決勝戦(ファイナルヒート)
《お待たせしました。遂に参加者募集開始から数えれば約二年にも及んで続いた、『AIR ACE』プロジェクト、その締め括りである『AIR ACE』トーナメントの決勝戦です》
《私も当初からこの企画を見てきましたが、一観戦者としても、非常に感慨深いですよ》
幕張の青い海と空に、満員となった観客席からの声が響き渡る。
格納庫近くの事務所では、『AIR ACE』レースの責任者である成塚勲子を初めとして、クリス、オーウェンといった教官陣がモニター越しにレースの成り行きを見守っている。
そこにたった今整備を終えてやってきた任と遙香が到着する。
「どう?」
「何とか終わりました。サイラスのチームが手伝ってくれた、おかげで……」
勲子の問い掛けに、任が複雑な笑みを浮かべて答えた。
「サイラスの?」
勲子が驚くのも無理はない。
サイラスは今年からチャレンジャーズカップに出場しており、この千葉大会にも参加することになっている。チャレンジャーズカップは『AIR ACE』レースの直後だ。
「サイラス本人が状況を聞いて、こちらにオペレーターを寄越してくれたらしいです」
「……あいつ、何だかんだで面倒見がいいからな」
オーウェンはそう呟くと、普段の硬い表情を崩してほっと一息をついた。
「そう。助かったわ」
勲子は込み上げてくる感情を何とか飲み込み、両手を合わせて額に手を付けた。
「あとは、あの子たち次第ってことね」
やがて、中継の映像の奥から、鳥の影のような黒い機体が近付いてくるのが見えた。
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黒い翼を持つエクストラの中で、貴広は自分の鼓動の音を感じた。
遠くにはいくつものパイロンが並び、幕張の海岸に立体的なコースを形作っている。
30秒後にはレースが始まり、その1分20秒後にはレースが終わる。
貴広は矢浪颯の勝負強さについて考えた。
颯の強さ、それはリスクを犯してタイムを削るフライトとそれを可能にする精神力――概ねそう評価されているが、実際はそれだけではない。矢浪颯の真の強みは、〝最適解〟を超える〝最速〟を見つけ出すその直感力だ。
実際にフライトした感覚を元に、計算上では見えなかったルートを空中に見出す。
それが颯のパイロットとしての最も厄介な能力だ。
だが、それは貴広にも習得できない〝技術〟ではない。
その片鱗は先程の戦いの中で見つけた。
(準決勝のフライトを終えて、その経験を踏まえて――新しいルートを構築する)
コースを目前にしながら、貴広は自分の中にある明確なヴィジョンを思い浮かべる。
(リスクを限界まで背負う。矢浪が見つけ出す可能性のある小さな隙間の全てを、俺も見つけて最速解に繋げる)
頭の中で音を立てて、次々とルートが組み換えられる。
やがて、心に静寂が訪れる。
思考が終わり、無数の計器と現実にあるパイロンが視覚情報として脳に逃れ込んだ。
その瞬間、出現した黒いゴーストが操縦するエクストラと重なる。
《『AIR ACE』――》
速度はペナルティ寸前まで上がり、更に、スタートゲート前から次のコース取りに繋がるように接触スレスレの角度をつける。
《――フルスロット!》
貴広はほとんど何の思考もせずに、五感の情報をそのまま操縦桿に反映させた。
それは明らかに準決勝の誰のフライトよりも、洗練され、なおかつ見る者の心を波立たせるような危うさを秘めていた。
『GATE4』――バーティカルターンに至るまで、余裕あるパイロン通過は1つもない。
貴広は最速と思われた序盤の雪兎と比べても、自分が速いことを実感していた。
1度目のフライトで見えた僅かな厚みは、黒い両翼が削りとり、生身の刃のような鋭いラインを形作る。
《――20.741》
1つ目の計測ポイントで告げられたタイムは、今日の区間最速だった。
貴広はタイムを情報として形式的に受け取り、そこに何の感傷も挟まない。
その一方で、鋭いコース取りと共に自分の精神まで擦り減っているのを感じた。
