141.美女から美女への求愛(1)
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古書店巡りの翌週土曜日。
わりと朝早く目が覚めた空飛ぶカァちゃんは念入りに掃除機をかけ、まめに換気をし、爽やかな香りの精油をアロマストーンに垂らしたり、飲み物の確認と準備でキッチンをうろつきまわっていた。
買い物は全て政府の指定する通販なので、急な来訪者をもてなすためのご馳走の材料が十分にあるわけではなかったが、運がいいことに、先日の古書店巡りの途中に佐倉のおすすめのチョコレートのお店に立ち寄ることが出来たので、せっかくだからとそこで沢山のチョコレートを買っていた。
それだけでなく、静と英介が佐倉の実家にお世話になっていた時によく食べさせてもらったという、佐倉おすすめの店の冷凍ベルギーチョコレートケーキや生チョコのクッキーサンドまでストックしてあったので、甘いものが大好きな佐倉を何とかもてなすことは出来そうだった。
佐倉は電話で『櫻子さんに迷惑がかかるようなことにならないよう十分に注意して伺いますので』と言っていた。
それに妙なことも。
―――気味が悪いと思われるかもしれませんが、どうしても最後まで聞いてほしいことがあります。
気味が悪い、というのはどういう意味で言ったのだろうか。
佐倉はよく、自分は恥ずかしい人間だとか、最悪だと言ったりする。
自分の本性を知られたら軽蔑されてしまう、嫌われてしまうかもしれないなどと言うこともあった。
佐倉が隠すこともなく見せつけてくる好意を決して迷惑に思うことなどないし、むしろあそこまでまっすぐに、大事に思ってくれていることを態度にあらわされることが続けば、嬉しくてありがたいと思いこそすれ、軽蔑したり嫌ったりするわけがない。
空飛ぶカァちゃんは本当に心からそう思っているのだが、自分の常識が同世代の一般女性の感覚とかけ離れたものである可能性もあると思っていた。
自分の感覚がずれている可能性は非常に高いのだと、そう感じてもいたのだ。
空飛ぶカァちゃんは若い時分に『公男のような男』に縛り付けられてしまったために、女性が一番輝くいい時期に、男性がどんなふうに女性を扱ってくるのか、あるいは、好きな相手を大切だと表現する際の行動にどんなパターンがあるかなど、身をもって感じることができなかった。
そのため、土曜日に英介が言っていた言葉にハッとさせられた空飛ぶカァちゃんは、あれから佐倉の顔をまともに見られなくなっていた。
英介は感じたままをストレートに言っただけなのだろうが、空飛ぶカァちゃんはその言葉にズキリと胸が痛んだ。
-----二人は付き合うつもりはあるの?
ベタベタして、こっちが恥ずかしい。すごいことばかり言ってる。
ニコニコして普通な感じにしてるかあちゃんもおかしい。
あんなこと言われたら、普通はいいか悪いか答えるもんなんじゃないの?
だからって何を答えろと言うのか。
なにか質問されたわけでもないのに答えられるはずがないじゃないか。
空飛ぶカァちゃんはこう思った。
-----佐倉さんは付き合ったり結婚する気もないのに女の人にそんなこと言うの?
プロポーズみたいなことを言われたらどうしたらいいのかわからなくなる。
はっきりそういうことを言わないくせに、なよなよして気持ち悪い。
もし俺が言われたんだったら気持ち悪いと思うよ。
佐倉さんはかあちゃんをどうしたいの?
ボウリングのレーンのところで英介がプロポーズという言葉を口にした時、空飛ぶカァちゃんは少し頭が冷えた。
プロポーズなんてされたこともない。
それらしい言葉も一切聞けなかった。
このことは、もちろん仕方がないことだったとは思う。
でもずっと長い間、プロポーズという言葉を耳にしただけで不愉快になった。
公男の母親は『ちゃんとしたお嬢さんは、きちんとプロポーズから婚約、結婚と、ちゃんと段階を踏むものよね』などとよく言ってきた。
腹が立つことに、公男という男は、こう言っている義母に向かってうんうんと頷いたりするのだ。
大きなお腹をじろじろ見つめられて、その義母はこう言うのだ。
『自分の立場をわきまえて尽くしなさい。あんたにできることはそれだけでしょ?』
婚姻届に署名するという行為は、空飛ぶカァちゃんにとって『これからの立場』というものを思い知らされるための残酷な儀式でしかなかった。
両親にはとてもじゃないが正直な気持ちを言えなかった。
就職も、将来も、空飛ぶカァちゃんの手のひらから、あっという間に零れ落ちて行った。
静にはとてもじゃないが言えないことだが、妊娠中、一人になるとよく泣いていた。
なぜこんなことに、と思ってしまう自分を軽蔑したりもした。
でもそれは、生まれてきた娘を腕に抱く瞬間までのことだ。
本当にこの子を、守りたいと思ったのだから。
離婚の話し合いの時、空飛ぶカァちゃんは公男に『静が生まれて幸せだった』と言った。
この気持ちは本心だったが、静を何から守りたいか、については公男に正直に話すつもりはなかった。
空飛ぶカァちゃんは思う。
自分は本当に歯を食いしばった、頑張って守り切ったのだと。
あの家から、公男から、静という素晴らしい娘を守ることが出来た自分は、なかなかのものじゃないか?
