第八話 約束を果たす時
無言のまま馬車が屋敷に到着し、無言のままヴァネッサが玄関ホールに入ったところで、前を歩いていた母、クラリッサ・デシャネルが突然振り返ったので、ヴァネッサは踏み止まり損ねてそのまま母にぶつかってしまった。
またぼんやりしていたと叱られてしまうとヴァネッサは青くなって姿勢を正そうとしたが、それを阻んだのは誰でもなくクラリッサ本人だった。
「お、お母様……?」
パチ、と目を瞬かせるヴァネッサの背に腕を回し、彼女は強く娘を抱き締めたのである。
訳がわからずヴァネッサは母の腕の中でぎくりと身をこわばらせた。
「……ごめんなさい」
「えっ」
今、母は何と言ったのか。
ヴァネッサは驚きに目を見開いたが、母の言葉を聞き返す必要はなかった。
「ごめんなさい。私が厳しくあたったせいね。あなたが引っ込み思案なことは知っていたのに、私が母として寄り添わなければいけなかったのに……あなたの言葉を詰まらせてしまったのは私の態度だった」
続けて掛けられる謝罪と後悔の言葉。
久しぶりに感じる母の体温と鼻先をくすぐる白粉と香水の匂い。
幼い頃、身体が弱くて臥せりがちだったヴァネッサを、母はよくこんな風に抱き締めてくれた。
「一人で抱えて辛かったわね。ごめんね、ヴァネッサ」
「お母様……っ」
殴られた頬はまだじわりと痛む。
確かに王都に出てきてヴァネッサは辛い思いをたくさんした。
なかなか王国標準語には慣れないし、友達は作れないし、お茶会でも夜会でも要領が悪い自分が情けなくて、悔しくて、泣いたことだってたくさんあった。
でも、ヴァネッサは知っていた。
母も若い頃に訛りの矯正で苦労していたことも。
デビュタントが遅れたヴァネッサのために奔走してくれていたことも。
父が社交界が苦手なヴァネッサのために、数多くの夜会の招待状の中からヴァネッサが参加するものを厳選して代わりに対応してくれていたことだって。
──ヴァネッサは、自分が両親に愛されていることを知っていた。
だからこそ、期待に応えられない自分が辛かったのだ。
「ううん、私が、ちゃんと出来なかったの……! お母様とお父様をがっかりさせたくなくて、だから言えなくて……、ううん、言わなかったの。だから悪いのは私」
自分から言い出すことが怖かった。だから逃げてしまった。
そんな子供じみた理由でヴァネッサは伯爵家の名に泥を塗り、両親を失望させてしまった。
それはちゃんと弁明すべきだとわかっていて怠った自分の罪だ。
母の胸に縋り、ヴァネッサは幼子のように声を上げて泣いていた。母はドレスが涙で濡れることも構わず、ただごめんなさいと泣きじゃくるヴァネッサを抱き締めてくれた。ヴァネッサにはそれだけで充分だった。
「私もお前が社交を好まないのを知っていながら、令嬢の教育についてクラリッサに任せきりにしてしまった。話を聞くことすらしなかった。……だからこそ、この辺りで父親らしいことをさせてくれ」
父・アーノルドが母ごとヴァネッサを抱き締めてそう言ったのと、家令が控えめにお茶の準備が出来ていることを告げたのが同時だった。
玄関ホールで帰るなりぎゅうぎゅう抱き締めあっていた三人は、続きは居間でと屋敷に戻ってからようやく場所を移したのだった。
「──これは確信だが、王弟殿下は宣言通り必ずヴァネッサに求婚に来るだろう」
「えぇえ」
「ヴァネッサ、あからさまに嫌な顔をするのはおよしなさい」
それぞれがソファに落ち着き、熱いお茶で人心地ついた後、屋敷の居間ではデシャネル伯爵家緊急家族会議が執り行われていた。
