夢の先へ
《タイムは1分18秒628。なんと、このプレッシャーの中、タイムを更に伸ばしました!》
《素晴らしい集中力ですね。本当に訓練を始めて一年に満たないパイロットとは思えません》
選手待機室では、入鹿と雪兎がモニターから実況の声を聞いていた。
「……いつかみたいに、勝敗の予想するか?」
入鹿は席に寄り掛かり、テーブルの向こうでモニターを見つめる雪兎に声を掛けた。
「あれ、私は参加してないけどね」
雪兎の声はやや枯れていて、目も赤く腫れているが入鹿はそれには言及しない。
「でも、チャットは見てたんだろ?」
「……私はあのとき、スカイウルフに勝って欲しいと思ってた。でもそれは、以前自分を負かした相手だからとか、ホークが強すぎるから報いて欲しいとか、大した理由じゃない」
「今はもっとはっきりとした理由で応援してる?」
「ううん。貴広だって仲間だから、どっちが勝って欲しいとかはないよ」
「はっ、好きな奴に勝って欲しいなら、素直にそう言えばいいのに」
雪兎は言葉を詰まらせて入鹿を軽く睨む。
呆れたことに、それをからかいたくてこの話を振ったらしい。
「お前ら全然、隠してもないだろ。応援してやれよ。好きな奴の思いは当人の力になるかもしれないぜ。……俺はかわいそーだから、貴広を応援するけどな。師匠の名誉のためにもな」
雪兎は入鹿がまだ勝負を五分だと思っていることに気付いた。
貴広がベストタイムを更新し、これまでのタイムを考えれば、颯が圧倒的に不利なこの状況に置いてもだ。
そして、それは雪兎も同じだった。
(だから、少しは祈ってあげようかな……)
せめて、颯が自分を思ってくれた分くらいは、颯の勝利を願おうと思った。
雪兎は額に手を当てると、モニターに映る赤いエクストラに向けて思いを込めた。
(勝ってよ。約束したんだから――)
▲ ▼ ▲ ▼ ▲
《後攻の矢浪選手の入場――スカイウルフの赤い機体で登場です!》
軽快なプロペラ音を纏い、赤い翼は青い空を切り裂く。
颯は約束通りタイムを聞かないまま、最後のレースを挑もうとしていた。
(タイムを聞かなくても、最初から分かってる)
颯は握る操縦桿が重さと、自分が恐怖していることに気付いた。
(貴広はこういう場面では決して失敗しない。こういう場面でこそ、必ず持てる力の限りをぶつけて自分の出せる最高タイムを叩き出してくる)
だが、本当に怖い理由は貴広が相手だからではない。
颯を恐怖させているのは、これまでにない、背負った物の重さだった。
颯はこれまで無謀なフライトに挑むときは、いつも「自分には何もない」と言い聞かせていた。それは勇気というよりは、捨て身に近い覚悟だった。
けれど、今はもうその重さと価値を知ってしまっている。
今更、何も持っていない振りなんて出来ないことを、颯はこの瞬間に実感していた。
(でも、ただ怖いのとも違う)
颯の胸の中に静かな炎が宿る。
震えが止まり、リスクだらけの赤い道が見える。
この1年間のことを思い出すと、操縦桿を握る手に、不思議と力が湧いた。
《それでは、泣いても笑いても最後の勝負。悔いなく飛べることを祈りましょう》
スモークスイッチをオンに入れ、遠くで白く輝くゲートを見据える。
《『AIR ACE』――》
颯は操縦桿を微調整しながら、最高速度でスタートゲートの間へと突入する。
《――フルスロット!》
颯にとって、パイロット候補生としての最後のフライトが幕を開ける。
▲ ▼ ▲ ▼ ▲
スタートゲート通過と同時に、貴広の黒いゴーストが颯の隣を並走し始めた。
(貴広、勝負だな)
何百回と繰り返してきた、スタート直後のシングルパイロンを突破、一見、いつもと同じコース取りでも、颯はほんの数十センチを意識して削っていく。
僅か0.01秒を繰り返し、切り詰めた。
そして、一度目のバーティカルターンで颯は最初の勝負に出た。
操縦桿を普段より五度手前に引き、操縦桿を戻すタイミングを0.5秒遅くする。
GメーターDNFラインまで一気に上昇し、上限である10Gを僅か0.1秒だけ超えた。貴広以上に正確にオーバーGラインを攻めることで、タイム短縮を狙った。
《――20.865》
その甲斐あって、タイムは雪兎や貴広の出したベストに近い。
