。
練習してカンを取り戻し、さらさらと、そして力強く書かれていなければ疑われてしまう。
佐倉の姿の糸数万理は、そんな言い訳をしながらここ数日の夜をやり過ごした。
これが佐倉のお悩み『その一』である見本本の墨文字のことだ。
そして、もう一つ。
『櫻子さんに伝える言葉』のほうだ。
外堀を埋めた佐倉の母親と同じように、空飛ぶカァちゃんの娘である静と英介を、かろうじて佐倉側に引き入れられそうになっている今、空飛ぶカァちゃんに伝える言葉は慎重に選ばなければならない。
静の言葉を借りればこうだ―――『佐倉さんが上手く丸め込むしかないだろうね。ガンバ』
この『その二』のほうは糸数万理にも佐倉烈にもかなり難しい仕事だった。
なにしろ、まともな恋愛をしたことがないのだから。
英介に自慢げに話していた中高時代の恋愛指南など、ただ相手の女の子の思考が読み取れたから、なんとか上手くいかせることが出来ただけなのだ。
結婚した三人の友人については、それぞれが素晴らしい相手を好きになっていて、紹介された時に佐倉も、この相手とうまくいってほしいと心から思ったので、それこそ必死になって上手くいくように調整してやったが、その他大勢の同級生らの恋愛に関しては、言葉は悪いが『何とか付き合うところまではもっていってやるか』という程度の、恋愛成就のお手伝いだった。
そこのところは身内の友人への対応とはだいぶ違ったという訳だ。
いつも六人でつるんでいた大切な友人たちとは、今も当時から変わりなく親しい付き合いが続いており、そのうち一人は佐倉の姪――年の離れた姉の娘と結婚した。
このカップルはあまりにも互いを好きすぎて、見ているだけで恥ずかしくなるくらい幸せそうな二人だった。
この二人を見て佐倉はよくうんざりしたものだった。
そして残りの二人の友人の恋愛もまた似たようなもので、相当相手に惚れ込んでいて、どうしても早く一緒に暮らしたい、そのために最短の段取りをつけたい――こんなふうに懇願されたものだから、その女性に申し訳ないと思いつつも、相手が不安に感じていることや困っていることを『羽』を使って読み取り、佐倉の友人がそれをうまく解決できるように仕向けてゴールインさせた。
もしその相手の女性の性質を佐倉が信用できず、友人と一緒になってほしくないと感じるような相手であったなら、佐倉はきっと邪魔をして別れさせようと思っただろうが、紹介された女性はいずれも素晴らしい人間性の持ち主であったため、佐倉は張り切ってキューピットをしていたというわけだ。
それこそ余計なお世話であるし、客観的にみればよくないことに違いないが、互いを親友と思えるこの六人以外の同級生の恋愛でも、あまりに酷い相手を好きになっている場合は、佐倉は上手くたちまわって諦めさせたり、時には別れさせたりもした。
とんでもないことである。
そういうことまでやっていたので、中高生レベルの恋愛においては神とまで言われていたのだが、経験もないくせに調子に乗っていた佐倉は、全く持っておこがましいの一言である。
車の中で栄太郎が思っていたこと――『中学生の恋愛みたいだ』
この感覚は正しい。
今、佐倉は見本本の見返しに使われているレザック紙を何枚も無駄にしながら墨文字練習を続け、空飛ぶカァちゃんとの会話の段取りやその時にかける時間配分、NGワード、必ず入れ込む言葉、こう言った全く役に立たないことばかりをうじうじと悩みながら、無駄な時間を過ごしているところだった。
そして佐倉は、ついに『他力本願』を信仰した。
他力本願は仏教の根幹をなす教えだと言うが、佐倉は別に阿弥陀仏の救いの力を求めたわけでもなかった。
信仰先は権藤で、豪華な手弁当持参で昼に時間を取ってもらった。
電話で少し話を聞いてもらえればそれでよかったのだが、権藤がわざわざ時間をとってくれたのだ。
栄太郎から聞かされた『愉快な話』の続きをこの目で見たかった権藤は親切そうに佐倉を部屋に招き入れた。
佐倉手製の豪華弁当を食べながら、その後の進展具合を聞けると思ってわくわくしていた権藤の期待は裏切られた。
空飛ぶカァちゃんと佐倉の結婚話に関する話は出てこず、どうでもいいたらればの話を繰り広げる佐倉の本心が理解できず、権藤は全くわけがわからなくなっていた。
佐倉はこんなことを訊ねてきた。
――大嫌いで話したくもないと思っていた人間が、わざわざ自分に贈る言葉を
手紙などに文字にして書き残していたとしたら、絶対に書いてほしくない言葉はあるか?
