137.その先の文字を入れてください
◇◇◇◇◇
ボウリングの後に卓球台のほうに移動し『英介&栄太郎 vs. 静』で何セットか戦った後で、今日の『第一回 古書との出会いツアー』はお開きになった。
二対一で戦った卓球でも、男子二人は静に勝てなかった。
勝ち誇った顔つきで英介をからかう静を睨みつけ、英介は歯を食いしばった。
そして、栄太郎がそれをなだめる図をニコニコ笑いながら空飛ぶカァちゃんが写真に収めたりした。
佐倉はもう、子供たちの写真を撮る気力を失っていた。
卓球台の近くにはソファスペースなどはなく、小さなスツールが置いてあるだけだったが、最初はそこに座って当たり障りのない会話をしながら子供たちの対戦を見守っていたが、途中で空飛ぶカァちゃんが気まずさに耐えられなくなり、立ち上がって写真を撮りだしたので佐倉もそれに付き合った。
何度やっても二人は静に勝てなかったが、それでも最終試合では意外と健闘した二人だった。
『二人対一人』で4点を取って大喜びしている二人を見て佐倉はクスクスと笑ったが、午前中のような快活な笑顔はもう見られなかった。
帰りの車の中、佐倉は空飛ぶカァちゃんに、頭から注意深く『羽』をのばし、後部座席の静に気づかれないように、一番太い輝く羽をこっそりと飛ばした。
---(櫻子さん。明日お時間をいただけませんか?飯田さんには家庭の急用ということにしますので。車で迎えに行きますから、あの喫茶店の個室でお話ししたいのですが)
佐倉の誘いに空飛ぶカァちゃんがイエスと答える前に、後部座席の静が話しかけてきた。
これは本当に偶然だったのだが、佐倉はびくっと肩を上げた。
「佐倉さん、私、佐倉さんに渡したいものがあるんだけど、明日どこかで会えないかな?今日はそれを家に置いてきちゃったから渡せなかったんだ。できれば早く渡したいんだよ。あと、実は四月の校内実力テストの対策でまた英語を見てもらいたいんだよね。ちょっと今回気合い入れてるんだ。ダメかな?」
佐倉はちらっと空飛ぶカァちゃんを見たのだが、空飛ぶカァちゃんはそれには気づかず慌ててこう言った。
「静、佐倉さんは今日丸一日を使ってくださったのよ。そんな明日もだなんて!それに自分の勉強をみてほしいだなんて、迷惑になるじゃないの」
静はあの本をすぐにでも佐倉に渡したかったのだが、こんなところでお願いしたのが馬鹿だったと思いながらいったん自分の希望を引っ込めた。
「確かに。佐倉さんも疲れちゃうよね。わかった、私が来週中に議員会館の近くまで届けるよ。それでいい?」
佐倉は明日は空飛ぶカァちゃんと二人で話す時間を作りたいと思っていたのだが、静がこんなふうに自分から会いたいと言ってきたので心配になった。
あの高崎での日。静が泣きながら電話をしてきたことを思いだしてしまい、佐倉は思わずこう答えてしまった。
「うん、いいよ。午後はちょっと約束があるんだけど、午前中なら暇だから迎えに行くよ」
「迎え?そんな平気だって。帰ったらメールするよ、わざわざ車なんて出さなくていいから。ありがとう佐倉さん」
静は嬉しそうにこう言い、なんとなくホッとした様子だった。
佐倉はすぐに空飛ぶカァちゃんに羽を飛ばした。
---(櫻子さん、すみません。なんとなく静ちゃんが心配なので午前中は静ちゃんに会ってきますね。午後にお迎えに行きますので)
――『佐倉さん、娘がすみません。いつもこんなふうに無理を言って甘えたりしているのでしょうか?』
空飛ぶカァちゃんが心配そうにテグスを伸ばして訊ねて来たので、佐倉はすぐに答えた。
不安な気持ちにさせないように、安心させるように佐倉は言った。
---(静ちゃんが無理を言ったりするわけがないじゃないですか。静ちゃんはいつだって、まわりのことばかり考えてますよ。意地悪を言っているように見せかけて、実はすごく優しいんです。本当に、すごく優しい子なんですよ。きっとテストのこともあるし、もしかしたらなんか俺にプレゼントしてくれるのかな?ちょっと期待しちゃうな。この間、参考書のお下がりを上げたお礼かもしれませんよ)
――『そうですか、本当にすみません。娘のためにありがとうございます。でも佐倉さん、午後はどうかゆっくり過ごしてください。お話はまた別の日にゆっくり……そうしませんか?』
佐倉は優しくそう言われると、どうしても明日会いたいなどとは言えなくなった。
今日、自分の無神経な振る舞いのせいでこんなことになってしまい、本当はどうしようもなく会って話をしたかったのだが、静との時間をせかして過ごすようなことになるのも避けたかった佐倉は仕方なくこう答えるしかなかった。
---(そう、ですよね。わかりました。でも近いうちに必ずゆっくりお話ししたいんです。それに、また電話でお話ししてもいいですか?俺は、櫻子さんと話していると時間を忘れてしまいそうになる時があるんです。もしかしたら俺ばっかりしゃべってるかもしれませんが。すみません、なんかしつこい奴みたいですみません。また電話してもいいでしょうか?)
