138.佐倉の大切な二人の娘
―――本を渡す時に立ち会わせてほしい。
静のこの申し出は、佐倉のためだということがすぐに分かった。
きっと、取り乱したり泣き出したりしないように、いつものようにふざけてとうちゃんの肩を持ちながら、佐倉を支えるためにそこに居てくれようとしていることが、佐倉にはよく分かるのだ。
「ほら、佐倉さんのとうちゃんがこれをどこで見つけたのか、とかさ。色々訊かれた時に私がその場にいた方がいいでしょ?それに、佐倉さんが今みたいに泣いちゃった時にどうなるかって、それが心配なんだよね。私が一緒にいたら、佐倉さんも私が妙なことを言い出さないかが気になってさ、あっちこっち気をまわすはめになって、とうちゃんに集中しないで済むと思うんだ。だからね、一緒にいるよ、いいでしょ?」
佐倉はこれ以上自分を泣かさないでくれと思った。
こんなふうに茶目っ気のある笑顔で言ってくる静の優しさが、佐倉の心にしみてくるのだ。
静だって英介と同じようにずっと傷ついてきただろうに、強がる静を気遣う者はきっと少なかったのだろう。
傷ついた自分を知られたくなくて、平然としていた静が実際はどれほど辛かったのか、やっとまわりの者が気が付いた。
この配信――
【海水浴場での事件を考える】
~嘘と暴力に傷つけられない学校環境をつくるために~
謝罪そして信頼を取り戻すための地域対話
この配信がなければ、静が小学校でどんな嫌がらせを受けていたのか、共に暮らす家族だってわからなかっただろう。
英介は自分のことで精いっぱいだっただろうし、静が自分から打ち明けない限り学校で起こっていたことを親も祖父母も把握できるはずもないのだ。
気が強いだけでなく、しっかりしていて面倒見もいい静を積極的に気遣う大人はあまりいない。
学校生活においては、たとえ辛いことがあったとしても、本当に平気そうに耐える子がいることを、教師だけは絶対にわかっているはずなのに、決してそれを口にしない。
静とは決して共通の物差しではかれる話ではないが、海難事故の原因を作ったアキラの状況がずっと加害者の立場でしか伝えられていなかったこともこれと似ている。
実際は、アキラの周囲にいる者たち、他者を傷つけ虐げることを楽しむ者たちが実行犯だったのに、それら全てがアキラの指示のような言われ方をされていた。
苛めのような扱いを受けていた英介の友達が『アキラから何か酷いことをされたことは一度もなかった』と言っていたが、目つきが鋭く体の大きなアキラを隠れ蓑にして、陰湿な実行犯が好き放題弱い者を苛めて楽しんでいた、というのが現実だった。
アキラはそれを助けなかったのだから同罪だと言う者もいるだろう。
無関係な者がいかにも客観的に物事を見ている気分で軽々しく判断すればそうなってしまうかもしれない。
佐倉も、最初からずっとアキラの親とアキラという子を軽蔑し、徹底的に潰してやろうと思っていたのだから。
佐倉のその苛烈な感情を英介のまっすぐな優しさが揺らせたのだ。そして、英介とアキラが培ってきた小さな、幼い友情が佐倉の矛を収めさせてしまった。
遠い昔。『虹色の音符』の作者だった頃のことだ。
糸数万理という女性が娘のように可愛がっていた美しい少女がいた。
その少女と静はどことなく似ていた。
あまりにも愛しかったその少女を守りたくて、幸せにしたくてたまらなかったのに、自分の苛烈な感情と過去の傷を捨てきれない執念深さが、その幸せを奪ってしまった現実を、糸数万理という人間は透明な書棚の前で何年も何年も見つめ続けた。
