110.退院と空飛ぶカァちゃんの仕事場
その冬。奇跡の三人が退院を迎えた日のこと。
部屋付きの看護師はその三人ではなく佐倉の背中を叩きながら、いつも泣き虫だねとからかっていた佐倉の代わりに涙を流した。
「本当に良かった。こんな奇跡を見せられたら、これからどんな患者さんが来てもなんとかなりそうな気がしちゃうじゃない!でも、いいですね、三人ともこれからはもっと自分を大事にするんですよ」
いつも励ましてくれて、細やかな気遣いで支えてくれた看護師に、三人は心から感謝しそれぞれが書いた手紙と三人からの寄せ書きを手渡すと、看護師はまたポロリと涙を流して佐倉に笑われた。
車に乗り込前に、看護師が空飛ぶカァちゃんを呼び止めた。
「待って待って!あの天井ハイハイのことは私からもスタッフにしつこく口止めしてるけど、万が一どこかからバレたとしても気にしちゃダメよ、あなたは何も悪くないんだから。こればっかりは仕方ないんだから気にしないの!市谷さんだって権藤さんだって最近は慣れたもんよ、大したことじゃない」
これを聞いて市谷は「いや、アレだけは絶対に慣れませんよ」と言って吹き出した。
権藤もまた「俺の叫び声を佐倉君が録画してなくて良かったよ」と言いだして、一階まで来てくれた医師たちも朗らかに頷きながら「全く!奇跡の三人の極めつけがアレでした」などと言い合いながら最後の挨拶を交わした。
三人は車に乗り込むと、病院スタッフに手を振りながら、数か月に及ぶ入院生活を振り返った。
本当に元通りになるのだろうか?以前のように暮らせなくなるのではないかと、心が落ち込み、ずんと沈み込んだ日々。そして不安で一杯の心に少しばかりの期待が混ざり始めた頃に、ある日を境に身体がピリピリと刺激を帯びたようになり、昨日より今日、今日より明日、という感じでどんどん力が湧いてくるという不思議な現象が起こった。
いつの間にか身体に力が湧いて、疲れがたまりにくくなり、多少の無理が聞くような感覚。
三人はいつもリハビリ後に互いの状態を話し合ったが、いつも全員が同じことを言った。
―――朝になると疲れが取れてて、なんか元気になってる。
そして、権藤と市谷はこうも言った。
―――なんかカンが冴えて怖いくらいだ。
空飛ぶカァちゃんは二人の話を聞いた時、夜に佐倉と羽とテグスで話した内容を思いだしぞくりとさせられたが、実は自分も以前よりテグスの力が強くなった気がしていた。
もちろん佐倉のような真似はできないが、他者の思考が流れ込んでくる感覚が強くなった気がしていた。
これを伝えた時に佐倉は「これからもっと冴えてきますよ。多分、ちょっとした干渉ができるようになるかもしれませんよ」と言っていた。
佐倉はそれを便利に使えばいいなどと、軽く話していたが空飛ぶカァちゃんはそうなることが恐ろしかった。
もしバレてしまったら?あの三人の能力者のような使われ方を強要されたら?
空飛ぶカァちゃんは想像するだけで恐ろしかった。
さて、これから空飛ぶカァちゃんは、状況によっては日中は官邸で過ごす可能性があるとのことだった。
「なぜ?」と誰もが思ったが、実は空飛ぶカァちゃんのまわりで少々不安を感じさせる事件が起こったからだった。
入院中は私服の身辺警護員を入れて安全を警戒していたのだが、複数の病院スタッフがカメラを持ち病院内をうろつく男を目撃しており、さらに通院患者でもない人間が院内を歩きまわっているところを何度も見かけたそうだ。一度は外国人の男だったらしく、上階に上がろうとしたところを警護員が取り押さえようとしたのだが、病院スタッフを突き飛ばして逃げたとのことだった。
飯田はこのことで、特に空飛ぶカァちゃんの身のまわりのことが心配になったようだった。
今まで空飛ぶカァちゃんほどの特殊能力を持つ人間を軽く扱い、身の安全の警護を怠っていたことがいかに非常識で危険なことであったか――このまま悠長に構えてはいられないと、まずは空飛ぶカァちゃんの住居を今のボロボロの官舎から、最近新しくなった議員会館近くの官舎に移すことになった。
貴重な能力者を守るための配慮と一人暮らしの女性へのセキュリティ面を考えるとそれが当然のはずであった。
愚かな水谷と山本ミキは、叩いたら外れそうなドアノブと簡素な鍵しかない古い官舎に空飛ぶカァちゃんを放り込み、飛ぶ人間が上階に住むのはまずいなどと言って一階に住まわせ、空飛ぶカァちゃんを危険に晒していたのだ。
飯田は、すぐに空飛ぶカァちゃんの住居をセキュリティ重視の部屋に変更させるよう指示を出し、入院中に佐倉と事務所のスタッフを使って引越作業を済ませた。
退院した空飛ぶカァちゃんは新しい住まいに案内されると「嘘でしょう!」と言って両手で口を押えた。
佐倉と飯田のところの女性事務員が部屋を案内すると、空飛ぶカァちゃんは胸を押さえた。
