115.発狂の私設秘書と空飛ぶ交流の始まり
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あの日、空飛ぶカァちゃんが背中に乗せてタクシーまで運んだ男の息子は発熱のため早退し、帰宅する途中で事故にあったそうだった。
数か月前に病気で妻を亡くしたその男は、その後しばらくして運の悪いことに駅で酔っ払いに後ろからぶつかられ、階段の途中から転げ落ち右足を骨折してしまった。
そんな悪夢のような不運に見舞われながらも黙々と業務をこなすその男に周囲は尊敬の念をいただいていたし、息子さんが事故にあったと聞き、なぜ彼ばかりこんなことにと皆、心から同情していた。
彼の息子は左折車に横から当てられて倒れた際に頭を打ち脳震盪を起こしてしばらく意識を失ったことと、肩と首を強く打ち付けたことによるむち打ち症で入院することになってしまったが、権藤や空飛ぶカァちゃんの時のように重症ではなかった。事故の日の夕方頃には無事であった旨の連絡を受け、秘書官室の全員がほっとしたのだった。
その後、空飛ぶカァちゃんが働くフロアに限り、飛んで移動することが許されることになったが、いったんこのことはできるだけ外部には伏せられることになっていた。
こんなことが明るみに出れば元・官房長官をはじめとする水谷のお仲間から実際に叩かれるのは空飛ぶカァちゃんである。
空飛ぶカァちゃん自身もそれをよくわかっていたのでフロアで飛ぶことはほとんどなかった。
が、秒単位のスケジュールで疲れ果てた麹町が、時々空飛ぶカァちゃんを呼びつけ「気晴らしにちょっとだけ」などと言ってゆらゆらと室内を飛ばせることがあった。
その姿を見かけた秘書官やその補佐をする者たちからは「彼女はまだ完全ではないのに一体何をさせてるんだ」という呆れる声も聞かれた。
飯田は当分の間はこのことが佐倉に伝わることはないと思っていたのだが、先日、前々から指示していた案件で浅草の事務所から必要な書類を持参して官邸に来た黒田によって、空飛ぶカァちゃんの屋外での飛行の件が伝わってしまった。
黒田はあの日すぐに浅草の事務所に戻ってしまったため、飯田はうっかり口止めするのを失念していた。
―――「ふふっ、タクシーのとこまで乗せてもらって彼は本当に助かったみたいなんだよね。僕だってもともと彼女がもっと自由にできればいいと思っていたんだけどさ。飯田さんほか今の秘書官はみんな人柄がいいだけでなく理解があるみたいだし、良かったよ本当に」
議員会館の部屋を訪れた黒田から、その日の状況を聞かされた佐倉は、目を吊り上げて根掘り葉掘りと聞き出した。
事務の小川や秘書の稲葉は無神経にペラペラとしゃべり続ける黒田を睨みつけているのだが、それに全く気付かず「僕だって一度くらいは乗って飛んでみたいよなあ。どうせならこの辺をぐるりとさ」などと言い、いつものように。ふふっふふっとニヤついて見せた。
佐倉は稲葉に「飯田さんは今どちらにいらっしゃるんでしょうか?」と訊ねたが、稲葉は小川と顔を見合わせて、今日は飯田さんはほんの数秒の時間もないくらいのスケジュールだからと言って「今日は絶対に連絡しないように」と釘を刺してきた。
佐倉はにっこりと微笑んで深く頷いた。
穏やかで繊細な性格の稲葉は佐倉のこの笑顔にゾッとして震えあがり、大雑把で呑気な小川は笑顔をそのままの意味で受け取ってホッとしたようだが、余計なことを言った黒田をギロリとにらみつけ溜息をつくことだけは忘れなかった。
この先、空飛ぶカァちゃんがまた非難されるようなことになったり、委員会で名前を出されて糾弾され、さらに管理を徹底するべきだなどと詰め寄られでもしたらどうするんだと、佐倉は怒りで一杯だった。
ただ、黒田の話によれば、官邸の秘書官たちは空飛ぶカァちゃんを好意的に受け入れている様子だし、先日も飯田から聞いたらしいが、能力はあるが非常に激しい性格で知られている女性秘書官補までもが最近は空飛ぶカァちゃんとよく話すようになり、時々子供のことなどでちょっとした私的な会話が見られる状況だという。
佐倉は飯田が黒田を使って大げさに伝えさせて、自分を安心させ、文句を言わせないようにしているのではないかと思ったが、黒田は実際に空飛ぶカァちゃんがその女性を乗せて飛んでいるところを見たらしく、その後にこやかに会話していたので心配いらないよとヘラヘラと言ってきたこともあり、佐倉はいったんは飯田への抗議を控えることにした。
そのうち、別の事務連絡の際にこの件の抗議を滑り込ませればいいと決意した佐倉だった。