傷つけてしまった甥に読んでほしくて書いた初めての小説を、出来上がったその本を、甥が見るのも汚らわしいもののように処分した瞬間も、その目は見つめていた。
その本は、糸数万理の父がくれた大切な言葉たちがほとばしる小説だった。
いつも自分を支えてくれた父の言葉を、たった一人の甥にも同じように届けたかっただけなのに、糸数万理が父の真似をして口にすると、その父の魔法の言葉は、なぜかガラスの破片のように甥の心を傷つける言葉に変わってしまうのだ。
なぜだろう?同じ言葉なのに、父と同じことを言っているのに、糸数万理から出る言葉はたった一人の甥を徹底的に傷つけるだけだった。
翻訳をする際、あれほどまでに作者を見つめ、その心の内を知ろうとつとめ、その時代を思い、登場人物が見たものを頭の中で膨らませ、彼らの視線を追い求め、ひとつひとつの言葉を大切にあらわすことに生涯をかけていたというのに、たった一人の妹の忘れ形見に嫌われ、軽蔑され、最後はその甥がどこにいるかもわからなかった。
自分が死んだ時、甥は海外であちこち飛び回っていたので連絡がつかなかった。
糸数万理はかつてない寒さの冬、その年一番の寒い日に死んだ。
たった一人で死に、見つけてくれたのは出版社の担当者だった。
彼が自分を見つけてからのことは、透明な書棚の前で見ていたのでなんとなく覚えているが、感謝ばかりでそれ以外の感情はない。
ただ、やっと連絡が取れた大切な友と、その友の娘である大切な大切な子の悲しみを眺めて過ごした日々は辛くもあったが、死人の心をあたためてくれるものでもあった。
悲しみ泣いてくれる親友とその友の娘が、命を終えた糸数万理の名を呼んで叫んでいる姿が、寂しく死んだ心を抱きしめてくれた。
甥は私の痕跡を消したかったのだろう。きっともう、何もかもを見たくなかったのだろう。
そして、そう思っている甥の姿を、その時、透明な書棚の前に立っていた佐倉は見てしまったのだ。
たった一人というのは辛いものだ。
見ているだけで何もできないというのがどんなに情けないことなのか、多くの者はあまり知ることもないだろう。
そうなってみて初めて気づくのだ。
―――ああ、もうあんたには何もできないよ。
ああ残念だ。
手遅れ、自業自得、因果応報、軽蔑、嫌悪、諦め、涙、無。
あんたにはそんな言葉がよく似あうよってね。
あの本は消えてしまった。
父の言葉を――自分のせいでガラスの破片に変わってしまった大切な言葉たちが
それを届けたかった相手の甥が、容赦なく捨ててしまったんだ。
糸数万理と懇意にしていた近所の奥さんが、ゴミ捨て場に置かれた多くの本を涙を流しながら何冊か拾い上げているところを見た。ああ、なんてありがたいことだろう、そう思った。
そして、気の毒なことに不愛想な糸数万理の担当にさせられた気弱な出版社の担当も、花を置きに来た時に本を拾ってくれた。
彼は怒ってくれていた。
―――こんなに素晴らしい本を、一体誰がこんなところに捨てたんだ!
これを聞いて少し心が救われた。
死んだのに涙が出ていた。
面白いと思った。涙もため息も沢山出たし、生きている時と同じように苦しみもまだ続いていた。
そう、そんな話だ。
情けなくて恥ずかしい、捨てられた本の話だ。
佐倉が思う。
―――静ちゃん、私は思ったんだ。
オキが、あの子が、あの書きかけの言葉を見たらどう思うかってね。
私は恥ずかしいよ。もしかしたら私の死を少しは悲しんでくれるかなって。
一応、たった一人の肉親だからね?
もしかしたら、少しくらい何かを思ってくれるかもってね。
こんなことを思ってたなんて、本当にみっともない伯母だよ。
静ちゃんに笑われるかな?