シケインを、エアゲートを紙一重で交わす度に、自分を包む膜が剥がれ落ちる。
そして、それは決して悪い感覚でなかった。
余分なものが削られれば削られるほど、消耗すればするほどに、貴広は本当の自分が姿を現すように感じた。
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――いつからか、人生は彩のないものになっていた。
多忙な両親は折り合いが悪く、それでも愛情と教育だけは一人息子の貴広に一心に注いだ。
大きな失敗があったわけじゃない。
しかし、人一倍感受性の強い貴広は、いつしか両親の期待を背負いながら、2人の仲を取り持つように家の内外で全力を尽くした。
そして、両親の仕事がそれぞれの苦境を越え、関係も落ち着いたころには、貴広は現在の性格になっていた。
貴広にとっての少年時代は、与えられた課題に好成績を残すゲームのようなもので、しかもそれを内心では楽しんでいた。優秀な貴広に対しての報酬は大きく、友人は少なかったが、暇を潰す課題にはこと欠かなかった。
両親はそんな貴広と共に、よく休日に出掛けるようになった。
それが、貴広の内向的で消極的な性格を気にしてだったのかは分からない。あるいは、親子の時間を取り戻そうという、単純にそれだけの理由だったのかもしれない。
だが、そんな日常をエアロバティックスが壊した。
貴広の意識は空を飛んだその日から、ただ一点を向かって進み始めた。
颯はそう感じないかもしれないが、貴弘は決して特別なバックボーンがあった訳じゃない。
その日、エアロバティックスの体験をしたのは彼1人だったわけじゃない。
その中でただ1人、貴弘だけが、その体験を特別にしようと思って行動を始めただけだった。
それが茨の道の始まりだとも知らずに……。
引き篭もってばかりでひ弱になった体を1から鍛えなければならなかった。
ほとんど学年最下位だった体力を高校3年間を掛けて標準まで戻した。それと同時に、志望大学に入るため成績も維持する必要もあった。
無理を重ねている自覚はあり、これまでしないような失敗も増えた。
トレーニングの加減が分からず体を壊した。
エアレースの研究に没頭したせいで、成績は落ち両親から進路を心配され、それも説得しなくければいけなかった。
レースを見に行くために密かに始めたアルバイトは、壊滅的な接客スキルがたたり僅か1カ月でクビになった。
失敗は笑い飛ばせるようなものだけじゃない。
貴広はエアレースを目指したことで、しないはずの挫折をして、負わないはずの傷を負った。
空への情熱は当時の輝かしさを徐々に失った。
漠然とした憧れは現実という巨大な壁の影に覆われた。貴広は微かに残った執念のようなもので、自分を奮い立たせて進んだ。
いつしか、選択には迷いが出来て、後悔も数え切れないほど抱えた。
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《――45.993》
第2チェックポイント、区間記録を出したことに実況や観客は驚いていた。
貴広はそんな会場の空気に気付かないほど、目の前のフライトに向かい合っていた。
せいぜい、頭の片隅で、『GATE8』と『9』の間の旋回が辛うじて上手くいった――そう考えているくらいだった。
(――痛い)
貴広は精神の消耗と肉体の疲労に顔を歪ませながらも、操縦桿を握る力を緩めなかった。
《――58.079》
黒いエクストラは呻くようなプロペラ音を響かせ、バーティカルターンへと突入する。
(……本当に痛かったんだ)
棘だらけ、傷だらけの道だった。
だけど、それに後悔はない。
そこには他でもない、自分自身の魂があったからだ。
貴広は再び規定Gの判定の真下を潜るような操縦を敢行し、最後の直線へと急降下する。
そして、理想とする黒い幻影と共に、ゴールゲートを潜り抜けた。
貴広はゴールゲートを抜け、タイムを聞くと、自然と周囲の青空が目に入った。
その景色を見たとき、瞳から薄く涙が浮かんだ。