佐倉のストレートな言葉は空飛ぶカァちゃんの胸をどきどきさせてしまう。
しかし英介が言っていたように、なよなよしているとか、ベタベタしすぎだとか、ましてや気持ちが悪いなどとは全く思わなかった。
佐倉がまっすぐに言ってくれる言葉そのものが、いつだって心を温かくさせてくれたのだから。
だから、かぶせるように、すぐに空飛ぶカァちゃんは答えた。
――『佐倉さん、私もお話ししたいです。本当にそうしたいんです』
佐倉はこう優しく言われてやっと安心できた。
そうしたいと言われて、死ぬほど嬉しかったのだ。
信号で止まるたびに助手席に顔を向けて、空飛ぶカァちゃんと目が合うとほうっと息を吐いて嬉しそうに微笑む佐倉を、後部座席の真ん中に座っている栄太郎は何度も見た。
まだ小学生の栄太郎はこんなふうに思った。
―――『まるで中学生の恋愛みたいだ!』
それほどまでにこの二人の感情は外に漏れだしていた。
相変わらずの口喧嘩の後、窓の外ばかり見ている静と英介の間に挟まれ、前を向くしかない栄太郎だけが、この二人を見守っていた。
やっと終わる『第一回 古書との出会いツアー』に疲れを感じながらも、栄太郎はここにいる自分がとても幸せに思えた。
両隣に友達が座っていて、自分を信じてくれて、いつでも電話して来いと言ってくれた友達の言葉を思い出し、栄太郎も佐倉のように微笑んだ。
◇◇◇◇◇
静との待ち合わせは古い官舎近くの喫茶店だった。
あの事故の日に、麹町と佐倉を乗せて病院まで車で送ってくれたこの喫茶店のスタッフには、あの後それほど日を空けずにお詫びと御礼で挨拶に来たのだが、当然ながら御礼については慎重に行われた。
あの夜、佐倉の醜態のせいで支払いすらできなかった分の飲食代金は、厳格に証拠が残る形で返済し、後日改めて、店員三人宛てに、麹町から自筆の手紙が送られた。
長く丁寧な、心のこもった手紙だった。
もともとここの常連のようになっていた佐倉は、あの日以降も時々この喫茶室に立ち寄ったし、佐倉の身内や友人までもがここを訪れることで、少しずつあの日の恩を返している最中であった。
待ち合わせの三十分以上前に、先に静が入店していた。
明るい窓際の席に座り、半透明のブックカバーをかけた『虹色の音符』を桜色のクリアホルダーに挟み、ここに来る途中に立ち寄った大きな文具店で買った綺麗な紙袋に入れていた。
座席に置かれたその袋を見て、静はドキドキしながら佐倉を待っていた。
それから15分くらいが経っただろうか、佐倉が店に入って来た。
店長は「あっ、佐倉さんこんにちは。この前は本当にどうもあり、」と言いかけて、すぐに言い直した。
「この前は、頼んでいたものをわざわざ届けてくださりありがとうございました。お父さんがわざわざ持ってきてくださったんです。本当にお手数をおかけいたしました」
佐倉はフフッと笑いながら「いえいえ、お役に立てて良かったです。今日もご注文の品を預かってきました。私がこちらにはよく伺うので今日も頼まれまして」と言い、チョコレート菓子と佐倉の父の会社で毎年キャンペーンで出しているコラボTシャツを三種類手渡した。
先日、英介が佐倉の父からもらったキャンペーンコラボTシャツの、去年と一昨年分を含めた三枚である。
