104.私は軽蔑なんてしない
◇◇◇◇◇
友人に車の運転を任せ、助手席で必死になってオイルを含ませたコットンでメイクを落とし、何度も何度も拭き取りシートで顔の汚れを剥がし取っている佐倉を見て、慶次の父・山崎も友人の八木も無言で顔を見合わせた。
遠山公男にうっかり姿を見られたら大変だからとメイクまでしてついて来た佐倉だったが、幸運なことに公男を見張っていたというサイキッカーが現われたことで、あっという間に目当ての品を取り戻すことができたのだ。
顔からも身体からも喜びが溢れ出ている佐倉の姿に驚いた二人は、その様子を横目でチラチラ観察しながらも余計な言葉はかけないでやった。
さて、病院の駐車場で普通の服に着替えた佐倉は、弁護士の二人と一緒に空飛ぶカァちゃんの部屋に入った。
友人の八木と慶次の父・山崎が晴れやかな表情で空飛ぶカァちゃんのベッドに近づくと、佐倉がこちらの二人がネックレス一式とショールを取り戻してくれたことを伝えると、空飛ぶカァちゃんは真っ赤になって泣き出してしまった。
八木がまた手袋を付けてネックレスやイヤリングを空飛ぶカァちゃんの目の前に寄せると、皺くちゃになった目元から涙が零れ落ちた。
弁護士の二人はその姿を見てホッともしたし、やはり同じように胸が温かくなった。
少し落ち着いた空飛ぶカァちゃんが文字で心からの御礼を伝えた後、彼らは安全のためにこれらのジュエリーとショールはいったん佐倉家に持ち帰り、近日中に空飛ぶカァちゃんの実家に届けると伝え、退室しようとしたのだが、空飛ぶカァちゃんは込み上げるものがあったのだろう、最後にこう文字で伝えてきた。
ーー『諦めていたものが魔法みたい目の前に並べられたこの日のことは忘れません』
二人の弁護士は満足し、もちろん佐倉も満面の笑みだった。
囁くような声で「またすぐ来ます」と言った後、佐倉は羽でもこう伝えた。
---(二人を車で送った後で、ネックレスを家に置いたら戻ってきますから。
---(また色々な話をしましょう。だから、できたら少し仮眠してください。
空飛ぶカァちゃんが『そうします』と佐倉の羽に伝えると、佐倉はやっと部屋を出て行った。
いつか、娘に渡したいと思っていた大切な宝物をこの手に取り戻せた空飛ぶカァちゃんは、張り切る心臓の音がうるさすぎて自分はもう仮眠など出来るはずがないと思った。
何もかも取り上げられて絶望して泣いて、なぜこんな思いをしなければならないのだろうかと思っていたところに、次から次へとろくでもないことばかりが起こり、もう消えてしまいたいと、身も心も縮こまらせてびくびくしながら、ただ子供たちのためだけに生きていた。そんな自分が、自由と、一歩と、温度を取り戻せたのだと佐倉さんに伝えたい――空飛ぶカァちゃんはそう思っていた。
ここ最近ずっと、佐倉の秘密の告白を聞いてからずっとそればっかり思っていたのだ。
佐倉が戻ってきた時、権藤も市谷もぐっすり眠っていて彼らは佐倉がカーテンを閉めたことにも気づかなかった。
身辺警護員はスタッフ用仮眠室で休憩中のため、この部屋で起きているのは空飛ぶカァちゃんと佐倉だけだった。
---(看護師さんにどやされそうですが、少しだけ話したかったんです。
---(遠山さん、本当に良かったです。私も嬉しいです。
――(弁護士さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。
――(でも佐倉さん、佐倉さんのおかげです。わかっているんです私。
――(これからどうやってこの感謝の気持ちをお返ししたらいいのか、
――(本当にありがとうございます。どうしたらいいのか本当にわからなくて、
――(だってこんなに親切にしていただいたことがないんです。
――(だからわからないんですよ、しょうがないですよね私ったら、
---(とんでもないことです。遠山さん……ってもう呼ぶのはやめたいのですが。
---(でも苗字で呼ぶのもまだ英介たちの手前、何となく呼びづらくて、
---(櫻子さんとお呼びしても?