――嫌いな人間から言われたくない言葉、NGワードにはどんなものがあるか?
――軽蔑している人間からは絶対に聞きたくない言葉にはどんなものがあるか?
――顔も見たくもない相手から言われる言葉で一番不快なものは何か?
全てが、かなり嫌われていることが前提なのだ。
自分が嫌っている相手からの言葉についてであれば、自分がどう思うかを考えればいいわけだから、今佐倉が訊ねてきていることは――嫌われ、軽蔑され、話したくもない、などと思われているのは佐倉自身のことを想定して質問しているのだろう。
なぜこんなに自分が嫌われていると想定しているのかがわからないが、佐倉は真剣だった。そして、少し緊張しているようでもある。
なぜ自分にこんなことを聞いてくるのだろうと思ったが、権藤はこんなことを訊ねてきた理由をしつこく聞いてはいけない気がした。そして、いいかげんに答えることは出来ないとも思った。
時々佐倉は訳の分からない質問をすることがあるが、そういう時に限って、その目が真剣だから困ってしまう。
権藤は必死に考えた。
佐倉は数分考えこんで黙ってしまっても、決して急かしてこない。
わけが分からない質問ではあったが、権藤はなんとかこのたられば質問の答えをみつけた。
「その嫌いな人間の書き記した文字を読まなければならないってことだよな?それが前提だったら、とにかく、今更の嘘はいらないってことかな。過去の振る舞いをごまかすために、それがあたかも誤解だったかのように言ったりさ、勘違いしたのはそっちだってことにしようとして、相手のせいにしてきたりとか、そういうのはちょっとイヤだよな。
あと嘘っぽい飾りたてた言葉を書いてきたら、すぐ読みたくなくなるな俺は。
綺麗な言葉じゃなくてもいいから率直に言いたいことを書いてほしい。
書いてほしくないのは……そうだなあ『本当は○○だから。自分は誤解されやすい』とかかな。そう言われることってよくあるけど、それってどうなの、って思うよ。
相手が勝手に誤解したって体で言うなよって思う。言葉を尽くして何度も説明すればよかっただろうに、本当はどうだとか、誤解されただけだって言い訳されるのはイヤだね。
NGワードとか不快とかってのは、すぐ出てこないなあ。
なんでまたこんなことを?あまりにもネガティブすぎないこれ?」
権藤がいうことはもっともなことだ。
佐倉はこの質問の意味を上手くごまかすことは出来なかった。だが、正直な言い訳を思いついた。
「実は、俺と犬猿の仲だった人間にメールを贈らなければならない状況になったんです。それを送らないことには前に進めない事態に陥りました。それでご意見を伺いたくて」
「なるほど。相当反目し合っている相手なのか。で、ひとまず不快な思いをさせるのだけは避けたいと、まあそんな感じなんだね?どうしてそんな相手に連絡しなきゃいけないかって思うけど、まあそういうこともあるか」
「はい、こればっかりはどうしても送らないといけない状況に陥りまして。多分ですが、権藤さんが今仰ったように、恥ずかしながら俺の言い方が悪くて、というか酷すぎて、かなり不愉快な思いをさせた相手なんです。当然向こうもムカつくことをしてきたんですが、正直言って俺のほうが積極的に誤解を引き起こしておりまして、それを謝罪したいという思いもあります。言い訳ではなく完全な謝罪ですね」