手さげ袋の中を見て、店長がなんとも申し訳なさそうな、ありがたいような、複雑な表情をしたが、すぐに佐倉のためにこう言った。
「全く!佐倉さんのようにお忙しい方に、こう何度もお願いするなんて、とんでもない業者さんですよね。僕も申し訳ないのであの業者さんにはもうこれ以上、こんなふうに佐倉さんにおつかいをお願いするのはナシにしていただきますね。ありがたいのと申し訳ないのとで心臓に悪いので。もちろん、心臓に悪くても佐倉さんに文句などありませんから!ただ申し訳なくてありがたいだけです。本当にお届けくださってありがとうございます。今後はこんなことのないように本当に言っておきますので」
店長は深々と頭をさげ「可愛らしいお嬢さんがお待ちですよ。個室は取ってありますので」と言い、静に笑いかけた。
静は店長と佐倉のやり取りをぼんやりと眺めていたが、挨拶が済んだのを見て取るとサッと立ち上がった。
店長は奥にある小さ目の個室に案内してくれた。
佐倉が静のおかわりのカフェオレを注文し、自分のコーヒーと二人分のケーキやアイスを頼んだあと、それが届くまでの間は二人で取り留めのない話をして待っていた。
店長自ら、飲み物とケーキとアイス、そしておまけのクッキーが数種運ばれてくると、静は嬉しそうに店長にお礼を言った。
まずアイスを食べ、そしてケーキを頬張り、佐倉がリラックスしていると思えた頃に、静は綺麗な紙袋を差し出した。
「佐倉さん、これ。私からのプレゼント」
「ええっ?俺に?嬉しいな、もしかして俺に渡すのを忘れてたバレンタインとか?それとも、家庭教師の御礼かな?」
佐倉は嬉しそうに「ありがとう静ちゃん、開けていい?」と訊いた。
静が頷くと、袋から桜色のクリアホルダーを取り出した。
それに挟まれた一冊の本を見て「あれ?これ、あの本じゃないか。もしかして、俺とかあさんのために探してくれたの?」と、佐倉は優しげに微笑んだ。
丁寧に半透明のカバーをかけたその本を、なかなか開かない佐倉に、静はじりじりしていた。
佐倉は「そうか。もしかして、昨日どこかの古本屋でこれを見つけたんだね?どこの本屋にあったの?もしかして二軒目のところかな?それとも、高田馬場か?」と言い、静をじっと見つめ首をかしげた。
静が高田馬場だよ、と答えると、佐倉はその本を胸に抱きしめた。
本当に嬉しそうに大切そうに。
「静ちゃん、ありがとうね。俺のためにありがとう。静ちゃんには俺の――本当に嫌な部分を色々見せてしまったっていうのにさ。こうやって、こんなふうに優しい気持ちをくれるんだ。嬉しいよ本当に。これを静ちゃんがプレゼントしてくれるなんてさ、本当に幸せだよ。ありがとう」
静は、佐倉のこの言葉にじんときてしまい、少しだけ涙が滲んだ。
何か言おうとしたが言葉が出なかった。
佐倉が嬉しそうに「今日はこれを渡すために会おうって言ったの?おかしいと思ったんだ、静ちゃんが勉強を見ろだなんて。四月の実力テストだなんて変だと思ったよ。とにかくありがとう。今日はね、午後の予定はなくなったんだよ。だからどっか行って遊ぼうか?」と言って、ニコニコしながら本を抱きしめたままなので、とうとう静がこう促した。
そうしてみるしかなかったのだ。
静は、今、本当にドキドキしていた。
―――佐倉さんが困っちゃったらどうしよう?
