111.静と栄太郎の秘密の話
◇◇◇◇◇
権藤の退院の後、一時的に校舎を変更して通っていた塾の大切な判定テストの関係もあり、栄太郎が自宅に戻ったのは父親の退院から数日後だった。
栄太郎が佐倉家を去る日、佐倉の車で挨拶に訪れた権藤は、庭で佐倉の父と笑いながら野菜を収穫している息子の姿を見て驚いてしまった。
ここ数年ずっとふさぎがちでなかなか友達も出来ず、まるで、することもないので仕方なしに勉強ばかりしているような息子がここまで明るくなるものなのかと思い、ぽかんとしてしばらく目が離せなかった。
佐倉の母がソファをすすめ、栄太郎の姿を見つめながらこんなことを言った。
「また今日から寂しくなってしまいます。私達とても気が合って楽しくやっていたんですよ。毎日が本当に充実して、楽しくって。今日の夜はもうここで食事する気になれないのでそこらへんのファミレスでも行こうかった話していたんです」
権藤は自分の息子がそんな風に言ってもらえるとは思っていなかった。
英介や静という新しい友人のおかげで多少、明るく元気になってきているとは思っていたが、佐倉の父親を相手に妙な遠慮もなく気軽に話しかけ、普通のやり取りをしている息子の姿が信じられなかった。
「栄太郎君は最初はすごく気を使っている様子だったんですが、だんだん私達を受け入れてくれて、もう今じゃ家族ですから!合格したらまたしばらくうちに来てもらいたいんですよ。よろしいですよね?」
佐倉の母は有無を言わせない笑顔で権藤に許可を迫った。
沢山の野菜やハーブを抱えた佐倉の父と栄太郎が段ボールを抱えて戻ってくると「ああ、妻が権藤さんに栄太郎君の春休みの約束を迫っているんですね?」と言って笑いながら「でも栄太郎君は承諾しましたから、英介君やしずちゃんもすっかりその気ですから」とこちらも、もう決まったことですからと言って譲らない様子だった。
佐倉が「とうちゃんは英介と栄太郎をいいように仲間にして、俺に強気に出てたけどこれからはそうはいかないからね」などと言って意地悪そうに笑っていた。
「栄太郎、とうちゃんが泣くから春休みはずっとここに来てくれよ?昨日からそればっかりなんだから」
「僕、本当に楽しかった。こんなに楽しかったことってなかったかも。五月の修学旅行なんかよりずっと……」
栄太郎もここを去りがたい様子で、昨晩のうちにまとめた荷物とおみやげの野菜を入れた段ボールを見つめて下を向いてしまった。
権藤が気まずそうに栄太郎の名前を呼んだが、栄太郎は少し微笑むだけで返事はなかった。
見かねた佐倉が志望校の話を持ち出すと、権藤が興味を持って耳を傾けたので栄太郎の寂しげな表情から大人たちは目をそらした。
今日が最後だよと言われても、その場所に根付いた思いというものはなかなか切り離すことが出来ないものだ。
目先の目標をちらつかせて気をそらそうとしても栄太郎の気持ちが志望校の話などに向かって行かないことはわかっていたが、佐倉はこれだけは伝えたかった。
「多分、俺の母校を受験しても受かると思う。でもこの前も言ったように、今はいい先生がいないんだよ。俺たち六人がいた頃の先生はみんな退職してて、今あそこで幅を利かせてる先生ってのが、これまたとんでもない先生で、俺たちはそりゃあもう滅茶苦茶対立してたんだ。ろくでもない野郎だった。だからうちの学校じゃなく、しずちゃんとこのほうがいいと思う。偏差値的にも今はほぼ変わらなくなってきてるしね。そりゃうちの学校のほうが歴史があるけど、しずちゃんとこだって伝統校には違いないよ。進学率だってほとんど変わらないよ?英介も竜介君も、高校からあそこに入りたいと言ってたからね。栄太郎も権藤さんとよく話し合って決めるんだよ。咲太郎もいくつか候補あげてたろ?あいつは詳しいからまた今度聞いてみるといいよ」
権藤が佐倉の親身なアドバイスにお礼を言おうとした時、栄太郎がちょうどいい機会だとばかりに「そのことだけど……」と言いながら遠慮がちに権藤を見つめた。
「僕、もう決めたんだ。静ちゃんと同じところを第一志望にするつもりだから。英介と竜介と、あと良太君って子も高校から入りたいって言ってたんだよ。僕、できたらみんなと同じ学校に行きたいんだ。こんなことで決めるのって良くないかもしれないけど、どうしても僕、このことが第一なんだ。だからそうしたいと思ってるから。お父さんには悪いけど……佐倉さんの母校は受けないつもりなんだ」
権藤ははっきりこう言われて驚いたに違いないが、息子が言ったこんなこと、という志望動機に感動してしまった。
「栄太郎、いいじゃないか、こんなことで決めるといいよ!お父さんは別にあそこにどうしても入ってほしかったわけじゃないよ?ただ栄太郎に合っているかなと思っただけなんだ。面倒見もいいし、いじめとかも少ないっていうから――でも佐倉君の話じゃいい先生は退職してるっていうし、静ちゃんの学校はなんたって静ちゃんが先輩でいるなら安心だし、むしろお父さんもそうしたらいいと思ってたんだよ。咲太郎さんという方も言ってたんだ。よかった、お父さん嬉しいよ。いい友達ができたってことじゃないか!そっちのほうが嬉しいよ」
権藤にこう言われて、栄太郎の沈んだ気持ちが少し浮上したかはわからないが、控えめに微笑んだその姿に大人たちはほっとした。