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この冬、共通した政策課題を持つ複数の研究会や業界団体、議連が合同で大規模な懇親会が開催されることになった。
そこには権藤が参加していた小さな研究会も含まれており、あのピンクビルの事件の際、権藤や市谷と共に事件解決に力を貸した研究者、末次と小暮も参加していた。
そして、空飛ぶカァちゃん。
身に覚えのないことで長期間にわたりネット等で非難され続け、全く落ち度もないというのに濡れ衣を着せられたことに対して弁明の機会を与えられることもなく、彼女の担当の議員らにより身体的・精神的な虐待を受けながらも黙々と事前防災分野、具体的には住環境の安全性の向上及び予防保全等、防災と減災に大きく貢献した空飛ぶカァちゃんもこの懇親会に参加することになった。
また正体不明のサイキッカーが公表した人知れず空飛ぶカァちゃんが行っていた人命救助についても今や知らない者はいない。
麹町は年明けに褒章の授与を予定している空飛ぶカァちゃん、権藤、市谷、末次、小暮の五名をこの懇親会の場での改めての紹介と新たなネットワーク構築のための引き合わせの機会をつくり、身内の発言力を強化する環境作りに利用しようと考えていた。
今回、多忙な時期にもかかわらず、大使や海外の優良企業CEOをはじめ多数の有力者が参加することとなった。
佐倉は飯田の指示通りに空飛ぶカァちゃんにぴたっとくっつき護衛しつつ、飯田や権藤の側で通訳に勤しんだ。
研究内容や政策に関する話題はもちろんだが、駐日大使はもちろんのこと防災技術の国際連携の分野で麹町が長く関わって来た業界の有力者からは、あの事件に関する具体的な質問も多く出された。
特に能力者を抱える国では、空飛ぶカァちゃんが関わったこの事件は今も大きく報道されており、総理大臣の逮捕という衝撃的な結末と被害者三人の奇跡的な生還という内容で特番が組まれるなど、その話題はおさまるどころが大きく膨らみ続けていた。
能力者の保護については国際的な保護条約があるため表面的には空飛ぶカァちゃんの安全は守られるはずなのだが、この懇親会では通常の倍以上の人数で警備体制が取られていた。
空飛ぶカァちゃんらが入院していた病院で起きた不審者侵入の件や度重なるサイキッカーの闖入など、この国で起きた事件は能力者を抱える国にとっては対岸の火事ではない。
その後の安全対策を含め多くの質問が飛んだ。
佐倉はこれに対し、飯田にその都度確認を取りながら多言語で伝え、また同じように各国の能力者の安全対策についても飯田に丁寧に伝えた。
また、奇跡の三人と善意と正義の協力者の研究者二人は華々しく紹介され、万雷の拍手とこれ以上ないほど惜しみない称賛を受けた。
また、権藤が続けてきた地道な活動についてもそうだが、空飛ぶカァちゃんを真心と善意、そして正義の心で助けようとした権藤に対し、政敵であるはずの麹町からユーモラスな嫌味とお小言とともに、政治家として心からの感謝が伝えられた。
この時の権藤は少し涙ぐんでいて佐倉や飯田に笑われそうになった。
かくして、小物中の小物・吉川と野川の悪だくみは潰えたのだった。
飯田は破壊遺産の件で不快な思いをさせてしまった大使のところに、麹町と空飛ぶカァちゃんらと共に近づき、あの時大変不快な思いをさせたことの謝罪を申し述べたあとで、空飛ぶカァちゃんが飛行能力を使って行ってきた社会貢献活動と、今、小さな話題となっている『東京湾スカイツアー』を企画した微笑ましい小学生の話題を持ち出して佐倉に通訳させた。
佐倉は羽を使って大使の思考を読み取りながら、彼の母国語で丁寧に通訳をした。
大使は、山本ミキの過去の失言については全く触れずに、子供たちのスカイツアー企画の話題から始まり、実際の飛行について色々とたずねてきた。
その場にいた空飛ぶカァちゃんや研究者の二人には研究活動に関しても具体的な質問をして彼らをたじたじとさせた。
権藤には「あなたは実際に彼女の背中に乗ったという報道があるが本当か?」と訊ね、それを佐倉が通訳すると非常に興味を持った様子で、さらにあれこれと突っ込んだ質問をしてきたので、飯田がニヤリと笑った。
それに気づいた佐倉の顔が引き攣ると、飯田はさっそく佐倉の横っ腹をつっついてこう言わせた。
佐倉はもう言うしかなかった。
―――「大使、彼女の背中に乗って飛行してみたいと思いますか?」
もちろん答えはイエスである。
佐倉の頭の中は発狂の嵐だった。
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