131.静が見つけた佐倉さんの本
とうとう佐倉の『古本屋めぐり行程表』が、その役目を果たす日がやってきた。
その行程表の最新版となっているはずの、この日の予定が書かれた小冊子は持ち運びやすいA5サイズでしおり仕様に整えられ、タイトルはなぜか――『第一回 古書との出会いツアー』に変わっていた。
これを見た静が「佐倉さん、絶対に第二回目は不参加だから」と言った時、後部座席の英介と栄太郎もまたうんうんと頷き合った。
佐倉はというと、全く気にもしていない様子で今日の予定について説明を始め、昼過ぎに予約したレストランは話題のお店だからしおりに写真も載せておいたと言い、その後のカフェは古書店のすぐ近くだからケーキでも食べながら待っていればいいとのことだった。
その時、静の目がキラリと輝き「栄太郎はわかっているわよね」と言ったが栄太郎は返事をしなかった。
「ふっ、どうせ持ってこなかったんでしょ?だから私がちゃんと用意してきたよ。どこまで覚えたかチェックして、ろくでもない状態だったら恐ろしいことになるからね」
空飛ぶカァちゃんは後ろの席の栄太郎が心配でたまらなかったが、佐倉が嬉しそうにペラペラと話し続けているため、それを無視することが出来ず、問いかけに対応しているうちに、いつの間にか佐倉の話に夢中になってしまい、後ろの三人のことは忘れてしまうのだった。
神保町でパーキングに車を入れると、まずは空飛ぶカァちゃんの好みを理解してくれていて、また言われなくても取り置きをしてくれる長い付き合いのある店に入った。
店主は空飛ぶカァちゃんが来たことを知らされると、店の奥から出てきて「ああ!よかった、よかった本当に!どんなに心配したか」と言って泣いてくれた。
空飛ぶカァちゃんの肩を叩きながら、全ての事実が明るみに出たことを心から喜び、ろくでもないやつらのせいで、と山本ミキらを罵りながら涙が溢れた目をごしごしこすりながら鼻水をすすった。
「あんな嘘ばかりつかれてかわいそうにって、もうわしらはテレビで見るたびに腹が立ってさ、でもちゃんとこうなった。あんたがちゃんとした人だから、そうなると思ってたよ。でも長かったね、本当に大変だったね」
空飛ぶカァちゃんは店主とその妻に心から礼を言い、これからは時々こうやって外出できるようになったので、これからもまたお世話になりますと言い深々と頭を下げた。
佐倉はその姿を見つめ、本当に嬉しそうに微笑んだ。
それを見た子供たちは、こっそり顔を見合わせた。
佐倉の母が余計なお世話を焼きたがる気持ちがよくわかった。
きっと、あれほどまでにしつこく言っていたこと――烈は自分で気づいていないだけ、だからあと一押しあれば――これは、多分正しいのかもしれないと三人は思った。
佐倉がどれほど空飛ぶカァちゃんを思いやり気遣っているか、大切に思っているのかということは、この顔付きを見ればわかるのだ。彼らはそれを思い知った。
ただ空飛ぶカァちゃんが明るく笑って喜んでいる姿を見ているだけなのに、佐倉のほうが幸せそうに見えるのだから。
店主は、佐倉が先日もまた目当て本の入荷状況を聞きに来ていたので、それについてあれこれ話したあとで、あんたが好きそうな『全集』があるんだが、と言って奥の方から分厚い本を何冊も抱えて持ってきた。
それには佐倉よりも空飛ぶカァちゃんが驚いて「あっ、これって!」と言って口を押えた。
「これ、大学の時に先生が持っているのを見ました。佐倉さんも探していたのですか?もし、もしそうでないなら」
もちろん佐倉はにっこりと微笑む。
「いいえ、今店主さんは俺が好みそうだと思って見せてくださっただけですよ。櫻子さんが欲しいなら、もちろんこちらは櫻子さんのものですよ。購入されるならこちらに」
佐倉はこう言って、脇に抱えていた折り畳み式の大きなプラスチックの箱を広げた。
そして、その中に、多分手作りなのだろう――本が傷まないように不織布を箱のサイズに合わせて縫い合わせたものを敷いた。
あまりにも手早く、そして準備が良すぎる。
これではまるで空飛ぶカァちゃんの世話係だ。
「大切な本ですから、傷まないようにしないとね」
店主も、子供たちも佐倉の言い方に驚いた。
空飛ぶカァちゃんは「佐倉さん、すごいです!確かにこれはいいですね。いくらでも安全に本を入れられるじゃないですか!」と大喜びだ。
佐倉は褒められて満足したのか「そうでしょう?」と得意気になり、なんとなくはしゃいでいるのだから見ているほうはたまらない。
店主が「この全集は本当に希少価値の高いものだから値引きはしないんだけどね、でもお祝い価格だ」と言って、かなりの額を引いてくれたので即買いが決まった。
