最終話 獅子とタンポポ
デシャネル伯爵家の領地は決して王都に近くはない。
よく言えば長閑で、ありのままに言うのなら田舎である。
そんな田舎のカントリーハウスの中庭に王弟殿下が立っている。
「……なんでぇ……?」
思わず零れてしまった呟きに、王弟は苦笑して肩を竦めた。
「手紙は送ったんだけど、気が急いてしまって予定よりも早く到着してしまったんだ。……手紙は読んでくれた?」
「手紙……ってこれか!」
言われてヴァネッサはハッとした。
手に持った手紙にはどうやら王弟がデシャネル伯爵領へ向かう旨が書かれていたらしい。
その反応で王弟は事情を察したらしく、こほんと小さく咳払いをしてから口を開いた。
「王都での儀式が終わって、正式に名前を賜ったからその名前で一番最初に君に宛てて手紙を出して、その日の内に王都を出たんだ」
「えっ、でも、まさかお一人ではないでしょう?」
「あぁ、護衛はその辺で待機しているし、侍従官は今君のお父上と話をしているよ」
父の姿が見えないと思ったら、そういうことか。今頃母もそちらに合流しているのだろう。
とはいえ、手紙を出して手紙と同じタイミングで到着するとは。
アレクシアの手紙の走り書きはきっと王弟の出立を知ってのことだったのだろう。
ヴァネッサは納得できるような出来ないような不思議な気持ちで改めて王弟を見上げた。
「本当に、本物の殿下……?」
「あぁ。本当に正真正銘の僕だよ。前と違うところは、名前と爵位を賜ったことくらいかな」
「爵位」
「そう。手紙には書いたんだけど……。この度、レオネル・アルセリオンという名と一緒に、王陛下より大公の地位と領地も賜ったんだ。ほら、名を賜ったからって王族がその辺に放り出されるわけにもいかないし。今の僕はアルセリオン大公ということだね」
「大公殿下……ですか」
「うーん、君には名前で呼んでほしいな」
名前。そう言われてヴァネッサは少しだけ冷静になった。
名前とは個人を示すもの。長らく彼が手にできなかったもの。
貴族のマナーでは名前を呼ぶことを許されるのはごく親しい人間に限られる。
家族。親しい友人。そして恋人。……では自分は?
ヴァネッサは少しだけ考え、先ほど彼が自分を『デシャネル伯爵令嬢』ではなく『ヴァネッサ嬢』と呼んだことを思い出した。
(許されるのかしら)
それは、ヴァネッサの胸の中に残る最後の問いだった。
王都には自分など足元にも及ばないアレクシアのような本物の貴族令嬢がひしめいている。
その中で、自分のような田舎娘が今、王弟殿下から直に名前を呼ばれ、そしてその名前を呼ぶことを望まれている。
(私は、この方の隣に立てる?)
不安はある。恐怖も消えない。考えただけで重責に押し潰されそうになる。
──けれど。
ヴァネッサは震える手で手紙をポケットにしまって視線を上げた。
「……レオネル様」
名を呼ぶ声は、少しだけ緊張に震えていた。
それがヴァネッサの出した答えだった。
自分などが、と卑屈になるのはいつでも出来る。ヴァネッサは随分と長くその時間を過ごしてきたから、そのことはよく知っている。
だが、同じ時間を使って自らを向上させることが出来ることだってヴァネッサはもう知っている。
大丈夫。自分はもう頑張り方を知っている。目の前のレオネルがそれを教えてくれたから。
彼が選んでくれたのなら、それに恥じない自分になってやろうではないか。
ヴァネッサは精一杯足を踏ん張ってもう一度、今度ははっきりとその名を口にした。
「レオネル様……っ!」
二度目に名を呼ぶその声は、もう震えてはいなかった。
「誰に呼ばれるより、君に名を呼ばれるのが、一番嬉しい」
「私も、あなたの名前を呼べることが、何よりも嬉しい」
どちらともなく互いに手を伸ばす。
指先が触れ合い、確かめるように指を絡めて握り締める。
「レオネル様。私、あの夜会の時にあなたに声を掛けてもらえて本当に嬉しかった。初めて王都で優しくしてもらって、悩みを聞いてくれて、一緒に言葉の練習をしてくれて……。私ね、あの時、真っ暗な場所から明るい場所に引っ張り上げて貰えたような気がしたの」
慣れない王都はヴァネッサにとって暗闇も同然だった。
どこにいって何をするかわからない。未知とは恐怖そのものだった。
その中でレオネルはヴァネッサを太陽のように照らし、導いてくれた。スゥガの文化に興味を持ち、ヴァネッサを方言ごと肯定してくれた。それがどんなに心強かったかは、言葉にしてもし尽くせないほどだ。