「私が、こんなところに住んでいいんですか?」
空飛ぶカァちゃんがこう言うと、事務の女性が鼻息荒くこう言った。
「もちろんですよ。私、あの官舎を見て驚きましたよ!ドアノブなんて叩いたら壊れそうじゃないですか!あんなところに女性を住まわせてたなんて、本当にあいつらは最低ですよ。さあさあ、まだ本調子じゃじないんだから、座ってください。素敵なソファーですね」
新しい住まいには、佐倉が運んできてくれたソファーの他に、佐倉の従兄が描いたという絵が壁に掛けられていた。羽の生えた妖精の絵だった。
空飛ぶカァちゃんがじっと見つめていると「綺麗でしょう?咲太郎の父親が描いたんです。退院祝いですって」と佐倉がにこっと笑った。
「ええっ、そんな!よろしいのでしょうか?こんな素敵な絵をいただいて」
空飛ぶカァちゃんがまた両手で口を押えて真っ赤になると、佐倉もまた嬉しそうに言う。
「気に入っていただけましたか?この水色の雫の妖精の羽を見てください。この子だけ特別なんですよ。後はイマイチの羽でしょう?そこがいいんです。この子が誰だか、遠山さんがわかるといいんですが」
こんなやり取りを見せられた事務員は真っ赤になっているのだが、佐倉は全く気にしていないようだった。
そして、佐倉は二人にソファーをすすめて、自分は紅茶を入れにキッチンに入って行った。
「遠山さん、佐倉さんっていつもあんな感じなんですか?テレビとかの印象とまるで違いますね、私びっくりしましたよ」
事務員はずっとにこにこしている佐倉の様子を見て小刻みに首を振った。
「はい、そうですね。佐倉さんは誰にでも親切で本当に優しい方なんですよ。私もずっとお世話になってばかりで、もう感謝しかありません」
空飛ぶカァちゃんが真面目な顔でこう言うのを見て、事務員は首を傾げた。
ここ最近、何度か事務所や病院で行き会ったが、今日のように楽し気で常に笑っているような表情の佐倉をその事務員は見たことがなかった。
誰に対しても感じ良く対応しているが、どこか冷淡で距離を置くようなそんな態度ばかりだったので、ここまでご機嫌な様子の佐倉に驚いてしまった。
さて、この事務員、事務所に戻ったらまずはこうするらしい。
---「これぞ佐倉さんの秘密!飯田さんに報告しなくちゃ!」
三人で紅茶を飲んでいる時、佐倉の電話が鳴った。
相手は飯田だった。
――『来週からやっぱり遠山さんには官邸の方に来てもらうことになったよ。特別職ってことで』
「は?会館の方で市谷さんと私達のところで待機してもらうって言ってたじゃないですか!だいたい遠山さんは政務のほうは私と同じでからっきしなんですから!会館の部屋でしっかり一緒に選挙区の広報なりなんなりするって言ったじゃないですか」
佐倉は頼まれてもいないのに空飛ぶカァちゃんの仕事のことに口を出した。しかも政治、政務の方はからっきしだなどと失礼なことまで言い出したのを見て、女性事務員はプッと吹き出しそうになり、思わず口を押えた。
空飛ぶカァちゃんはそれに気づいたが、佐倉は全く気付きもせずに、更にこう言った。
「だいたい官邸で何をさせるおつもりなんです?エリート公務員の使いっ走りみたいなことをさせるつもりではないでしょうね?まだ彼女は安全のために松葉杖を手放せない状態なんですよ?それにもしまた色々言われて傷ついたらどうするんですか!いったん私と市谷さんのところで、」
――『佐倉君、彼女にそんな無理をさせるわけないだろう?安全のためにこっちに入れるんだ。はっきり言って君のところのほうが危険だよ』
飯田は少し笑っているようだった。
「私のところが危険?そんなことはありませんよ。これでもかなり訓練してきましたから!市谷さんほどではないにしても、しっかりお守りできますよ。安全のためというなら私のところが一番安全ですから。遠山さんだって、」
――『佐倉君、遠山さんはそれでいいって言ってたよ。君にはやってもらうことが山のようにあるんだから、遠山さんを守ってなんかいられないよ。とにかく君は、』
「いいえ、こちらでお守りできますから!遠山さんにそちらで何をさせようとしているか知りませんが、そんな大人数の所で急に、」
――『君は過保護だね。遠山さんはしっかりしてるから、彼女にぴったりの仕事を用意して待ってるって言っておいて。はあ、もう君の所が一番危険だってのがよくわかったよ。切るよ、忙しいんだよ全く』
機嫌よく笑いながら電話を切ろうとした飯田に「ちょっと待ってください、」と呼びかけたが無駄だった。
佐倉は長いため息をつき、空飛ぶカァちゃんにこう言った。
「大丈夫ですよ。絶対に官邸になんて行かせませんから」
苦笑いをする空飛ぶカァちゃんを見た事務員の女性はこう思った。
『飯田さんの予想通りか』
お読みくださりありがとうとございます。