---(さすがに子供たちの前では控えますので。
――(ええっ、でも今まで誰かからそんな風に呼ばれたことがないんです。
――(そんな風に呼ばれたら、おしとやかなお嬢様にでもなった気分になりそう。
---(ではそうお呼びしましょう。櫻子さんが佐倉と話すなんて、
---(ちょっと笑っちゃいますよね。
――(ほんとうに。
――(佐倉さんは今日もまた例の秘密のデパートの話をして下さるのですか?
---(そうですね。もちろんそれもいずれは全て、とは思ってますが、
---(今日は静ちゃんにだけ話した書棚の話をしようかと思ったんです。
佐倉は透明な書棚の話をするつもりだった。
高崎からの帰りに、静にこの話をした時は、新幹線の中で羽とテグスを使った。
佐倉が自分で選んだ言葉で少しずつ、伝えてもいいと思うものだけを伝えた。
佐倉は今、透明な書棚の前で過ごした時の自分の記憶の一部を羽から直接送ってみようと思っていた。
自分の生まれ変わる前のことは伝えたくはなかった。
今はまだ、それを知っているのは静だけでいてほしかった。
空飛ぶカァちゃんが学生の頃から敬愛しているという『糸数万理』という翻訳家の人物像を壊したくないだけなのか、自分の過去を知られたくないだけなのか、自分でもわからなかった。
今は、きっと自分は空飛ぶカァちゃんの前では親切な私設秘書の佐倉のままでありたいのだろうと思っていた。
それでいいじゃないか、そうしたってどこが悪いのかと。
――(書棚といいますと?
---(はい、それを今から見ていただくわけですが、
---(静ちゃんには話したのですが実際の書棚と本はまだ見せていないんです。
---(静ちゃんに見せたのはその中から飛び出てしまった記憶の一部でして、
---(うっかり頭から漏れ出てしまったみたいなんです。
---(恥ずかしくて、みっともない記憶ばかりが飛び出してしまいました。
---(今からお見せするのは、私が生まれる前の世界の記憶です。
---(つまり、一度死んだ後の私の時間をお見せするというわけです。
空飛ぶカァちゃんは『生まれる前』『死んだ後の時間』という物騒な言葉を聞いて目を見張った。
しかし、なぜか胸がきりっと痛んだことも確かだった。
まるで、心当たりのある人間が不意打ちをされた時のように空飛ぶカァちゃんの胸は痛んだ。
佐倉の羽がふわりと。一本だけ浮き上がった。
空飛ぶカァちゃんのテグスのうちの一本に向って佐倉の羽が向かって行く。
そしてその先端にコンとぶつかった時。
空飛ぶカァちゃんのテグスに一気に奇妙な映像が流れ込んだ。
それは、誰かが何かを見つめる視線だった。
どこにいるのかわからない。ただ、どこかに立っている。
オレンジのような香りがふわりと漂った。とてもいい香り―――
目の前に豪華、という言葉ではちょっと違う――優雅な丸みを帯びたラインの彫刻の美しい書棚が置かれていて、その棚には綺麗に本が並んでいた。
大きさが同じくらいの本が同じ段に置かれ、ずっしりとした厚みと重みがある本は一番下の段に入れられていた。
そして一冊が、書棚の前に浮いていた。
くるりと、視線の主が振り向くと、目の前には驚いたことに大きな透明の書棚が浮いていた。
後ろの書棚と同じように美しい姿形、儚げで繊細、浮いているように見えながら、目の前から決してなくならないということが本能的にわかった。
これは佐倉の書棚だ。
空飛ぶカァちゃんにはそれだけはすぐにわかった。
透明な書棚の前には何冊かの本が浮いていて、その本は書棚と同じように透明だった。
美しく透けていて、もし自分の手を本の下に差しこんだらきっと手のひらまでもが透けて見えるだろう、空飛ぶカァちゃんはそう思った。