「……私、あなたがいたから、頑張れたの」
言いながらヴァネッサは視界がじわりと滲むのを感じた。
泣きたくはないのに、涙というものはどうしてこうも勝手に溢れてきてしまうのか。
ここで泣いたらきっとレオネルを困らせてしまう。そう思うのに、自分では止められないのだ。
しかしレオネルはハンカチを取り出し、そっとヴァネッサの目元を拭って小さく笑って見せた。
あの夜みたいだ、という呟きに、ヴァネッサは初めて彼と出会った夜会の日を思い出す。
あの時も、彼は泣いているヴァネッサにハンカチを差し出してくれたのだった。
「僕は、あの夜会の時、初めて自分というものを感じた気がしたんだ」
個を示す名を持たず、そんな曖昧な存在であった自分を形作ってくれたのだとレオネルは言った。
「それまで僕はアレンの名を借りているだけの、何処にでも居て何処にもいない、そんな透明な存在だった。僕に、僕という色を教えてくれたのは君だよ」
自分の名前も顔を知らない令嬢とバルコニーで言葉を交わしたあの時間、自分は『アレン・フォーゲル』ではなく王族でもなく、ただの一人の人間だった。
あの夜をきっかけとして始まった王国標準語の練習の時間だって、レオネルには新鮮だった。
今まで王族として兄の政務を手伝ってはきたが、それでもそれまで地方のことなど地図の上と書類に書かれた情報以外に気にも留めなかったことに気が付いたことは大きかった。
レオネルはヴァネッサと出会い、地方で暮らす人々の現実を、そこに息づく人々の生活を初めて認識した。
これは王族として恥ずべきことだと思った。民無くして国は成り立たない。民とは数字ではない。そこに実際にいて、それぞれに事情を抱え、それでも毎日を精一杯に生きている人々のことだ。その時レオネルは政治がなんのためにあるのかを実感したのである。
「君は気付いていないようだから言わなかったけれど、君が当たり前だと思っている物流や地方の経済についての視点は、僕にとって大きな学びになった。それに、君はいつだって頑張っていて……僕はそんな君に恥じない自分になりたかった」
涙を拭いたハンカチを差し出され、ヴァネッサは赤くなった顔を隠すように俯いた。
「……また、ハンカチを汚しちゃった」
「言っただろう。男のハンカチはレディの涙を拭くためにあるんだ。さて、そろそろ本題に入っていいだろうか」
言いながらレオネルはすっとその場に膝をつき、ヴァネッサの右手をとった。
「ヴァネッサ・デシャネル伯爵令嬢。あなたを僕の妻として迎えたい。これから先の人生を僕と共に、僕の隣で生きては貰えないだろうか」
真剣な眼差しと声音でレオネルに問われ、ヴァネッサの瞳が揺らめく。
そしてヴァネッサは恥じらうように目元を赤く染め、ほうと吐息を漏らして答えた。
「……どうしっかしん」
どうしっかしん、とはスゥガ言葉で「どうしようかしら」という意味である。
もちろんヴァネッサからスゥガ言葉について指南を受けたレオネルにはその意味がわかる。
「な、何故」
レオネルが発したのはこの流れで断られることがあるのかと焦りを含む声だった。当然である。
しかしヴァネッサも至極真面目な顔で答えた。
「だって大公妃ともなれば普通の令嬢がしなくてもいい苦労だっていっぱいあるし、御政務もあるし、普通に大変だら? それに……」
「それに?」
「あんま小難しい言い方でプロポーズされても実感ないもんで、しょんないら?」
にこ、と微笑むヴァネッサの笑顔は悪戯っ子のそれであり、同時に覚悟を決めた女の顔でもあった。
それこそ嵐に倒されても負けずに再び天に向かって花を咲かせるタンポポのような。
レオネルは一瞬だけ目を丸くしたが、徐ろに立ち上がると、そのままひょいとヴァネッサを高い高いの要領で抱き上げた。
「ひえ、ちょ、レオネル様!?」
「ヴァネッサ嬢!」
「ひゃい!」
「えぇと……、君のことがいっちゃん好きだで、私僕と結婚してくれんかや!!!」
今度は抱き上げられたヴァネッサが目を丸くする番だった。
この人はいつの間にこんなにスゥガ言葉を習得していたのだろう。最早ネイティブの域である。
けれど端から答えは決まっていたのでヴァネッサは破顔して頷いた。
「しょんないで、結婚したげる!」
「ありがとう! 一生君を大切にする! っと、わぁ!?」
「きゃあああぁっ!?」
レオネルが体勢を崩し、そのまま二人は中庭の芝生の上に転がって、一部始終を遠くから見守っていた護衛騎士だの屋敷の使用人だのを散々心配させた後、身なりを整えさせようとする彼らを押し退けて善は急げと芝生まみれのままデシャネル伯爵夫妻に結婚の報告をしたのだった。