これって、途中で文字を書くのを止めているんだから、
やっぱり、何か思うところがあって、
この続きを書かなかったとかだったらどうしよう。
でも、今言うしかない。
佐倉さんの父ちゃんが先にこれを見てしまったら意味ないもんね。
覚悟を決めて静はこう言った。
「佐倉さん、その本開けてみて。表紙を開いてほしいんだ」
「ん?うん、今――」
佐倉は微笑みながら表紙を開いたが、見返しの所に書いてある墨文字を見た途端、優しげな綺麗な瞳が見開かれた。
あっ――とそう言うと、やはり佐倉の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。
ぽたぽたとテーブルを濡らしたが、静かに落ちる涙だった。
そして、涙を流す佐倉は、男性のようには見えなかった。全く見えなかった。
静には目の前に、一人の、とても美しく優しげで、そして、とても寂しそうな美しい女性の姿が見えたような気がした。
静まで佐倉のように涙が零れ落ちた。
小さな個室で、二人の瞳からこぼれる涙がテーブルを濡らした。
二人共、その涙を拭くこともせずに、気が済むまで、音も立てずに目の周りを赤く腫れあがらせた。
―――オキへ 見本本を受け取ったのでこれをあなたに贈ります。
もし、読んでもらえたら私は
こう書かれた『著者見本』の朱いスタンプが押されたこの本を見て、佐倉は傷ついてしまっただろうか?
それとも、見つかって良かったと、思ってくれただろうか?
佐倉の美しい表情を、勝手に読み取ることは静にはできそうもなかった。
だからせめて、佐倉の涙が止まるのを、静はいくらでも待とうと思っていた。
どのくらい経ったかわからない。
とうとう佐倉が口を開いた。
「静ちゃん、これね、きっと懇意にしていた近所の奥さんとか、あるいは出版社の担当が持っていったのかもしれないよ。あの子は――私の甥っ子だったあの子は、多分これを知らない。これを絶対に見ていないとは言いきれないかもしれないが、多分、あの子は見ていないと思う。私はこれをね、机の上に置いておいたはずなんだよ。出版社から私に送られてきた本はね、かなりたくさん箱に入ったままで私の机の横に置いておいたんだ。これは先に贈られた見本で、最初に届いた本だったから私はこれを、」
佐倉は言葉の先を言えなかった。
静は、佐倉と一緒に散々泣いて、その上でこう思った。
佐倉さんは、どんな気持ちだったんだろう?
佐倉さんのとうちゃんはこの本を――他の沢山の新品の本と一緒に、ゴミ捨て場に捨てたのだろうか?
そして、その様子を、佐倉さんは透明な書棚の前で、じっと見つめていたのだろうか?
どんなに悲しかっただろう、どんなに辛かっただろうか?
静は佐倉の、先に続く言葉を無理に聞き出すつもりはなかった。
ただ一緒に泣いて、一緒に悲しもうと思ったのだ。
今日、無理やり誘い出してよかった。
佐倉さんを一人ぼっちで泣かせることにならなくて、本当に良かった。
佐倉は自力で冷静さを取り戻そうとしていたが、静の優しさは力になった。
「静ちゃん、一緒に泣いてくれてありがとう。この『見本本』を探し出してくれて、私は、私がどんなにありがたいと思っているか。どんなに悲しくて、悲しいけれど、これを取り戻せたことをありがたいと思っているか、静ちゃんはわからないだろうよ。本当にありがとう。恥ずかしい私の、終わらせられなかった過去を、静ちゃんが取り戻してくれて、最後のチャンスをくれたんだね。私はこれをこの手に取り戻せて幸せだよ。静ちゃんが取り戻してくれたことが幸せなんだ。ありがとう」
―――また、佐倉さんのせいで涙が止まらないよ。
あの高崎の喫茶店で言ってくれた時と同じように、涙が止まらない。
私こそありがとう。
これを渡すことが、無神経なことなのか、それとも正しいことなのか、
判断がつかない未熟な私を責めることもなく、
ありがとうと言ってくれた佐倉さんが大好きなんだ。
静は、佐倉ならきっと許してくれるだろうと思って、子供らしい提案をしてみようと思っていた。
そして、いかにも図々しく、そうするべきだと言わんばかりの調子でこう言った。
そうする方がいいと思いながら。
何かが終わり、何かが始まると信じて言ったのだ。
「佐倉さん、このメッセージって途中で切れているでしょ?私ね、佐倉さんにその先の文字を入れてもらいたいんだ。それでそれを、とうちゃんに渡したらどうかと思うんだけど。それで――もし佐倉さんがイヤでなかったら、その時、私も立ち会わせてほしいんだ」
お読みくださりありがとうございます。
長くなってしまいました。どうしても切れなくなってしまったものですみません。
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どうぞよろしくお願いいたします!