沢山のお土産の野菜と荷物を車に乗せた後、車に乗り込もうとする栄太郎を佐倉の母がぎゅっと抱きしめると栄太郎が少し涙を浮かべた。それを見た佐倉の父が「烈のがうつったかな?春休みの約束を忘れないでね」と言って頭をぐりぐり撫でてから別れの車が発車した。
新しい縁が繋がれ、それが横に広がってゆく。
栄太郎はいつまでも手を振っている佐倉の父と母に大きく手を振り返しながら「絶対またきたい」とつぶやいた。
走り出してしばらくした時、権藤が言いにくそうにこう言った。
「佐倉君、英介君のことだけど――栄太郎も知ってるっていうから言うけど、この前も話したけどなんか俺、人の考えていることがわかるようになってきたっていうか、それとも先のことがわかるのか、どっちなのかわからないんだけど、最近そういうことがよくあるんだよ。英介君のそれと同じだと思う?自分でも怖い時があって……」
栄太郎はこれを聞いて「えっ」と言って不安そうに権藤を見つめた。
佐倉はぞくっとしてすぐに言葉を返せなかった。
ただ、栄太郎を不安にさせてしまうかもしれないが、どうしてもこれだけは言わなければならなかった。
「この間も言いましたが、恐ろしい目に合うとしばらくそういう直感が働くようになるらしいです。英介も緊張を強いられた学校の環境が影響していたんじゃないかと思っています。遠山さんとも話していたのですが、とにかく睡眠をよくとってリラックスを心がけるのがいいと思います。それから権藤さん、このことは決して誰にも言ってはいけませんよ?これは本当に危険です、何が起こるかわからないし、今、権藤さんは素早く動けないですよね?どんな奴が狙ってくるかわからないですから。本当にそれだけは他人にわからないようにしてくださいね」
権藤と栄太郎は佐倉のこの指摘を重く受け止めた。
先日、妙な連中が病院をうろついていたと聞いたばかりだし、狙いが誰なのかもハッキリしていない状況なのだ。
「わかったよ佐倉君、誰だってこの先、自分にどんなことが起こるかわからないもんな」
権藤の言葉は佐倉の胸にぐっさりと突き刺さった。
◇◇◇◇◇
英介から佐倉家を出た栄太郎に電話があった。
何となく寂しくなっていると思ったから、と言って電話をくれた英介の気持ちが嬉しくてしばらく話し込んでいたのだが、静が横で「いいかげんにしろ」と怒鳴りつけ、今から受験のことで話があるから切れ、と命令している声が聞こえてきた。
英介が喚いていたが、勝手に切られた後、すぐに静から電話がかかって来た。
ーー『栄太郎、受験のことってのは嘘。どうせあんたどこだって受かるよ、多分ね。テストの判定もずっと良かったし、あれを見た限り私は全く心配してないよ』
「そう?しずちゃんがそう言うなら大丈夫だね。僕、やっぱりしずちゃんの学校にしようと思って。今日お父さんにもそう言ったんだ」
ーー『そうか、いいと思うよ。うちの学校だったら私も力になれるから。で、そんな話じゃなくてさ、佐倉さんのお母さんのことなんだけど、あんた色々探りを入れるように言われてんの?実際どうなの?お母さんは本気なのかな、だってうちのママ、二人の子持ちで佐倉さんよりだいぶ年上なんだけど。その辺のことについて佐倉さんのお母さんはなんて言ってんの?私はそれが気になって』
「しずちゃんもか!佐倉さんにも車の中で色々聞かれたんだ。母さんから色々言われても無視していいとか、しずちゃんのお母さんにどんなことを聞いたとか、それはもう色々聞かれて僕、」
ーー『佐倉さんね、はあ全く!くだらない古本屋のことばかり話してさ、私は絶対行かないから。そんなの時間の無駄。あんたは多分無理やり呼ばれる犠牲者になるよ、ガンバ。で、どうなの?子持ちのママのこと、つまり私と英介がいることをどう思ってんのかな?』
「しずちゃん、あのお母さんは全く気にしてないよ。むしろしずちゃんと英介のことがとても気に入ってて、うちで暮らしてもらえたら嬉しいとか言ってるんだよ。でも浅草のお母さんたちに申し訳ないし、しずちゃんのお母さんが気を使うことになるからどこかマンションをとかなんとか、ブツブツ言ってたよ、僕、」
ーー『ええっ、マジ?そんなことまで言ってるの?とうちゃんのほうはどう?このことどう思ってんのかな』
「とうちゃんの方も同じだよ。しずちゃんのお母さんのことをうちに来てくれたら最高だとか言ってた。でもとうちゃん、佐倉さんのお父さんはそのうち本人同士が気付くから邪魔しないようにって言ってるんだ。このことでお母さんと言い合いになってた。でもね、とうちゃんのほうも住むところを考えてるらしくって、なんか色々見てたよ。結局二人で色々勝手に盛り上がってるんだよ」
ーー『ええええ!マジか。当の二人はあんな馬鹿っぽい話しかしてないのに?』
「そうだけど……佐倉さんのお母さんはもうすっかり、」
ーー『はあ、うちのママがとんでもない変わり者だって知らないから。あんた、受験終わってまた色々やらされそうになったら、まず私に報告してよね。誰よりも先に私に言うこと、いいね?』
栄太郎がこれに答えられずにいると、静は「どうせ佐倉さんのお母さんに一番の協力者になってとかって言われたんでしょ?まあいいよ、とにかく私には最速で報告しなさいよね。入学してから勉強も見てあげるよ?得られるメリットを天秤にかけるんだね」
栄太郎が、はあっと溜息をつくと満足した静だった。
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