107.早春賦――この二人に春は来るのか?
『声も立てず』の夜が続いていた。
空飛ぶカァちゃんと佐倉は、昼間は権藤や市谷を交えてつとめて明るく交流していたが、夜になると音も、声も立てず、言葉ではなく羽とテグスで能力者として今後どうしていくべきかを話し合ったり、不安な気持ちを打ち明け励まし合った。
その夜、佐倉は強い光を放つテグスと双子の話を持ち出して、彼女がそれを感じているのかということや、特殊な『なにか』を持っているという自覚のようなものがあるかということを、会話の中で自然に聞き出した。
佐倉のほうはというと、この生で覚醒したその瞬間――自分が以前に、別の人生を持っていたことを思いだしたその時から、過去に起きたあらゆる出来事、かつての自分の感情の全てが頭の中に流れ込もうとしてきた。
イメージとしては『羽』からの逆流であった。
親、姉妹のこと、身内のこと、友人のこと。そして双子であったこと。
その双子の妹をとても大切に思っていたこと。
誰かにひどく傷つけられたことや傷つけてしまったこと。守りたいと思っていたのに守れなかったこと。
幸せ、優しさ、怒り、悲しみ、もっともっと沢山の感情が徐々に蘇り、幼い頭にそれを抱えることになってしまった。
頭から飛び出した無数の『羽』は、佐倉が生まれ落ちたその時からずっと佐倉の頭の中に潜んでいたのだろうが、佐倉の頭はしばらくそれを抑え込んでいた。
きっと本能だったのだろう――それが爆発しないように、自覚というものが一気に起こることがないようにと、無意識の力が、羽の暴走をなんとか抑え込むことに成功したために、佐倉は自分が生き続けられたのではないかと思っていた。
そして、そうできたのはどうしてなのか。
確かに本能がそうさせたに違いないだろうが、それを助けてくれたのは絶対に父と母の声に違いないのだと佐倉は思った。
高熱が出た時に枕元で泣いている両親の声や手のぬくもりが、熱くなった頭の中に響いていた。
羽の持つ記憶が、脳や身体中を駆け抜けようとしたり、先走った激情が血管に迸ろうとした時に、その声と温度が、必死に止めてくれたような気がしていた。
前の生では今の父と母を守れる立場であったから、彼らを守りたいと心から思っていたのに、佐倉にはそれが出来なかった。
むしろ傷つけるようなことばかりしていたというのに、逆の立場に生まれ落ちて、今度は父と母となった二人は、しっかりと自分を守ってくれた。
自分が出来なかったことをあっさりとやってのけ、彼らは溢れるほどの幸せをくれた。
少しずつ記憶を解放していきながら、それらのことを思いだし、情けない自分を哀れんだ。
自分を慈しみ守ろうとしてくれる両親の思いを感じるたびに、後悔と自分への蔑みが蘇った。
空飛ぶカァちゃんの持つ『光輝くテグスの主』は、テグスの中に記録されたものを『佐倉の羽』に流し込んだので、彼女の前世の記憶の一部を抱えてしまった佐倉であったが、もしもこれらの記憶を空飛ぶカァちゃんが自力で呼び覚ましたり、佐倉が覚醒した時のようにいきなり過去が逆流しようとしてきた時に、彼女が辛くなったり傷ついたりしないように、注意深く見守りたいと思っていた。
ただ、これから先に彼女がその記憶を呼び覚ますようなことがあったとしても、自分のように激しい自己嫌悪や自分への蔑みの気持ちを持つことはないだろうと思った。
きっと彼女が感じるものは、後悔であったり悲しみには違いないが、佐倉にとってそれらは美しき傷であった。
それに比べて自分の持つ傷は汚れていて、とてもじゃないが美しい苦しみや傷、などとは言えないようなものであり、美しさとは遠くかけ離れたみっともないもののようにしか思えなかった。
空飛ぶカァちゃんは自分とは違う。美しい魂を持った人間であり、自分のように汚れた過去を持つ者とは違い、正しさと清廉さ、無垢、そういうもの――とにかく佐倉にとって尊い存在。そういう人間であるのだと佐倉は断定していた。
---(櫻子さん、留学中のことですが『なんか似てる、なんか近い』って頭に響いた時に、誰がそれを言っていたか見当がつきましたか?
――(いいえ。ただそんな気がしただけなんです。
――(でも今ならわかります。きっと、あの時近くにいたんですね。
――(秘密のデパートを経営する推し活中のサイコパスサイキッカーのような人間が!
---(へえ!そんな人間が?私も会ってみたいものですね。
空飛ぶカァちゃんと佐倉はつい声を出して笑ってしまった。
今日も静かな夜だったが、一緒に出した音が笑い声だったことが、二人はとても嬉しかった。
――(佐倉さん、この前仰ってましたけど、透明な書棚から取り出した本の中に生きる人々が、お身内の方であったり、ご友人が姿形を変えて暮らしていることもあったって。
――(それって、どんな気持ちでしたか?その人達は別に生き直しているわけではないでしょうけど、
――(でも佐倉さんからしたら、別人になっているところを見せられているわけじゃないですか。
――(とても、辛かったのではないですか?
――(例えばお父さんだった方が友人になっていたりとか、そういうことでしょ?
