失っていた欠片
1月に入ると、レースに向けての訓練はいよいよ厳しさを増した。
体力強化、基礎の反復練習に加えて、実戦向けの幾つかのコースを作ってタイムトライアルが繰り返される。個々のスキルを上げながら、残る2カ月間でレースで求められる特有のフライト技術を全て習得するための訓練だった。
仮設コースは3パターンがある。一般的な周回トラック(コースA)。直線的なスピードサーキット(コースB)。高低を想定しつつ、パイロン以外の障害が存在するテクニカルコース(コースC)。
Gが強くかかるスピードサーキットの前には、高いGに対応するための特別な呼吸法や失神を防ぐ方法を、改めてサイラスから教わった。
候補生たちが全てのコースに慣れるまで1週間ほど時間を要した。
訓練開始10日後から、毎日ベストタイムを記録することになり、その記録は他の候補生たちにも公開された。日々更新されるタイムにより、現状が把握出来る代償として、競争意識が高まる。
現状のトップは貴広、それに加えて入鹿だった。
コースAは雪兎も交じって三つ巴、コースBは貴広、コースCは入鹿が記録が始まって1週間で最も多くのトップタイムを出していた。颯は序盤何度かトップと二位を取って以降、やや遅れが出てきていた。
颯にとって、最も難易度の高いコースCでの入鹿の躍進は予想外だった。
得意なバーティカルターンの多いBコースならともかく、それ以外の部分では貴広や雪兎に及ばないと思っていた。
「入鹿の奴、ここまでやるとはな……」
颯は更新されたベストスコアを見て、思わず奥歯を強く噛んだ。記録が始まって2週間たった現在でも、入鹿の好調は続いていた。
「俺は模擬レースのときから、こうなると思ってたけどな」
いつの間にか、貴広が後ろで記録を見ていてそんなことを呟いた。
模擬レース。入鹿のタイムは1分58秒96で3位。
だが、実際のタイムは貴広さえ超えていた可能性があった。
何故なら、入鹿はレースのスタート前に連続スピンを行って、ゲートを通過するという暴挙を行っていたからだ。
それは『AIR ACE』のゲーム中で一時期流行った、アピール技の1つだった。
現実のレースにおいて、コース中の暴走行為は失格対象だが、ゴール後のアピールは珍しくない。
スタート前については――言うまでもないが、速度や侵入角度のシビアな調整が求められる中、そんな行動をする選手はいない。前例がないだけで失格になる恐れは十分ある。
技術的には、事前に練習していたなら不可能ではないが、タイムロスは確実に出る。
(入鹿はレースが適正審査に直結しないと察していたから、他の候補生たちに比べて余裕があったのは確かだ。それでも、スタート前に余計なロスを出してなお、貴広や弥勒に次ぐタイムを出せていたのは異常だった)
「とはいえ、牽制するために無理してタイムを出してきた可能性はある。俺は1つ1つ着実にこなしていくだけだ。――それに競争というなら、北上の方が脅威だ」
貴広は入鹿の実力を認めてもなお、競争相手としては雪兎の方が格上だと言い切った。
雪兎は1位を取ることこそ少なかったが、どのコースでも安定したタイムを出して常に2位か3位に着けていた。1位こそ多いが、時折とことん調子が悪い日のある入鹿とは対照的だ。フライトに波があれば、その悪い日が1度の本番に被ってしまう場合もある。
だから、貴広は安定してタイムを出せる雪兎の方が厄介だと感じたのだろう。
最も、颯の低迷した成績からすれば、安定しているのは貴広も同じだ。
頭に過るのは、やはり、適正審査後の10日間だ。
あの日々は颯にとって大切な時間だったが、それでも訓練で水を空けられている最大の理由であることは間違いない。
(そろそろ、俺も何かしらの対策を打たなきゃないけない――)
颯はそう考えるものの、具体的な対策は一向に思い付かなかった。
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ベストタイムは日に日に塗り替えられていく。
コースに微調整が入ったり、パイロンの配置が丸々変わったりする中、候補生たちは何とか積極的にタイムとして自分の足跡を残そうとする。
しかし、颯の番はなかなか回って来なかった。
自分でも何かが欠けている。伸び悩んでいるという実感があった。
漠然とした不安、あがいても上手くいかないという、いつからか心に常にある暗雲のようなものが常に脳裏に浮かぶようになった。
それを晴らしてくれる〝何か〟を、颯はどこかに置き忘れてしまったように思えた。
負け癖、という言葉を懸命に頭から振り払う。
焦りは次第に募り、感情がはけ口を探し始める。
(……とにかく、訓練量を増やすしかない)