英介もそうだ。
公男や義父母から何を言われても、英介の持って生まれた優しさが曲がることはなかった。
どんなに苦しくても、辛くても、誠実であろうとした英介を育てたのは自分なのだと思っていた。
子供は夫婦で育てるものだ、一人で育てたつもりなのかと非難を受けたとしても、空飛ぶカァちゃんは断じてこう言い返すだろう。
子供たちが一番苦しんでいた時期に、公男が子供たちにどんな言葉をくれたというのだろうか?
苦しみ痛めつけられていた妻に対して、あの男がどんな優しさを見せてくれただろうか?
だから、そのくらい自惚れて言い切ったところで、誰も自分を責めたりできないはずだと、空飛ぶカァちゃんは思っていた。そのくらい思ったっていいだろうと。
結婚した瞬間から『夫と夫の家族』対『ひとりぼっちの自分』という勝ち目のない戦いが始まったが、もう参戦する気も起きなかったし、実際できるはずもなかった。
それほどまでに遠山の家は空飛ぶカァちゃんを壊してしまっていた。
何度も死を考えてしまうほどに、叩き潰してきたのだ。
プロポーズ、婚約、結婚なんて、これから未来のある人間だけが期待できるものだ。
手のひらから夢や将来が零れ落ちて、その欠片が吹き飛ばされて行く瞬間を、ろくに抵抗もせずに見送った間抜けな自分が、そんなものを期待していいわけがない。
ましてや、それこそ将来のある佐倉に、何かを夢見たり期待の目を向けようとするなど、あまりにも図々しいことだ――空飛ぶカァちゃんは必死にそう思おうとしていた。
時分は年上の女性として、佐倉を傷つけずにさりげなく距離を置くようにしていかなければならない。
それなのに、あんなふうに言われ、見つめられ、手を握られてしまったのだ。
なんてあたたかい手をしているんだろう、空飛ぶカァちゃんはそう思った。
ほんのりとじんわりと温めてくれて、握られた時は気持ちが良かった。
だんだんと、少しづつ握り方が強くなって、ますます温まって嬉しかったのだ。
イタリアンのレストランで、佐倉が言ってくれた言葉を思い出すと幸せな気持ちがこみあげてしまう自分が怖くてたまらなかったが、もうどうしようもないのだ。
―――そんな意地悪ババアはもういませんから。俺が絶対そんな婆さんから守りますから。これはもう決定事項なんですよ。
なんて嬉しい言葉だろう、あの義母をそんなふうに言ってくれる佐倉はやっぱり空飛ぶカァちゃんの救世主に違いなかった。
さて、ついこっそり期待してしまったり、幸せな気持ちに浸ったりしながらも、結局はそれらの感情を自分の意志で手放すべきなのではないかと思い、考えこんでいた空飛ぶカァちゃんが、やっとソファーに腰を落ち着けた時だ。
空飛ぶカァちゃんをビクリとさせるインターホンが鳴った。
すぐに立ち上がり、モニターを確認すると女性が一人立っていた。
「え?」
空飛ぶカァちゃんはゾクっとした。
安全のために、日々の生活用品や食品を購入する店は指定されたところに限られていたし、配達時間を前日と当日1時間前に必ず連絡してくれることになっており、管理人による開錠が基本で空飛ぶカァちゃんはインターホンに答える必要もなく、常に置き配のはずなのだ。
そのため、ここにいきなり見知らぬ人間が訊ねてくるはずがない。
予定のない訪問者があれば、無視するように言われているので何も答えずにいると、再度インターホンが鳴らされた。
念のためにモニターを見てみると、その女性は手を振ったり、紙袋を見せつけてきた。
長七郎和菓子店の袋だ。
そして、用意していたのだろう『秘密のデパート経営者』とマジックで書かれたメモを顔の前にもってきて指をさし、ニヤリと笑って見せてきた。
空飛ぶカァちゃんはすぐに開錠した。
そして数分後、玄関で待ち構えていた空飛ぶカァちゃんに、背の高いバレーボール選手のような混血美女の笑顔が炸裂した。
「櫻子さん、いかがです?慶次の公妃なんかよりずっといいでしょう?」
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