――(私、想像が追い付かなくて。情けないです。
――(せっかく打ち明けてくださったのに、その状況とかその時の思いとか感情をまだしっかりとイメージできないんです。
――(それだと、佐倉さんが困った時に何の力にもなれない気がして……
――(これから先、少しでも佐倉さんに恩返しがしたいと思っているんです。
――(こんなことじゃ、ろくに力になれませんよね。
――(佐倉さんは私をいつも助けてくれました。本当に最初からそうでした。
――(私にサイキックのことを打ち明けて下さいましたが、
――(大切なことを教えてくださって、申し訳なくて。
――(子供たちのことだってそうですよ、今もこんなにお世話になってばかりで。
――(私に何かできることはないでしょうか?
――(どんなことでもいいので仰ってください、私は、
---(いいえ、そんな風に考えないでください。とんでもないことです。
---(私があまりにみっともない人間なのでお話できないことばかりなんですよ。
---(静ちゃんは私のそれを知ってしまったというか、気付かれたっていうより、私が無神経にそういう部分を見せてしまったんですが、あの子は優しいから。今も私を大事に思ってくれているんです。
---(櫻子さんに嫌われたくないから、私のそういう部分はまだ知られたくないんですよ。
---(ですから恩返しとか、そんなこと考えないでくださいね。
---(それはこっちのセリフですから。
---(今は覚醒のことが気になるんですよ。
---(無防備に羽を使って接触した相手がカンが鋭い人だった場合、
---(多分ですが、麹町先生とかがそうなんでしょうが――私のせいで感覚が呼び起こされてしまったんでしょうね。
---(話を戻しますが、櫻子さん、もしかしたら留学中に無意識のうちに、
---(テグスを伸ばしてしまった可能性があるのでは?
---(頭に響いて来たその声の主は、そのテグスの性質が『何か似ていて、近い』ものだと思ったんじゃないでしょうかね?
---(正直言って、私はあなたほど強い羽――テグスを持つ人間に会ったことがないんですよ。
---(静ちゃんのもかなり強くて驚きましたが、あの子はまだ発達途中だと思うんです。
---(英介はまだ静ちゃんのようには飛び出してきていません。
---(櫻子さんは静ちゃんのテグスは見えたと仰いましたが英介のは見えていませんよね?
――(はい。何か妙だとは感じましたが。静のほうもあの糸を出さないようにしているみたいですから、そういつも見えるわけじゃないんです。
――(私は佐倉さんほど敏感に感じ取れるわけじゃないんですよ。
――(慣れていないだけかもしれませんが、まだなんとなく、という部分が大きいんです。
---(そうですよね。私は両親と一緒に色々な国を旅行しましたが、私ほどコレが飛び出している人間にまだ会ったことがないんですよ。
---(ずっと探そうとしていたのですが、途中で諦めたんです。
---(もしいたとしても、私にそれを隠せるような相手なら、それこそ私に勝ち目はないだろうと思いましてね。
---(そう思ったらもうやめておこうとね。
---(でもあなたに会えました。すぐにわかったんです、お仲間であるとね。
---(私の……私の母の慕っていた翻訳家を評価してくれた恩人であるあなたが、
---(あの翻訳家を参考にしていたと言ってくれたあなたが、そうだったと知った時の、
---(私の喜びがどれほどのものだったか、きっとわからないと思いますよ。
---(だから櫻子さん、あなたはこれから先いつだって、
---(私をいいように使ってください。どんなことだってあなたのために私は、
---(それこそ私のほうが恩を返したいんです。
――(佐倉さん!一体何を仰っているのか本当にわけがわかりませんよ?
――(私がマリー先生……私、ずっとマリー先生って呼んでいたんですが、
――(マリー先生の本を集めていたことを佐倉さんがそこまで、
――(そんなに喜んでくださるなんてびっくりしますよ。
――(本当に素晴らしい先生だと思っていました。いつも想像していました。
――(きっと繊細な方で、想像力が本当に豊かで、温かい心の持ち主なんだろうって!
――(私も頑張ってみようって、そうしたらきっとコンクールにだって入賞できるかもれいないって。
――(そんな風に思って出してみたら入賞したんですよ?すごいと思いませんか?
――(入賞した時に私こう言ったんです『マリー先生、見ていてくれましたか?先生の真似をしてすごく丁寧にやったんですよ』って!
――(そうしたらね、びっくりなんです。なんと地震が起きたんです。
――(あの時震度4強だったから私ぞくっとしたんですよ。
――(普通なら怖いと思うじゃないですか!でもマリー先生が答えてくれたような気がしたんです。馬鹿みたいですよね。
---(櫻子さん、あなたはあの翻訳者をマリー先生って呼んでたの?
――(ええ、もうずっと。私、そう呼ぶのがいいかなって、そんな気がしたんですよ。おかしいですよね。
この夜、佐倉の心はとてつもなく温まった。
空飛ぶカァちゃんにはそれがわからなかったけれども、佐倉はもうどうしようもなく温められてしまい、嬉しくて泣きたくなり、ずっと抱えていた自己嫌悪や自分への蔑みの気持ちを、丁度良いと感じる温度で包み込まれたような気がした。
そして夜更かしはまだ続いた。
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