その際、父アーノルドは娘を持つ父親の大半がそうするように「娘がそう望むのなら」とものすごく複雑そうにそれを許し、母クラリッサは結婚式もまだ終えていないというのに、レオネルの目の前でヴァネッサに「結婚生活が嫌になったらいつでも戻っていらっしゃい」と言い放ってのけた。
この後、王都に戻り正式に婚約を発表した二人は一躍時の人となったが、ヴァネッサに至っては「孤高の白百合」という名が知られていたこともあり、社交界では混乱というよりも納得する者の方が多かったという。
「──それで、しばらくレオネル様と湖水地方でゆっくりしようかって話しただけんね、もし良ければアレクシア様たちも一緒にどうかしんって」
「あら。素敵だわ。アレンに伝えてみるわね。まぁ、アレンは大公殿下付き事務官だし、殿下が行くといえば勝手についていきそうだけど」
「お、お仕事は抜きだでね!」
「なら皆でボート遊びでもしましょうか、タンポポちゃん」
その日、大公邸の陽当たりのよいサンルームでは、片方は地方訛り、もう片方は貴族風王国標準語という、どちらが大公妃かよくわからないような会話が当たり前のように交わされていた。
遠くに聞こえるざわめきはデイ・パーティーのために招かれた貴族たちの声だろう。
そのざわめきを気にも留めず、貴族風の王国標準語を優雅に操る伯爵夫人、アレクシア・フォーゲルがふと視線を相手に向けた。
「そういえば大公妃の紋章が決まったと聞いたけれど、お披露目はいつかしら。わたくし、楽しみにしているのよ」
「今日よ! パーティーの最後に!」
「結局百合ではなくタンポポにしたの? それでは最後までしっかり居座らせてもらわなくちゃ」
「え? 泊まっていくら?」
「あらあら、タンポポちゃんたらわたくしのことが大好きね」
ほほほと上品に笑うアレクシアにニコニコと笑みを返すヴァネッサは、現在では大公妃ヴァネッサ・アルセリオンとして夫と共に公務に携わっており、フォーゲル伯爵夫人とは親友として親交を深めていた。
二人きりの時は言葉を取り繕わなくて良いというアレクシアに甘えて、ヴァネッサは彼女の前ではスゥガ言葉を使っている。
そうして二人がパーティーの開始までサンルームで二人きりのお茶会を楽しんでいると、控えめに声が掛けられた。
「大公妃殿下。パーティーが始まりますのでそろそろ妻を返して頂けますか」
アレクシアの夫、アレン・フォーゲルが苦笑まじりにそう言えば、サンルームの外から何やら他にも騒がしい声が聞こえてくる。
何事かとヴァネッサ、アレクシア、そしてアレンが振り返ると、レオネルが侍従を引っ付けてサンルームに入ってくるところだった。
「ですから、大公妃殿下は侍女がお連れ致しますから……」
「えぇい、離せ。ヴァネッサのエスコートは僕の数少ない趣味の一つなんだ。誰にも譲るものか!」
「エスコートはパーティーでいくらでもなさって頂いて結構ですから!」
「嫌だ、最初から最後までその権利は僕のものだ!」
ぺいっと侍従を引き剥がし、レオネルはヴァネッサに「迎えに来た!」と輝く笑顔を向けている。
公の場で見せる顔とは真逆の少年のような顔に、アレクシアは夫の手を借りて立ち上がりながら溜め息を漏らした。
「ねぇ、ヴァネッサ。これはどうにかならないの」
「こればっかりはねぇ、しょんないでねぇ」
答えるヴァネッサも苦笑である。
しかし、困った顔をしてはいるが、これは迎えに来てもらえて嬉しい顔だな、とアレクシアは再度溜め息を吐いた。
「……行こうか、ヴァネッサ」
「えぇ、レオネル様。参りましょう」
けれど二人とも大公と大公妃の顔になれば、途端にこうしてしゃんとしてしまうのだからアレクシアとしてもこれ以上何も言えないのが現状である。
アレンに至っては公務の時に腑抜けた顔をしていなければそれで良しと、注意すらしない。
「殿下。我々が先導致します」
「任せる、アレン」
長い廊下を歩き、人々が待つ庭園へと踏み出したアレン・フォーゲルと妻アレクシアに続いて、レオネルとヴァネッサが草原を歩む獅子のように悠々と姿を現す。
「──皆様、ご機嫌よう」
皆に歓迎の意を込めた笑みを向けるレオネルの隣で、ヴァネッサは言い慣れた一言を唇に乗せてそれはそれは美しく微笑んでいた。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