(DNF判定は出ない、けど……タイム的には、あまり意味のないリスクだったかもな)
颯は結果に満足しなかったが、おそらくこのリスクを負えるのは序盤で体力に余力がある今だけだとも感じていた。
黒いゴーストは機体一機分先をいく。
颯はその尾翼に食らいつくように、シケインをリズミカルに切り抜ける。
僅かにズレればパイロンヒット、即敗北に繋がる細い赤のライン上を、極限の集中力を持ってブレを最小限にコントロールする。
コースは『GATE7』から『9』までの大きな旋回に入る。
レースの山場で、機体の三次元的なコントロールが求められる難所だ。
操縦桿と左右のラダーペダルだけに感覚を研ぎ澄ませる。
機体がどのように動くか、風の影響を受けるとどういうリアクションを取るか、颯にはもう手に取るように分かる。
使い慣れた機体、幾度もシミュレーションした会場の環境、擦り切れるような計算の繰り返し、それらの全てはもう体の奥底までに染み込んでいる。複雑な思考がなくとも、最適解を直感が導き出してくれた。
赤いエクストラはそれが自然であるかのように、美しく大空を旋回した。
1度目のフライトときには感じた、居心地の悪い緊張を少しも感じることはなかった。
《――46.408》
第二チェックポイント、『GATE9』通過時のタイムが出る。
結果は準決勝の雪兎や貴広とほぼ互角のタイムで、序盤の差が縮まっている――普通ならそう喜べる状況で、颯は自分の過ちに気付いた。
(先に行かれた!)
黒いゴーストは颯よりも5メートルほど前方にいる。
貴広のタイムを知っている訳でもないのに、颯はそれをまたも直感的に悟った。
颯は旋回時に違和感のない直感の導くルートを選んだ。
それは間違いとは言えないが、この状況では正解でもない。
貴広はおそらく、直感なら否定する危険なルートを通っているはずだ。颯は旋回を終えた直後の〝上手くやれた〟という安定感からその選択肢を見つけた。しかし、颯の見つけられる可能性ならば、今の貴広が気付かないわけがない。
貴広ならば、『GATE7』の時点で気付いて実行していると可能性はある。
いや、貴広は絶対にその選択肢を逃さない。
颯の意識ではすでにアラート音が鳴り響き、視界が赤く点滅し始めた。
点滅する視界の中、颯は細い赤のラインの内側をなぞるように、2度目のシケインを通過した。焦る気持ちを押さえて、リスクを極限まで背負った、最速のライン取りを実現する。しかし、第3チェックポイントを通過するまでもなく、遅れが取り戻せていないことは分かった。
貴広の選択した個々のリスクによる、『GATE9』までに付いた差が大きすぎた。
第3チェックポイントである『GATE11』が見える。
そこを通過すれば残る『GATE』は5つ。
敗北――それを意識した途端、絶望が思考を凍り付かせる。
ゆっくりと流れる時間の中、颯はふと計器のガラスが反射する自分の表情を見た。
《――58.373》
刹那、心の奥底から響く自分の咆哮を聞いた。
▲ ▼ ▲ ▼ ▲
かつて、颯は冒険心と一緒に、絶対的な自信を持っていた。
それが初めて砕けたのは、いつかの小学生のとき、キャンプで滝つぼに飛び込んだときだったと思う。足の指を切った痛みに真っ赤な血の幻影を見た。その恐怖の中で、颯は自分の中にいた理想像のようなものが川の底に沈んでいく肉体から、ゆっくりと離れていくのを見た。
その日以来、理想に対して自分はいつも一歩引いた場所にいると感じるようになった。
年を重ねるにつれて、失敗や挫折は当然に増えていく。
颯は見失っていた理想像を、『AIR ACE』を始めてからはアバター〝スカイウルフ〟に投影していた。
勇猛果敢、恐れを知らないスカイウルフ――そんな幻影に、自分の夢を託していた。
――明日は応援に行くよ。
莉緒のメッセージが脳裏に浮かぶ、今頃会場でいつかのように涙目になっていそうだ。
――君ならタカにだって勝てる。頑張れよ。
弥勒が別れ際に残した言葉、弥勒とは思えばあれ以来話していない。
――負けないで。
雪兎は泣き止んだ後、颯に向けて小さくそれだけを告げた。
(努力だとか才能だとか……そんな言葉遊びはもうどうでもいい)
託された思いを感じて、心の奥で何かが叫び声を上げる。
(俺は勝つ。最後の一滴まで使って。絶対に!)