だから、捨てられた本のことは考えないようにして過ごしていたんだよ。
静ちゃん、それなのにね、笑ちゃうったらないよ。
甥と私の娘――親友の娘だけど、その子は再会して幸せになったんだ。
そして、私を生んでくれた。高齢出産だったんだよ?
私をすごく健康に生んでくれて、二人はいとも簡単に私に幸せをくれたんだ。
私には人を幸せにすることができなかったのにね。
そうしたらね、父と母になったその二人は、私の本を探していたよ。
もう必死になって探してた。
母になった『私の娘』のために、この私も必死になって探したんだけどね。
見つからなかったよ。
静ちゃん、知ってるだろう?
櫻子さんはね、私の本を集めてくれていたんだ。
そして『虹色の音符』もね。
このことを、静ちゃんから聞いた時の気持ちはきっとわからないだろうよ。
静ちゃん、そしてあの書きかけの見本本。
処分する前に、甥がアレを開いたかどうか、それは定かじゃないけれどね。
あそこでよく考えたものだよ。
アレをあの子に見られたら、恥だったかもってね。
だってそうだろう?あんなに嫌われていたのにさ、あんなもんを残して、
それだけでなく言葉を残そうとしてたなんてあまりにみっともないじゃないか!
だからホッとしたのさ。
ねえ、きっと私はホッとしていたんだと思わないか?
実はあそこにいた時の感情を、思い出せないし、思い出したくないんだ。
だからきっと、見られなくてよかったと思ってたに違いないんだよ。
静ちゃん、それなのに静ちゃんはとんでもないものを見つけて来たね。
何かの魔法なのかい?
これは何かのサインなのかい?
誰か、教えてくれないかね?
「佐倉さんったら!泣いたり笑ったりなんなの?なにがおかしいの?返事もしてくれないでさ、ニヤニヤしちゃってさ。だから英介にナヨナヨ男って言われんだよ?全くさ!……で?私はいない方がいい?この最強の私についていてほしくないの?」
静のためにこう言うしかないだろう。
「お願いするよ静ちゃん。俺が頼めるのは静ちゃんだけかもな。それで、あの続きを書けっての?でも、とうちゃんがそれを欲しがるかどうだかね。おれはマザコンの意地悪息子だからね」
「ほんとだよ。英介と栄太郎なんかもう、とうちゃんに同情して甘いったらないよ。まあ私もおんなじだけどさ。父ちゃんがこの本を欲しがるかどうかって?そんなこともわからないの?情けなさすぎるよ佐倉さん!とうちゃんはね、秘密だって言われてたけど、佐倉さんがあまりに情けないからちょっとだけ教えてあげるよ。これはこの前、とうちゃんから聞いたんだ―――いい?とうちゃんはね、あの本をずっと探してくれてた佐倉さんにすごく感謝してんの。それで、佐倉さんのことをね、意地悪な伯母さんの生まれ変わりなんじゃないかって思ってるんだって。守護霊になって後ろについているんじゃないかって言ってたんだよ。それでさ、意地悪で口うるさいところがそっくりだって笑ってたんだ。あと、それだけじゃないんだよ―――とうちゃんはね、宇宙一の意地悪ばあさんの伯母さんを、たった一人で死なせてしまったことを苦しんでた。ペラペラしゃべって、私ったら約束破りになっちゃうけどさ、必要な時に破るのは仕方ないよね。それでね、こう言ってた。伯母の天敵の自分と伯母のことが大好きな母さんが育てたから佐倉さんはあんな中途半端な伯母のそっくりさんになったんだって!」
佐倉はなかなか声が出せなかった。こんな時にいつものように笑顔を作ってそれっぽいことを言える人間がいるだろうか?―――佐倉はそう思った。
静ははあっとため息をついて、ものを言わない佐倉を睨みつけた。
「全くさ、とうちゃんに軽蔑されたくないから私がペラペラしゃべったことは言わないでよね。でも、一番大切な作曲と作詞に関する秘密だけは言わないから。私だけに教えてくれたテクニックに関することだから佐倉さんには絶対言わない」
