114.空飛ぶエリート官僚たち
週明けの月曜日。空飛ぶカァちゃんは松葉杖で体を支えながらの初出勤、相変わらずの小声ではあったが空飛ぶカァちゃんの丁寧な挨拶に、ほとんどの秘書官や秘書官補は朗らかに彼女を迎えた。
中にはにこりともしない者もいたが、それはほんの数名のみ。
聞こえるように舌打ちをした女性はすぐに窘められたし、その女性と一緒に小声で「わざとらしく松葉杖とはね」などと小声でつぶやいた中年の男も口を慎めと注意され、すぐさま下を向いて黙り込んだ。
多忙のこの時期に、いわくつきのお荷物を抱え込まされたと感じたのか、元から空飛ぶカァちゃんが気に入らなかったのかはわからないが、その二人があからさまな敵意を見せつけてきたので、空飛ぶカァちゃんはほんの一瞬体をこわばらせたが、以前のように下を向いて体を縮こまらせたり怯えたように視線を泳がせたりはしなかった。
舌打ちをした女性の秘書官付に向ってかすかに微笑みかけ、ご迷惑をおかけしないように与えられた仕事をに全力を尽くしてまいりますと挨拶をすると、飯田がすぐに秘書官室の近くある小さな部屋に案内した。
緊急時に集められたスタッフの一時的な待合室や来訪者の控室として使われる小部屋ではなく、更に小さく狭い部屋だった。
中には棚とロッカーの他に、幅の広い机と座り心地の良さそうな大きな椅子が置かれてあるだけだった。
麹町はこんな物置みたいな部屋ではなくもう少し人がいる部屋に、と口を出してきたが、飯田がそうさせなかった。
佐倉がうるさく言ってきたこと――あくまでも空飛ぶカァちゃんが過ごしやすい環境をという点で、この小部屋は最適だと思ったからだった。
ここには空飛ぶカァちゃんのみが在室し、体に負担のかからない程度の軽作業や語学力を生かした形で取り組める簡単な業務を行うことになっていた。
飯田は空飛ぶカァちゃんの能力を考えると、彼女の得意なことのみでも十分に役に立つと思っていたし、わざわざ官僚たちに関わらせるつもりもなかった。
そのことをはっきりと伝えた時に空飛ぶカァちゃんの顔からこわばりがとけたのを見て、確かに佐倉の言う通り、本当のところは彼女がここでの勤務をいかに恐れていたか、人の視線を怖がっていたかということがよくわかったようだった。
―――(佐倉君が心配だったのはこういうところか、きっと今まで相当押さえつけられてきたんだろうな)
飯田はこう思い、できるだけ人と関わらないで済むように、ひとまずは単調かつ作業ごとの段階的な指示のいらない仕事を与えてやった。
そうして、昼休憩の三十分ほど前。
空飛ぶカァちゃんがトイレで離席した時、なにやら秘書官室がざわついた様子だった。
声をかけるのもどうかと思いそのままトイレに行き用を済ませて部屋に戻ろうと廊下に出た時に、空飛ぶカァちゃんと同じように松葉杖をついた、かなり太り気味の小柄な男性がエレベータの前で真っ青になって電話をかけているところに行き合った。
隣には、先ほど空飛ぶカァちゃんに笑いかけてくれた秘書官が数名と飯田が「慌てるな、落ち着け」とその男性を落ち着かせようと肩をたたきながら声をかけていた。
空飛ぶカァちゃんは飯田に声をかけようとしたが、憔悴しきった松葉杖の男性が気の毒で軽々しく声がかけられなかった。
何かあったのかと心配になり、つい小首をかしげてしまったのだが、それを見た飯田が慌てて「いや、彼の息子さんが事故にあったそうで、今タクシーを呼んだところなんだよ。ただ彼は右足を骨折しているもんだから焦って。官邸近くには車が止められなくて結構歩くもんだから……」と言い、気の毒そうにその男を見つめた。