銀色の毛並みを持った狼、機体の色と同じ炎のように輝く情熱を胸に秘めている。
それは颯の中で生まれ変わった、新たな理想のヴィジョンだった。
恐怖や現実に抗ってでも、何かを掴み取りたいと望んだ颯が、この1年間で掴み取った本当の勇気だった。
――ずっと離れていた理想のヴィジョンが、現実の自分と重なる。
操縦桿を固定する。
連続エアゲートを抜ける瞬間、颯は引いた操縦桿を僅かに傾けた。
判断を下すことにもう一切の躊躇もなかった。たった1つだけ赤く点滅する道、成功例のないそこにだけ勝機はあった。
最後のバーティカルターン、頭上には青い舞浜の海が見える。
残る『GATE』は3つ2本のパイロンの間を飛行するエアゲートと、それを抜けたシングルパイロン、そして最後のゴールゲートだ。
オーバーG直前、颯は機体を翻す。機体は上空から一直線に速度を上げて下降する。
バーティカルターン時、機体は僅かに東に逸れていた。実況者やレース関係者の多くがコース取りのミスだと思ったそのルートを、颯は修正しないままエアゲートに突っ込んだ。
海岸に向けて吹く風と、シングルパイロンへの角度、それだけを考えればこのコース取りは最高と言っていい。風による加速と、次のパイロンへの切り返しやすさから、タイムを0.5秒程縮められる。
しかし、現実、侵入角度が急であるほど、エアゲートと機体に間に生じる間隔はなくなる。
颯のルートでは事実、本来1メートルほどあるはずの両翼と二つのパイロンの隙間は、ほぼゼロになる。
距離が最低でもゼロということは接触するということ、パイロンヒットは免れない。
(いいんだ。これでいい!)
エアゲートまでの僅か2秒の間、颯は感覚を研ぎ澄ませ、機体とパイロンの隙間がほとんどゼロになるルートを狙った。
『AIR ACE』でのシミュレーション中、このルートに気付いて練習したが、一度も成功しなかった。理論上不可能、貴広が気付いたとして選択肢に入れることは出来ない、そんなルートだ。
(でも、現実のレースなら万が一があるんだ)
観客の見守る中、エクストラはエアゲートに侵入する。
そして、颯さえも想像した通り、その右翼はパイロンの表面をなぞるように掠めた。
観客席に落胆の声が漏れる中、颯は集中力を研ぎらせないまま、成功を確信して次のパイロンのため急いで操縦桿を切り返す。
一瞬遅れて、解説の言葉を聞いて、観客の落胆が歓声に変わる。
パイロンは右翼の接触を受けても破損を免れ、何事もなかったようにそこに立っていた。
《パイロンが破損しなければ、パイロンヒット判定は受けない》
レース本戦での実例はただ1回、ゲームではシステム上再現の出来ない可能性を、颯は現実のレースでしかやれない方法で切り抜けた。
貴広を国内研修初日に驚愕させた、シーズンレースの準決勝の方法とは逆のことを行ったのだ。
気付くと、貴広の黒いゴーストは隣を並走していた。
ここまでのリスクを犯して、ようやく颯は勝負を五分まで戻すことが出来た。
最後のシングルパイロンが迫る。
後は、切り返しの勝負。ギリギリのタイミングを見極められるか――操縦桿を右に傾け、右足のラダーペダルを踏むという、2つの動作だけで勝敗が分かれる。
(これが最後だ)
颯は息を止め、自分の鼓動の音が強く大きく波打つのを聞いた。
高速で流れる風景がその瞬間だけ止まって見える。
パイロンを通過する瞬間、ここで角度をずらしたら、あるいはパイロンヒットになるという間際、颯は右足に力を込め、操縦桿を素早く傾かせた。
再び時間が動き出す。
颯は機体をほぼ垂直に傾かせたまま、シングルパイロンへと旋回する。
強い風と交差する音、黒い幻影が後方に消える。
颯は周囲の景色に、これまでの日々が流れていくのを見た。
閉め切られた自分の部屋。
僅かな希望に縋り裏切られた月夜。
見慣れない計器が並ぶコックピットと教官の怒声。
何度も空から見たロサンゼルスの街並み。
パイロット候補生の仲間たちやスタッフ、コロラドの夫婦と芸術家、取材班、彼らと過ごした日々。
訓練最終日、雪兎と共に見た星の光――……。
全てが瞬く間に通り過ぎていく。
《タイムは――》
ゴールゲートを通り抜けると、颯は手を伸ばしてその先の青空を掴んだ。




