空に近い大地にて ①
聞き慣れない男女の英語で話す声が遠くから聞こえる。
遠くでドアが閉まる音、しばらくして扉を叩く音が容赦なく意識を眠りの淵から引きずり出してくる。
カーテンの隙間から、薄く差す日差しが顔にかかっている。
「さあ、仕事の時間だぞ。ミスター・ヤナミ」
早朝五時、バゴイの元気な声を聞いて颯は消え入りそうな声で返事をした。
水を掛けただけの酷い寝起き顔で外へと出る。
薄い青色の空の下、見渡す限りの草の海が広がっていた。水平線の先には壁のようにそびえる巨大な山の影が見え、颯は途方もない広さに息が詰まりそうになる。
コロラド州ボルダー。デンバー国際空港から北西に五十キロほど先にある都市でロッキー山脈のふもとに広がる自然豊かな都市だ。
都市自体の標高が高く、十月の早朝ともなると少し肌寒い。
颯はバゴイに続いて家の近くにある小屋へと向かう。
牛舎に入ると、獣の汗と糞の匂いが鼻をついた。
黒い牛たちと一緒に、バゴイと共に二人の中年夫婦が笑顔で出迎える。
「おはよう。じゃあ、今日から〝よろしく〟な」
「……〝よろしくお願いします〟」
颯が敢えて英語で言うと、夫婦は愉快そうに笑ってくれった。
颯は夫婦の指示に従い餌やりや糞の掃除を手伝った。牛舎にいるのは生後半年以内の幼い牛たちで、成長度合いを見てから近くの草原に放牧されるらしい。
一時間程で作業を終えると家に戻り、ようやく朝食を摂る。
「この時期は放牧地の移動があってね。電気柵のメンテナンスも行いたいし、人手が必要なんだよ」
コーンフレークと干し肉、よく分からない豆の朝食を食べながら、家主であるスティーブ・グラントはそう語った。
「バゴイも毎年手伝ってくれるんだけどね。その……もう年だから……」
妻のメアリーが肩を竦めて言う。
「現役パイロットを年寄り扱いしないでほしいな」
バゴイは気にした様子もなく、朝からブランデーを飲んでいる。
「お前、実は家族から離れて自由に過ごしたいだけだろ」
「何のことやら?」
「矢浪くんも無茶な要求は断るんだぞ。彼は人使いが荒いことで有名だ」
「ミスター・ヤナミ、偏向報道を気にしていてはアスリートは務まらない。肝に銘じておくように……」
バゴイはそう言いながら颯のグラスにブランデーを注ごうとする。
颯はやんわりとそれを断った。
「これから作業があるんですよね?」
「ああ、今日は放牧地移動前の電気柵の確認だ。年に三回移動するんだが、如何せん土地が広くてな」
スティーブが作業の説明をしていると、リビングに一人の部屋着の女性が現れる。
長い金髪をヘアバンドで上げ、縁にヒビの入った眼鏡をつけている。歳はおそらく二十代半ばくらいだろう。
「遅いぞブリトニー」
「いや、まだ寝るけど? トレイで起きただけ」
ブリトニーは颯の方を見て大きく目を見開いた。
「は? なんで男がいんの?」
「男なら私もいるが……」
バゴイの言葉を無視して、ブリトニーがメアリーに説明を求める視線を送る。
「彼は矢浪颯。日本から来たパイロットの訓練生で、バゴイが手伝いのために飛行場から連れてきてくれたのよ」
「どうも、よろしくお願いします」
颯は英語で挨拶をしたが無視された。
「……アトリエには入れないでね」
ブリトニーはそう言うと、トレイに向かって歩き始めてしまった。
「あらあら、思春期じゃないんだから……ごめんね」
「いえ、そりゃ他人が急に家で朝食食べてたら、それくらい言いたくなりますよ」
颯自身、なぜ自分がここにいるのか分かっていない。
昨夜、デンバーの空港から、颯はバゴイと共にこの家までタクシーでやってきた。
それから、詳しい説明もなく、この家で二週間過ごせと告げられたのだ。
▲ ▼ ▲ ▼ ▲
朝食後、身だしなみを整えた颯はグラント夫妻と共に電気柵の点検を行った。
作業中、スティーブはブリトニーについて聞くまでもなく話してくれた。