議題はもちろん王弟からヴァネッサへの求婚についてである。
「でもお母様。私なんかが殿下から求婚だなんて……とても見合わないわ……」
「家柄や家格だけで言うのならデシャネル伯爵家は王族に嫁いでも問題はないけれど、ヴァネッサは乗り気ではないのよね?」
「乗り気ではないというか、王弟殿下に嫁ぐ度胸がないというか……」
「王族への輿入れなど貴族の娘なら一度は夢見そうなものだが、うちの娘は謙虚だな……」
来るべき王弟殿下からの求婚にどう対応するか。
なかなか出ない結論に、三人は似たり寄ったりな反応でうーんと悩ましげに唸り声を上げた。
アレンの名を借りて生きてきた王弟は、宣言通りに名を戴く儀式を済ませたらすぐさまデシャネル家にやって来るだろう。
王家の紋章が入った馬車が屋敷にやって来て、いつもの柔らかで優しい笑顔を浮かべた彼が自分の名を呼びながら降りてくるところを想像するだけでヴァネッサは気絶しそうだった。主に、羞恥で。あとよく言い表せない胸の詰まりというか、水に打ち上げられた魚のような胸の過鼓動で。
ヴァネッサは王弟のことが好きだ。アレクシアの婚約者だから諦めなくてはならないと思った時に、まず修道院に入ることを考えるくらいには拗らせてもいる。
だが、王族だと知らなかったからこそ無邪気に恋心を抱けたのもまた事実である。
王族。その一言の重さは小心者のヴァネッサにとって鉛の塊より遥かに重かった。
「私……、私は……」
ただ唇を震わせることしか出来ないヴァネッサに、アーノルドは言い聞かせるように優しく言った。
「無理に今ここで答えを出す必要はない。これはとても重大で難しい問題だからな。落ち着いて、しっかり向き合って考える時間が必要だ」
「お父様」
そしてアーノルドは続けてパァン!と膝を打って言った。
「よし、領地に帰ろう」
その言葉にギョッとしたのはヴァネッサだ。
突然領地に戻るだなんて、一体どういうことだろう。慌ててヴァネッサは口を開いた。
「お父様!? 領地にって、まだ社交期は残っているのに……」
戸惑うヴァネッサだったが、続く母の言葉は至極冷静だった。
「私も賛成です。いつ出発しますか? 今夜ですか?」
「お母様まで!? というか今夜は流石に無理あるら!」
すわ乱心かと慌てふためくヴァネッサに父も母も当然のような顔をしている。それが一番怖かった。
「王都にいては落ち着いて考え事も出来ないだろう。この時期は来客も多い」
「えぇ、その通りです。しかしヴァネッサを一人領地に戻すのも不安です」
「幸い議会で議論されるべき重要な案件は既に終わっている。貴族としての義務は十分に果たした。あとは父として娘を守るという使命を果たさねばと思うのだが、クラリッサ、君はどう思う」
「えぇ、全面的に同意致します。社交など、後で二、三通しかるべき相手に手紙を出しておけば済むことです。ですから、ヴァネッサ」
そこで二人が同時にヴァネッサを見たので、ヴァネッサはちょっとだけソファの上で居心地悪く身じろいだ。
「忙しない王都ではなく、静かなスゥガでゆっくりと考えるのが良いでしょう」
「そうだ。お前の決断を私たちは尊重する」
「お母様、お父様……。ありがとう……」
静かで王都とは違うゆっくりとした時間の流れるスゥガの領地を思い出し、ヴァネッサはほろりと涙を溢した。
そしてその翌朝、デシャネル伯爵一家は早々に馬車に乗り込み王都を後にしたのである。