「佐倉君に限ってそんなまさか、と思うんだけど、まあそれはいいよ。でも言い訳を必要と思ったっていいんじゃないか?それこそ積極的な必死な言い訳をしたっていいと思う。正直な言い訳なら俺は歓迎するよ。だってそうだろう?ただ謝られたって何の解決にもならないじゃないか。筋が通る言い訳をしてくれたら、もしそれが納得させられるものだったら、本当の意味で一見落着だろ?ただ謝るだけで真意がわからないとしたら、それこそ気持ち悪いもんな。うん、完璧な言い訳ってのを聞いてみたいかもしれない。とにかく正直な言葉をくれるなら、ある程度は伝わるんじゃないの?上手く言えなくて悪いけどさ」
積極的な言い訳、正直で必死な言い訳―――一生懸命それをしたことは一度もなかったと、佐倉は思うのだ。
今も昔もそうだった。
それをやっている人間もそうそう見かけない。
佐倉が知っている限り、一人だけだ。
甥であって父である人、その人はそれをやってのけたと思う。そして幸せを見つけた。
その幸せの先に自分が生まれたことは、完璧な奇跡だ。
「権藤さん、やってみますよ。正直で必死な言い訳を積極的に行うことにします。ありがとうございます。やっぱり権藤さんに相談してよかったです。絶対に答えを得られると思っていました」
「なんだよもう、佐倉君は訳がわからないよ。でもまあよかったよ。学生時代の友達かなんかかな?仲直りでも和解でもなんでもいいが、うまくやってくれよ。
そんなことより――栄太郎が言ってたんだけどさ、結局どうなってんの?彼女、遠山さんとはちゃんと話したのかい?君の気持ちはダダ洩れだって栄太郎が言ってたよ。後部座席の真ん中で、栄太郎は血圧が上がって死にそうだったってさ。信号のたびに見つめあっていたそうじゃないか!いつまでもウダウダやってないで、はっきりスッキリ告白しろよ!栄太郎は中学生の恋愛みたいだって言ってたぞ、全く!多分遠山さんもまんざらじゃないから。それについては俺が保証するよ、ついでに言うと栄太郎もそうだってさ。静ちゃんも呆れているそうじゃないか、早くちゃんとしないとな」
権藤の言葉に背中を押されるかといったら、そう単純なことではない。
引き気味の空飛ぶカァちゃんの様子を思い出して、中学生の初恋を繰り広げている佐倉には、開明墨汁の文字練習と同等か、それ以上に心理的ハードルが高い。
「静ちゃんには、ママを上手く丸め込むしかないだろうね、って言われましたよ。誰かを丸め込むのは結構得意な方なんですが、彼女にそれをやって嫌われたら耐えられない気がします」
「丸め込むだって?静ちゃんもうまいこと言うじゃないか!栄太郎が言うには――あの子もよく見てるよな、笑っちゃうよ。栄太郎が言うにはさ、これ以上遠山さんを真っ赤にさせたら大変なことになるってさ。こればっかりは佐倉君が悪いって言ってたぜ?いいか、覚悟を決めるんだ。自分でも自覚がなくて、よくわかってなくてもいい。どうせすぐに自覚するさ、いいか、好きだって言うんだ。結婚してくれと、父親にさせてほしいと言うんだよ。彼女が気兼ねしないように気遣うだけじゃだめさ、グイグイ行くんだよもっと。もうそこら中にバレてんだから。飯田さんの最近の楽しみだそうじゃないか!これ以上笑いの種にされる前にとっとと告白するんだよ」
権藤にガンガン言われて、佐倉が立ち上がったのは数日後。
古書店巡りの時のように、会話の段取りを組み、最終的に行きつく言葉にもっていくまでの数パターンを頭に叩き込んだ佐倉が、やっと空飛ぶカァちゃんにかけた電話の、最初の一声はこうだった。
―――「気味が悪いと思われるかもしれませんが、どうしても最後まで聞いてほしいことがあります」
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