すると、当たり前のように佐倉が払おうとするので空飛ぶカァちゃんが「私が横取りしたんですから、私が払いますから。それに今日は思いっきり買おうと思って、結構沢山持ってきたんですから」と言って両手を前に出した。
佐倉は笑いながら「はいはい、わかりました。じゃあそうしてください。でもそんな大声で沢山持ってきたなんて言ったらだめですよ」と言ってなだめようとする。
空飛ぶカァちゃんはほっとしたように頷きながら「全くもう佐倉さんは、どうしてそうお兄さん気分なんでしょう?私のほうが年上なんですよ?」などと言っているのを見ると、子供たちは母親に対しても呆れてしまうのだった。
こんな調子で神保町で何件かまわった後、次に訪れたのは高田馬場の古書店。
空飛ぶカァちゃんと佐倉、二人共ここの常連で、奥で店主と話し込んでしまった。
途中でお茶まで出されて、なにやらまた積み上げられた沢山の古めかしい本を見ながら夢中になっているため、これは長くかかりそうだと思った英介と栄太郎は、近くにあるファーストフードのお店で「ポテトでも食べてるよ」と言って店を出て行ってしまった。
静はこの店の静かな、そして重厚な雰囲気が気に入ったので、英介たちとは一緒に行かずに店内に残っていた。
その時、古めかしい会計台の横に置かれた木の箱が目に入った。
どうしてかわからないが、静は、その箱の中を見なくてはならないような気分になった。
多分、雑然と置かれた本がかわいそうで、少し直してあげたくなったのかもしれない。
箱の中に積み上げられた本の上側に乱雑に置かれた数冊の本を取り出して、綺麗にそろえてから右横の本の上に重ねた時だ。
乱雑に置かれていたために本の角が傷づけられていた数冊の本をよけたその下から、まるで魔法のように、ある本が顔を出してきた。
静はそこに、母親が大切にしていた『虹色の音符』がちょこんと隠れているのを見た。
長いこと、本当に隠されていたようにそこにあった。
静が『本の角が傷つく』と思って数冊の本を取り上げなければ絶対に出会うことはなかっただろう。
本が傷まないように、静はそっとその本を手に取った。そして表紙を開いた。
その『虹色の音符』は完成品に近い見本刷りだった。
見返しの右下に『著者見本』朱色のスタンプが押されていた。
そして、見返しに丁寧な墨文字でこう書かれていた。
――オキへ 見本本を受け取ったのでこれをあなたに贈ります。
もし、読んでもらえたら私は
文字は続きが書かれていなかった。
この人は、佐倉は、この先に何と書きたかったのだろう?
静は何かがこみ上げてきて、頭の中がカーッと熱くなった。
胸がドキドキと高鳴り、奥でお茶を飲んで話し込んでいる佐倉を見た。
楽しそうな母親と佐倉を見て、静は今は彼らをそっとしておこうと思った。
そして、その『虹色の音符』をレトロな会計台に持って行った。
店主は奥で話し込んでいるので、会計台には若い店員が立っていた。
うっかり、価格を確認する前に店員に渡してしまったのだが、静はたとえ高額でも絶対に買おうと思った。
若い店員は本に挟んである細長い価格の紙と手持ちの価格表と照らし合わせて「ええっ、間違いかこれ?」とつぶやいた後、おとなしそうに見える静に向かってこう言った。
「これ、著者の直筆だろうけど、多分宛名は一般の人だよね。だからこの価格じゃちょっとね。どうせ買う人もいないし、あっちの人ってお母さんでしょ?お得意さんだし、引いておくね」
静はほっとして「おいくらですか?」と訊いてみた。
「うん、一万円でいいよ」と言われて目がくらみそうになった。
手持ちが、まさにそれだけだったからである。
それでも静は落ち着き払って、財布から全財産を差し出した。
そして小声で訊ねた。
「本当はおいくらだったんですか?」
「うん、これね、最初は三万六千円で付けてたけど、今は二万一千円まで下げてた。だからお買い得でしょ?でもいいよ、どうせあの方達、予約していた本をたくさん買ってくれるからね」
静は精一杯の笑顔で「ありがとうございます」と言って微笑んだが、内心はこうだった。
―――この強欲本屋めが!
静は古書の価値など全くわからないが、それでもこの本に、この強欲本屋が最初に付けた金額が、今の自分が気軽に買える金額ではなかったことが嬉しかった。
五百円とか千円とかじゃなくてよかった。
佐倉が三万六千円と聞いて、どう思うかわからないけれども。
静はまるでさっきの佐倉のようににっこりと微笑んだ。
そしてテグスを伸ばさずに、心の中でこう言った。
―――「佐倉さん!あの本がすごいことになってたよ。私、いま佐倉さんより嬉しくなってるかもよ」
お読みくださりありがとうございます。