その様子はまさに夜逃げとも言える鮮やかなものであったという。
スゥガ地方の領地へ戻ったヴァネッサは両親とピクニックに行ったり、久しぶりに馬を乗り回したり、ボート遊びに興じたりとひとしきり地元を堪能し、カントリーハウスの使用人たちの前で見事な王都風の所作や王国標準語を披露して淑女としての成長を喜ばれたりした。
王都へ向かったあの日、最後まで玄関の床に齧り付く勢いで「王都なんか行きたくないぃいいいい」と泣き叫んでいたヴァネッサを知っている使用人たちの間には本当に大きくなってと涙を流す者までいた。
「孤高の白百合」でも「デシャネル伯爵令嬢」でもなくただのヴァネッサでいられる空間は、今までずっと気を張り詰めていたヴァネッサに久しぶりの安堵と休息を与えたのだった。
「お嬢様ァ、王都からお手紙が来てますよ」
「ファニー! 誰からかしら?」
王都を離れて二ヶ月ほど。屋敷の裏手にある小さな丘で子ヤギを遊ばせていたヴァネッサのところにやって来たのは、ヴァネッサ付きのメイド・ファニーだった。
手紙というが彼女が持っているのは籐のバスケットだけだったので、手紙はどこよとヴァネッサは首を傾げる。
「えぇと、二通あってですねぇ、こっちがクラヴェル伯爵家のお嬢様から、もう一通は……アルセリオン家のレオネル様という方からです」
ヴァネッサの視線の先でゴソゴソとバスケットの中から手紙を取り出したファニーは、柔らかな草の上に座るヴァネッサの膝に白い布を敷き、続けて取り出したカップケーキと一緒に手紙をそこに載せた。
ヴァネッサは行儀悪くそのカップケーキに齧り付きながら膝の上の封筒を見てはてと首を傾げる。
「アレクシア様はわかるとして、もう一通は誰だかしん。知らん名前だわ」
「王都でお会いになった方じゃないだ? ほら、夜会だか茶会だか色々行ってたじゃん」
「えぇえ? 知り合いにそんな名前の人いたっけかしん?」
隣でもしゃもしゃカップケーキを頬張るメイドに、本当に覚えがないと言いつつ、ヴァネッサはまずアレクシアの手紙から目を通し始めた。
アレクシアらしい優雅な字で近況が綴られており、王都は一時ざわついたが、現在の社交界は某侯爵夫人と某伯爵夫人の流行最先端の名を賭けたファッションバトルで持ちきりでアレクシアとヴァネッサの話は影も形もないという内容だった。
『私の早とちりとはいえ、思ったよりも噂が消えるのが早くて良かったわ。王弟殿下も御尽力下さったのよ。お陰様で私とアレンの結婚式の準備も順調に進んでいるわ。結婚式には是非あなたも参列してちょうだいね。今度改めて招待状を送るわ』
便箋に書かれた文字は少しだけはしゃいでるように見えて、この手紙を書くアレクシアの表情を思い、ヴァネッサは知らず笑みを浮かべていた。
どんな返事を書こうか。一緒に領地の特産品も贈ろうかしら。カップケーキを齧りながらニコニコしていたヴァネッサに、既に一個目を食べ終えたファニーがふと何かに気付いて目を瞬かせた。
「お嬢様、その便箋、裏にも何か書いてあるけん」
「え? あ、ほんとだ。えぇと、追伸……?」
便箋の最後に書かれているのはよく見るが、裏側に書かれたメモというのは初めてだ。
表の字とは違い、本当に走り書きのように書き殴られた字を追ってヴァネッサは目を丸くする。
『追伸。止められなかった。ごめんなさい』
一応字が読めるファニーにも読んでもらったが、内容は変わらない。
止められなかったって、何を? ごめんなさいって、何に対して?