空飛ぶカァちゃんはハッとして、おずおずとこう申し出た。
「飯田さん、タクシーはもう呼んであるのですか?場所がわかれば私、お連れします。背中に乗っていただくわけにはいきませんか?やっぱり私が飛ぶのは――問題があるでしょうか?」
飯田は息をのみ「いや待って――いや、そうしてくれると助かる。でも君、彼を運ぶのはちょっと無理があるんじゃないか。彼はちょっと体が、」と言いかけ口を噤んだ。
「いいえ、全く問題ありません。私、家の中で息子と娘を二人一緒に背中にしょって飛んだことありますから!絶対に落としたりしませんから、なんなら紐で縛っていただければ安全にお連れできます」
空飛ぶカァちゃんは震えた様子の松葉杖の男を見て、居ても立っても居られなくなりこう言った。
すると、別の秘書官が「飯田さん、もし可能ならそうしていただきましょうよ!彼は、この間奥さんを亡くされたばかりじゃないですか!息子さんが事故にあったなら一分一秒でも早く駆け付けたいはずでしょう?彼女にお願いしましょうよ、お願いできますか、どうか!」
飯田はすぐに頷いた。
「なんだ、ほらあのテント用ロープみたいなの、パラコードか、あれを持ってきて!」
すぐに取りに行った秘書官が手に持ったロープを使って空飛ぶカァちゃんの背中におぶさるようにピタッとくっついた男性をロープでぐるぐる巻きにして、肩と脚を括り、ひとまず離れないように空飛ぶカァちゃんの胸の前で結びつけた。
空飛ぶカァちゃんは脚を怪我したその男性に「松葉杖をお持ちください」と言い、リュックタイプのカバンを背負ったその男が手に松葉杖を持つと「タクシーが着いてる場所はおわかりですか?」と訊ねた。
「場所は彼がわかってるよ」と飯田が答えると、他の秘書官と一緒にエレベータに乗り込んだ。
正面玄関を出た空飛ぶカァちゃんが「しっかりつかまってくださいね」というと、ふわりと数メートル飛び上がった。
まわりから「うわっ!」という声が上がると同時に空飛ぶカァちゃんはすべるように道路に向って飛び出した。
背中の男は声も出せず、あの時の権藤のように必死に背中にしがみついた。
それなりの速度で飛びはしたが、権藤を乗せた時のように邪魔をしてくる者もいないため無駄なスピードを出す必要もなく、目的地に向かって安全運転で飛ぶことができた。
既に到着しているタクシーの場所が上からよく見えたので、焦っていた男は漸く気持ちが落ち着いてきたようだった。
男は「すみません、あなたこそお怪我をなさっているのに」と言って何度も謝って来た。
空飛ぶカァちゃんは「もうほとんど治っているから大丈夫ですから」と答えると、タクシーに向って徐々に降下していった。
紐をほどくと、男はまた何度も礼をいってから車に乗り込んだ。
一人残された空飛ぶカァちゃんをカメラで撮る者や、コソコソと囁き合う者も多かったが、空飛ぶカァちゃんはもう気にもしなかった。
佐倉をはじめ、今回の事件で誠実さと真心から自分を助けようとしてくれた多くの人間に出会ったことは空飛ぶカァちゃんの心を少しばかり強くしたようだった。
―――(別に見るのも嫌なら顔を背ければいい。話したくないなら無視してくれて構わない。
空飛ぶカァちゃんはそう思った。
そして、タクシーを見送った後、自分が松葉杖を忘れたことに気が付いた。
ここから少し痛む脚を引きずって部屋に戻るのはきつかったが、空飛ぶカァちゃんは今のような緊急時でもないのに、ただ自分のために理由もなしに飛ぶことは出来なかった。
がっくりした気持ちで脚をかばうように戻ろうとした時、後ろから懐かしい声が聞こえてきた。