透明は本は、まるで佐倉が何冊もの本を同時進行で読み進めているかのように、横並びで同じ高さで浮いていた。多分五、六冊。そして奥の方にも数冊浮いている。
透明な本を読み比べながら視線の主、佐倉がつぶやく。
『この前は入れ替えられたんだから大丈夫、私は賭ける』
佐倉はまるで自分に言い聞かせているようだった。
すると、急にふわっと風が起こった。
どこからともなくやって来た若い女性が『待って、待って!』と声をかけてきた。
佐倉がこの女性に向って言う。冷たい、軽蔑を含んだ声色だった。
『ああまたお前か、うるさいね。私は絶対に放っておけない。お前のような者が何を言おうと勝手にやるんだ。後から来たくせに!のこのこ勝手に私の場所にやって来て私のすることに口を出すんじゃないよ。邪魔をするのはおやめ!間に合わなくなったらどうする!』
『他人の……誰かの人生に無関係な人間が余計な手出しをしてはいけませんよ。自分を神様だとでも思っているんですか?』
若い女性が佐倉を非難しているようだ。
『くだらないことを言うんじゃないよ。私が誰を助けようが勝手じゃないか。ちゃんと私が始末をつける。絶対に私が助けてみせる。私はお前のように冷たくないんでね。お前は人の絶望を黙って眺めてろって言うのか?それで?ああ可哀想に、頑張って何とか立ち直って他の道を見つけて頑張れって応援でもするつもりか?冗談じゃないよ』
佐倉の左手が一冊の本に差し込まれた。
そして、右手が別の本に差し込まれると、一瞬のうちに両手が交差して何かが入れ替わった。
叫び声が聞こえた。
そして佐倉を罵る激しい声が。
佐倉はその女性に突き飛ばされ、体が横向きに倒れた。
しかし佐倉は浮いている、浮いたままで笑い出した。
『私は勝手にやるんだ。助けたい人間を助けるんだ、お前のような薄情者の指図を受けるものか!』
佐倉は叫んでいるかのようだった。
『私は絶対に、できる時に、やるべきことをやらないといけないんだ』
空飛ぶカァちゃんは佐倉の叫びを聞き胸が震えた。
誰かの制止を振り切って、激しい非難を無視して誰かを助けようとした佐倉の行為に身体の中の何かがずくん、と一斉に音を立てた。
自分がいつも欲しかった救いの手。
誰に何を言われても誰かを助けようとした佐倉の左手と右手が、まるで自分を救ってくれた今の佐倉の原点なのだと、空飛ぶカァちゃんは確信した。
その美しい手を、空飛ぶカァちゃんは尊いものとして見つめたが、もう一人の女性は佐倉のその手に冷たい一瞥を与えたのみですぐに目をそらし、自分の視界から遠ざけた。
佐倉が叫び、笑い声をあげて手をぎゅっと握り込んだのを見ると、ますます軽蔑したようにきっと睨みつけてきた。
佐倉がその女性に『私のことを見るのも嫌ならあっちへお行き!そんな顔付きをしたって私はびくともしないよ。何をしたって無駄だからさっさとどこへでもお行き』というと、その女性の姿はフッと消えてしまった。
空飛ぶカァちゃんは決して自分の声が届かないことをわかっていたが、佐倉を非難した女性に向って言った。
「あなたが佐倉さんを軽蔑しても、私は絶対に軽蔑したりしない。私だけはわかるから!助けられた者だけがわかるんです」
この声を聞いた佐倉の羽は大きく波打ち、空飛ぶカァちゃんの体を駆け抜けていった。
空飛ぶカァちゃんの光り輝くテグスの本体が無数に伸ばした触手のように、佐倉の羽は光のように駆け抜けた。
そのまま空飛ぶカァちゃんは眠りに落ちたようだった。
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