颯は5月に始めて、現在ではルーチンワークとなっていたトレーニングのメニューを補強しようと考えた。
夜間、訓練で疲れた体を無理矢理動かして、頭を空にして走り続ける。
肉体的にはきついが、部屋で余計なことを考えるよりも楽だった。
更に寮に帰ってからは、睡眠時間を削り、コースの研究、速度や角度の調整に明け暮れた。
これらの技術は、これまでの訓練で周囲から断片的に教わり習得した、今の颯が持つ数少ない拠り所だった。
だが、数日後、特訓の結果は悪い方向で現れた。
「――今日の訓練は終わりだ。お前、疲れてるだろ」
サイラスの言葉が予想外だったため、颯は一瞬何を言われているのか分からなかった。
「いいか、訓練とはいえフライトは常に命の危険と隣り合わせだ。万全の体調で望めないようにするトレーニングはやめろ。効率も下がる」
「……はい、分かります。でも――」
颯はサイラスの指摘に絶望し、思わず食い下がった。
「――このままじゃ、何も出来ずに終わる。どうすれば他の連中に勝てる?」
サイラスは颯の言葉にしばらく沈黙した。
「……技術的な指導ならもうやってる。もちろん俺なら、それに加えて他の選手に勝つための手段を具体的に教えることは出来る。だが、それは出来ない。分かるだろ?」
現在、候補生は4人。教官は3人。サイラスの日本語も上達した。
すでに、以前のような担当制ではなくなっている。時間とメニューさえ合えば、どの教官が候補生につくこともある。そのため、1月の訓練が始まって以来、暗黙の了解で各候補生たちの訓練方法等の情報を教官たちが話すのはタブーになっている。
「……はい。それじゃ、意味がない」
颯自身、そんなことを聞きたかった訳ではなかった。
「まずは、自分で擦り切れるまで考えろ。あらゆる策を練れ。思考を止めるな」
サイラスの言葉には、自身の経験に基づく説得力があった。
「明確なヴィジョンがあるなら、俺もそこに到達するためのアドバイスをすることは出来る」
「……はい。ありがとうございます」
颯は練習場を後にしながら、こんなに疲れた頭では何も考えられないことを悟った。
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颯は自室でベッドに横たわり考え始めた。
サイラスの言う通り、疲労が溜まっていて気を抜いたら眠ってしまいそうだった。
エアショー以降、操縦技術は格段に上がっている。
筋肉やスタミナもついてきた。だが、タイムは上がっても、周囲がそれ以上の結果を出している。
雪兎、貴広、入鹿――3人とも、今となってはもうすっかり見慣れた面子だ。
細かい表情や声まで脳内ではっきりと再生できる。
去っていった初奈や弥勒も同じだ。サイラス、クリス、遙香や他のスタッフたちも同じだ。
ずっと訓練を共にしてきた仲間だった。
『ねえ、いつかさ。このプロジェクトが終わった後にもさ――』
初奈がいつか言っていた言葉を思い出す。
この仲間はきっと、プロジェクトが終わってからもまだ繋がっていくだろう。
初奈が仕切りに望んでいたメンバーでのエアショーの話は置いといても、年に一度か二度、忙しい合間に時間を見つけて再会する。
そのとき、自分はどうしているだろうか。
弥勒は会社員になってるだろう。
貴広はこのレースの結果に関わらず、まだパイロットを目指していそうだ。
入鹿は変わらず、気ままに生きていそうだ。
初奈はデザイン系の会社に就職して、締め切りに追われてそうだ。
雪兎は……きっと今よりも美人だろうが、プライベートのことは想像したくない。
そうして集まったら、当然この1年間の思い出話になるのだろう。
辛いことも苦しいことも昇華して、綺麗な部分だけを思い出すのだろう。
(俺は今、全力を出している)
きっと、後にも先にも人生で1番、全力を尽くして生きている。そんな過去の努力や仲間との絆を、未来の自分はきっと何よりも大切にするのだろう。
レースに負けて、望む生き方の全て失っても、その後の人生の支えとして――。
そう考えた途端、急に目の奥から涙が込み上げてきた。
「……嫌だ」
颯はベッドから起き上がり、涙を拭った。
「それだけは絶対に嫌だ」
みんなのことは大好きだ。でも、だからこそ、この勝負に負けたくない。
(俺のことを誇れる俺でいたい)
そのとき、ふと頭の片隅に、銀色の狼の姿が過った。
颯の視線は部屋の隅――そこでホコリを被っているゲーム機に移る。
「そうだ……まだ勝算はある……」
颯は気付いた。
欠けていたのは――失っていたのは、胸を焦がすような闘争心だ。
銀色の狼の姿に投影した、『理想のヴィジョン』とそれを追い求める情熱だった。
現状に闇雲に抗うだけでは足りない。
絶対届かない頂きに立ち向かうには、無謀な勇気とは違った戦い抜く覚悟が必要だった。