「遠山さん遠山さん、こんなとこで何やってるんですか?」
出先からタクシーで戻って来た黒田が駆け寄って来た。
「一体何やってるんです?まだ安静にするように言われてたじゃないですか。佐倉君が見たら怒りますよきっと」
空飛ぶカァちゃんが黒田に事情を説明すると「まったくもう、今は自分のことを考えないと」と言って空飛ぶカァちゃんに肩を貸した。
ゆっくりゆっくりと官邸に向かう途中で、空飛ぶカァちゃんの松葉杖を持った男性が走ってくるところが見えた。
「遠山さーん」と呼びかけながら、近づいてきて「ご自分の杖を忘れていたので持ってきたんですよ」と言い「本当にすみません、俺たち気が付かなくて」と謝ってきた。
空飛ぶカァちゃんがいえいえと礼を言うと、その男性は興奮した様子でこう言った。
「初めて目の前で見たのですがすごいですね!なんか感動しましたよ、彼は結構体重もあるだろうにあんなに軽やかに飛ぶから驚きましたよ」
「浮かんでからは体重はあまり関係ないみたいです」と空飛ぶカァちゃんが答えるのを見て、黒田が呑気にこんなことを言いだした。
「ね、もうこのまま飛んでっちゃえば?だって、人のためには飛んであげたのに自分のために飛ぶのはダメっておかしくないですか?佐倉君が言ってたけど医者からはかなりきつく言われたそうじゃないですか、まだ気を付けろって。権藤さんも言ってましたよ」
「いいえ、今回は緊急だったからなんです。もし私がそんなことをしたら多分、」
ここまで言って空飛ぶカァちゃんは口ごもった。
黒田も、松葉杖を持ってきた男性も、今までの空飛ぶカァちゃんがどのような扱いを受けてきたのかをよく知っていたので、なんとなく下を向いた。
「本当におかしな話ですよね、黒田さんの言う通りですよ。今こそ飛べば楽に戻れるのにそれができないっておかしいですよ。飛んでいいと思いますよ、そうしましょうよ。俺がそうするように言ったっていいますから!」
彼は心からこう言ったのだが空飛ぶカァちゃんは「いえいえ大丈夫です。もうほとんどよくなってるので。お医者さんは念のためにそう仰っただけなんですよ」と言い、またゆっくりと歩き出した。
ニコニコとそう言う空飛ぶカァちゃんを見て、黒田もその男も苦笑いをするしかなかった。
やっとのことで玄関に入りエレベータで上階に上がると、飯田が「申し訳なかったね。無理させてしまって本当に」と言ってきたが、空飛ぶカァちゃんは笑って、全く問題ありませんからと言い、すぐに部屋に戻ろうとしたのだが、飯田が空飛ぶカァちゃんの肩を叩いた。
「ちょっと遠山さん、俺を担いで飛んでみてよ。ここからあそこまで。さっきの様子だと脚に負担はかからないんだよね?もしかして、松葉杖よりラクってことはないの?」
ええっ?と聞き返した空飛ぶカァちゃんは飯田がどうしてそんなことを言ってきたのかわからなかった。
「おんぶして乗っかればいいんだよね、ちょっとだけやってみてよ」
再度、飯田が言ってきたので空飛ぶカァちゃんは松葉杖を立てかけてから、飯田に背を向けた。
飯田が床に足を着けたままで背中におぶさると、空飛ぶカァちゃんはゆっくり浮かび上がると同時に身体を水平にすると、スーッと滑るように前に進んだ。
黒田ともう一人の秘書官が「おおおっ!」と声を上げると、部屋から数人の秘書官らが出てきた。
皆「ああっ、すごい!」とか「自分だけずるい」などと言って廊下を飛ぶ飯田にふざけて文句を言った。
飯田が、次はもう少しスピードを出してあと一往復、と言って飛ばせた後で部屋の前に戻ってくると、それを見ていた者たちが「飯田さんだけずるいじゃないですか!」と声を上げた。