彼女はグラント夫妻の子供というわけではなく、シカゴの一等地に家を構えているという弟の娘、つまり姪に当たる。
デンバーで芸術活動をしており、アクセスのいい夫妻の家に間借りしているということだ。
「デンバーって、アートで有名ですもんね。いい環境ですね」
そういった土地での活動は刺激的で、お互いに成長を促せそうで羨ましいと颯は思った。
「……まあね。あの子のように夢見る若者は後を絶たないよ」
スティーブの含みのある言葉の後、メアリーが小さく「彼もそうだったのよ」と付け足してくれた。
なるほど。案外、ブリトニーからすれば両親の元より居心地がいいのかもしれない。
颯は納得するのと同時に、胸の内にある焦燥感が騒ぎ出すのを感じた。
こんなことをしている間に、貴弘たちとの差が開いてしまうかもしれない。
颯にとってこれほどフライトに集中できる環境というのは、今後得ることができるか分からないほど貴重なものだ。
それを現在進行形で確実に無駄にしてしまっている。
「颯君、それじゃあ、ここから西に二キロほどの確認を頼む」
「……はい。集中します」
颯は今は世話になっている夫妻のために頑張ろうと心を切り替えた。
それから数日、実際に五十頭の牛の移動を手伝い、その後にある程度育った若い牛の放牧も行った。
放牧されている牛たちは、人を軽く突き殺せるほど立派な角と図体を持っており、颯は否応なしに仕事に集中することになった。
「よし、お疲れ様。これで移動作業は一通り終わったな」
数日後の仕事終わり、スティーブの言葉を聞いて颯はほっと胸を撫で下ろした。
「明日から、別の地区の移動作業に入る。まずは電気柵の点検からだな」
「……え?」
「なんだ、バゴイから聞いてなかったのか。うちは百五十頭飼育してるんだ」
颯はアメリカの規模の違いを久しぶりに思い知らされた。
当のバゴイは昼間はどこかに出かけており、移動時以外にはほとんど手伝いもしなかった。
「あの、昼間は何か別の仕事してるんですか?」
「ああ、近くでグライダーの講師をやっていてな。今年は君のおかげで専念できるよ」
ある日の夕食時に話を聞くと、バゴイは何でもないように話した。
この近くでグライダー飛行が盛んなのは知っていたが、自分が身代わりにされる理由とは思ってもいなかった。何なら出発前は、グライダーを教えてくれることさえ期待していた。
「……一応聞きますけど、俺も参加できたりします」
「もちろん。すべての仕事が終わったらな」
颯はその答えを聞いて絶望した。
どうやら本格的に自分はこの二週間、フライトとは無縁の生活を送らなきゃいけないらしい。
その目的も理由も分からない。
単なるペナルティなのだろうか、と颯は虚しい気持ちになった。
颯は仕方なく、夜になると寮から持ち出した教本を読んで復習し、動画サイトで曲芸飛行のテクニック動画を漁った。
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「今日は一緒に登山に行こう」
コロラドに着て一週間が経った日の朝、バゴイがそんな提案をしてきた。
「あー、分かりました」
颯は意図も理由も分からなかったが、現状従うしかないので承諾した。
朝食後、スティーブとメアリーが身支度を始めており、その顔は心なしか普段よりも緊張しているように見えた。
珍しくブリトニーも早起きして身支度をしている。
登山用のジャケットや靴も履いており、コンタクトを付けたようで眼鏡を外している。
「さて、出発だ」
そこからスティーブの運転する車で三十分程移動、やがて道路を抜け山道に入る。明らかに整備されていない荒野を走り、針葉樹林の並ぶ森の前で停車する。
颯も流石にこれがただの登山でないことには気付ている。
「あの、今日はどこに向かうんですか?」
颯が小声で聞くと、バゴイは表情の消えた顔で淡々と答えた。
「ギル・グラント。二人の息子の墓参りだ」