メイドと二人、何のことだろうと顔を見合わせて首を傾げる。
と、その時、先ほどまで側で草を喰んでいた子ヤギがヴァネッサの膝の上にあるもう一通の封筒に興味を示した。
「あっ、ダメよ!」
急ぎで取り上げたものの、既にちょっぴり端が齧られてしまっている。
「もう、誰からかもわからないのに」
子ヤギから救出した封筒を軽く手で払って草の欠片を落とし、何気なくヴァネッサは差出人の書かれた面を見た。
(……この、印章……)
封蝋に捺された印をヴァネッサは知っていた。
まさか、と思って封を切ろうとするが、気が逸ってしまってなかなかうまくペーパーナイフを扱えない。
結局ファニーが代わりに封筒を開けてくれたが、中から便箋を取り出す前に屋敷の方から悲鳴にも似た声で母に名を呼ばれ、ヴァネッサは子ヤギをファニーに託して封筒を胸に抱いたまま屋敷まで全力疾走したのだった。
「お母様! どうしたの!?」
転がるように丘を駆け下り、その勢いのまま裏庭へと突っ込んだヴァネッサは、ほとんど飛び込む勢いで裏庭でおろおろする母の胸に抱きついた。
クラリッサはヴァネッサの顔を見ると反射のように強くヴァネッサを抱き締め、「気をしっかり持つのよ」と言ってヴァネッサの手を引いて歩き出す。
「お母様、居間に行くんじゃないの?」
「いいからついてらっしゃい」
裏庭からぐるりと屋敷を回ってついたのは中庭である。
午後の穏やかな日差しを浴びて中庭は長閑な空気に満ちている。
(初めて王立図書館でレッスンした時みたいな天気だわ)
今では懐かしくさえ感じる王弟とのレッスンを思い出して感傷的になれたのは、ほんの刹那の時。
中庭の真ん中で庭を眺めている人影が見えるとヴァネッサは、ぶわりと背中に冷や汗が浮かぶのを感じた。
緊張で鼓動が早まり呼吸が浅くなる。
「まさか……」
「えぇ、そのまさかが来ています」
遠目にもわかるキラキラと輝く金髪。
それは太陽の日差しに煌めく夏の湖面のような、嵐の明けた日の一番最初に差し込む光のような、ヴァネッサの胸を騒がせる美しい輝き。
あれほどに美しい金色を、ヴァネッサは他に知らない。
ヴァネッサは喉の奥がきゅうと引き攣り、思わず唇を震わせた。
「……ヴァネッサ。いいこと。忖度は必要ありません。どんな決断をしても私たちはあなたの気持ちを尊重します」
自分の気持ちに素直になりなさい。
そう言ってクラリッサはヴァネッサの手を離し、その手でヴァネッサの背を優しく押した。
ヴァネッサは一度だけ母を振り返ったが、すぐに前を向いて一度だけ大きく深呼吸をすると迷いのない足取りで踏み出した。
一歩一歩ゆっくりと進むヴァネッサの芝生を踏む音に気付いたのか、人影がこちらを振り返る。
無意識に胸に抱いた封筒をぎゅうと一際強く押さえると紙のひしゃげる音がして、ヴァネッサはハッと先程子ヤギに端を齧られてしまった封筒へと視線を落とした。
──レオネル・アルセリオン。
右を向く獅子の印章を捺された封筒の差出人名と、目の前の青年を交互に見て、ヴァネッサはぽつりと囁く声音で言った。
「レオネル……アルセリオン様……?」
あなたなの?と目で問えば、視線の先で宝石のような濃い青色の瞳がパッと輝き、嬉しそうに細められた。
その瞬間、ヴァネッサの頬はカッと熱くなり、心臓がドッドッと激しく鼓動を打ち鳴らし始める。
あぁ、二ヶ月頭を冷やしてもこのザマだ。
ヴァネッサは今すぐ逃げ出したくなるのを必死に堪えて、更に一歩踏み出す。
「ヴァネッサ嬢」
さくりと芝生を踏んで青年も一歩ヴァネッサへと距離を詰める。
「約束を、果たしにきたよ」
王弟──かつてアレン・フォーゲルの名を借りて生きてきた青年──は満面の笑みでそう告げた。