作詞作曲のこととはなんだろう?―――佐倉は現実に戻ってきたが、父親がよく素敵なメロディーを弾いていたのでそのことかと思った。
佐倉はやっと声を出した。
「私の守護霊か!とうちゃんらしいね。あの人は意外とオカルト系の話が好きなんだ。あと本人も良く言ってるだろう?スピリチュアルな話とか番組も実は大好きでさ、でも一人で見るのが怖いからってよく付き合わされたよ―――静ちゃん、俺が伯母の記憶を持った、その、伯母そのものだってことをとうちゃんは気づいていないよね?」
佐倉は不安そうにこう訊いた。
「全く。伯母さんが意地悪で口うるさい人って言ってたし、佐倉さんにそっくりだって言ってたけど、まさか伯母さんの記憶持ちだなんて思ってないよ」
「そうか。静ちゃん、そのことは黙っていてもらえるかい?二人だけの秘密にしてくれる?」
佐倉は笑顔だった。
約束破りの静の話は佐倉を救ったようだった。
「もちろん。元からそのつもりだった。佐倉さんはとうちゃんと母さんの息子だもん!これはもう決定事項なの。わかってる?」
「ああ。ありがとう静ちゃん。本当に俺は、」
静がもう一つ、約束破りをしてみせた。
「佐倉さん、とうちゃんはね、言ってたんだ。宝物なんだって。どんなに意地悪でも、生意気でも、佐倉さんが最高の宝物なんだって!―――でも、約束破りの私の言葉を信じてくれる?」
涙が止まらないけれど、これ以上の約束破りがあるだろうか?
佐倉はその本を胸に抱いた。
大切そうに抱いていた。
―――最高の約束破りをありがとう、静ちゃん。
「静ちゃん、かあさんのことはね、本当に大切に思っていたんだよ。娘のように、宝物のように思ってた。でも、娘は卒業だ。あの人は大切なかあさんだ。マザコン息子はそう宣言するよ。証人になってくれよ」
「わかったよ。証人になります。意地悪ばあさんは意地悪息子になったってことだね」
「そうだよ。それでさ、娘を失ったからには代わりの娘が必要だと思わないか?」
「確かに。寂しがり屋の佐倉さんには必要か……うーん、同情するよ」
「静ちゃん、静ちゃんが代わりに娘になってくれる?ついでに英介には息子になってもらうってのはどう?」
佐倉は思わず言ってしまった。
まだ空飛ぶカァちゃんと話をしてもいないのに、佐倉はまたやってしまったようだ。
英介がここに居たら、今度はこう言われるだろう。
―――ねえちゃんがその気になっちゃうじゃないか!
ねえちゃんが期待したらどうするんだよ?
かあちゃんと佐倉さんが結婚するかもって期待させるようなこと言うのはダメだって!
しかし佐倉はもう振り切ってしまったようだった。
その本を胸に抱え、散々泣いて、そして静から聞いたとうちゃんの言葉が優しく傷を癒した。
そして、静のひと言ひと言が、心にゆっくりしみていった。
静はもったいつけずにはっきりと答えた。
「それはとてもいいね。私は嬉しいよ。英介もそうだろうね、佐倉さんが大好きだからさ。でもママはわからない。佐倉さんが上手く丸め込むしかないだろうね。ガンバ!」
「ああ、そうするよ。自分の感情を分析してどうのこうのやったって結局何もわからなかった。でもわかっていることがあって、それが特別な感情だってことさ。静ちゃんのおかげで娘が一人いなくなって、代わりに一人やってきて、ついでに弟も連れてきたこの日を記念して、私は最後の仕事をするよ。静ちゃん、この本に墨で続きを書き入れるよ」
お読みくださりありがとうございます。
ちょっときつい展開でしたが、少しずつ明るくなっていきます。
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