昼の休憩時だったこともあり、その時急ぎの業務に追われておらず休憩をとっていた職員が「ずるい、ちょっとうらやましい」などと言ったところで、飯田がちょうどいいとばかりにこう言った。
「なら乗せてもらってみたら?遠山さん疲れるのそれ?」
空飛ぶカァちゃんが心配そうに「私は大丈夫ですけど――ここで飛んだりしてご迷惑になりませんか?」と聞くと、秘書官の一人が「ちょっと俺も飛んでみたいです」と言い出した。
空飛ぶカァちゃんは驚いたが、休憩中ということだったし、飯田も許可を出しているので、よろしければおぶさってくださいと言って背中を向けた。
その秘書官が背中におぶさると、飯田を乗せた時と同じように浮かび上がりながら体を倒してスーッと前に進んだ。
背中の秘書官が嬉しそうに「もう少しスピード出せるんですか?」などと訊いて来たので、空飛ぶカァちゃんが少しだけスピードを上げると「おおおおっ!」と楽しそうな声を上げ、すごいすごいと言いながら部屋の前に戻って来た。
俺も俺も、と次々に背中におぶさりって、空飛ぶカァちゃんが廊下を飛ぶ状況が続いた。
しまいには朝、空飛ぶカァちゃんに舌打ちをした女性の秘書官補までもが、うらやましそうに口をとがらせているので、空飛ぶカァちゃんが小声で声をかけてみた。
「もしよかったら、乗ってみますか?そんなに怖くないですよ?」
朝のやり取りもあり、空飛ぶカァちゃんの出す声があまりにも小さく、しかも遠慮がちだったのでまわりの秘書官たちが気まずそうに顔を見合わせたが、空飛ぶカァちゃんが続けてこう言った。
「実は……お仕事以外でこんな風に飛んだことがないんです。子供たちを乗せて飛んだといっても家のリビングと廊下を行ったり来たりするくらいしかやったことなくて。せっかくだから飛んでみませんか?」
その女性は顔を真っ赤にしておずおずと「いいんですか?」と一歩進み出た。
ぜひ、と言って空飛ぶカァちゃんが背を向けるとその女性は背中におぶさった。
空飛ぶカァちゃんが注意深く浮かび上がると「しっかりつかまってくださいね。少し蛇行してみましょうか」と言って、少し左右にくねりながら進んでみた。
戻るときはスピードを上げて少し上下しながら進むと、その女性は「うわあ!すごい、すごすぎる!」と言って興奮している様子だった。
戻ってくると、気まずそうに空飛ぶカァちゃんに向って御礼を言うと、朝の態度を恥じたのか、反省していたからなのかはわからないが、その女性はこんなことを言いだした。
「……もし足に負担がかからず、逆に、飛んだ方が楽ならば、この中は自由に飛んでもらってもいいんじゃないですか?――いつかお子さんを乗せる時の練習にもなるし」
朝のやり取りからわずか数時間。
飯田が敢えて職員の前で飛んで見せて作ったきっかけを利用して、自由な飛行の提案するまでもなく、空飛ぶカァちゃんは官邸の中をこの階に限り自由に飛べることになった。
これに反対する者は一人もいなかった。
自分の松葉杖のことも忘れて、同僚を車の場所まで背負って飛んだ空飛ぶカァちゃんを、今までのように白い目で見る者は、きっとここからもいなくなるだろう。
自分の居場所を少しだけ広げた空飛ぶカァちゃんを見て、飯田は「ほら、過保護な佐倉君がいなくても、彼女はちゃんとやるじゃないか!」と思ったが、当の空飛ぶカァちゃんの気持ちはこうだった。
―――佐倉さんが色々励ましてくれたから、きっと私は勇気を出せたんだ。ありがとう佐倉さん。
お読みくださりありがとうございます。




