第六話 二人のアレン
「あの、アレン。これを見てちょうだい……」
真っ青になったアレクシアが吐息のように呟いた言葉に、アレンも只事ではないと察して彼女が差し出したものに視線を落とす。
「アレクシア、これを何処で」
「先程、デシャネル伯爵令嬢から『お返しします』といって渡されました。あなたの物だと思っているらしくて」
二人はヴァネッサがアレクシアに渡したカフスボタンを穴が空きそうなほどジッと見つめ、次に二人揃ってヴァネッサを見つめた。
ヴァネッサを含め、その場にいた令嬢たちは何かあったのだろうかと心配そうな、あるいは好奇心に溢れた目で黙って様子を窺っている。
その内に令嬢たちの間から罪を逃れるためにお互い知らないフリをしているのでは、といったようなことが囁かれると、アレクシアはそちらをキッと睨みつけて黙らせてから己の手の中のカフスボタンを皆に見えるように前に出した。
「皆様、こちらをご覧になって」
令嬢たちはその言葉にアレクシアの周りに群がってそれを見る。
彼女たちの反応は、これが何だというのかと怪訝そうな顔をしたり首を傾げたりする者と、見た瞬間に表情を強張らせて青ざめる者に二分され、ヴァネッサはもちろん前者だった。
「く、クラヴェル伯爵令嬢、まさか、まさかこれは……」
「私も信じがたいのだけれど、この獅子の意匠ってアレよね?」
「あぁ、まさかこんな事が……」
幾つかの目がヴァネッサに向いて、それに気付いた他の目も追いかけるようにヴァネッサに向けられる。
今や部屋の中にいるすべての人間から視線を向けられることとなったヴァネッサは、心底困り果ててしまって何かを言おうとしては失敗して、ただはくはくと唇を震わせるばかりだった。
「あ、あの……」
それでもなんとか一言を放つことに成功した、その時である。
部屋の外から何やら慌てたような声と幾つもの足音が聞こえ、続けて勢いよくドアが開かれた。
「失礼する」
自らドアを開けてやってきたのは、こちらもまた金髪碧眼の青年。
その青年を見て、ヴァネッサがぽろりと呟いた。
「……アレン様……?」
そう、ヴァネッサのよく知るアレン・フォーゲルが息を切らせてそこに立っていた。
皆が彼の登場に息を呑み沈黙したので、ヴァネッサの声は思いの外、部屋の中によく通った。
ヴァネッサの知るアレンはその声にヴァネッサを見つけ、同時に彼女の頬が腫れているのを見て沈痛な表情を浮かべた。
「ヴァネッサ嬢、その顔はどうしたんだ。なんと痛ましい。すまない、これも全て僕のせいだな」
「そ、そんなことよりも、あなたが一体どうしてここに。いいえ、それよりも、あなたは」
あなたは一体誰なの、と続けようとしたところで、後から部屋に駆け込んできたクラヴェル伯爵夫妻がほとんど叫ぶような勢いで部屋の中の令嬢たちに言った。
「皆、何をぼさっとしているの!」
「王弟殿下の御前であるぞ!」
その言葉に令嬢たちは一瞬だけきょとんと目を瞬かせたが、次の瞬間には我に返って叩き込まれたマナーそのままに床に膝をついて深く頭を下げる。それはこの国での最上級の、王族に対する礼である。
「え? えぇ? お、王弟殿下?」
クラヴェル伯爵邸の談話室は一瞬にして謁見の間となり、戸惑い過ぎて一人出遅れたヴァネッサだけが突然のことに辺りをキョロキョロと見回していたが、全員が同様に膝を折るのを見て自分もそうしなければいけないのだろうと令嬢たちの端に滑り込んで慌てて頭を下げた。
「皆、良い。楽にせよ。……ヴァネッサ嬢もどうか頭を上げてくれないか」
「よろしい、の、ですか……?」
「あぁ。君にそんな風に畏まられては困ってしまう」
ヴァネッサがアレンと呼び、クラヴェル伯爵夫妻が王弟殿下と呼んだその青年は、困ったように笑ってヴァネッサを立ち上がらせ、皆にもそうするようにと呼びかける。
まず立ち上がったのはアレクシアの婚約者、アレン・フォーゲルで、彼は戸惑いとも怒りとも取れる表情で溜め息を吐いて言った。
「殿下。私は何も伺っておりませんが、これは一体どういうことです」
「アレン、本当にすまない。迷惑をかけたな」
「そうお思いならどうぞご説明を」
あまりに強気なアレン・フォーゲルの言葉と姿勢に、部屋にいた皆は王族相手に不敬を問われないかと冷や冷やしたが、それにしては二人の青年の間には気安い空気が流れている。対する王弟も肩を竦めて首肯を返した。
「もちろん。そのつもりでここに来たのだ。……まずクラヴェル伯爵令嬢」
「は、はい。殿下」
「そなたには特に迷惑をかけた。ここにいるアレン・フォーゲルの潔白は私が保証する」
「そう、仰いますと……」
アレクシアはどこか確信を得たような表情ではあったが、敢えてその先を促すために首を傾げて見せた。
それはきっと先ほど彼女の婚約者が口にした説明を、という言葉を尊重するものだろう。
王弟もそれを察し、アレクシアに小さく頷いて返してから、皆に聞こえるようにはっきりと答えた。
「クラヴェル伯爵からアレンに他の令嬢との逢引きについて真偽を問いただす手紙が届いたというが、アレンはそのようなことは一切していない。デシャネル伯爵令嬢と会っていたのは僕だ」
「やはり……。こちらは殿下のお品で御座いましょう。デシャネル伯爵令嬢からこちらを渡された時にもしやとは思っていたのです」
「あぁ、これは確かに僕が彼女に渡したものだ」
恭しくアレクシアが差し出したカフスボタンを指先で摘み上げた王弟の言葉に、ヴァネッサが言うところのアレン・フォーゲルはやはり王弟殿下であったのかと、談話室の中がにわかに騒がしくなる。
現在の王は先王の病を理由に即位したばかりの若い王だ。
彼に弟がいることは明らかであったが、今まで王弟は慣例に倣って表にはほとんど出ず裏方に徹していたこともあってか、顔を見る機会もほとんどなく、言わば徹底して隠されていた存在であった。
そんな王弟殿下の恋人が孤高の白百合と呼ばれた社交界の華、ヴァネッサ・デシャネルであったとは、これは社交界でも大ニュースである。
令嬢たちは自分たちが遭遇したあまりにも大きな出来事に興奮し、互いに顔を見合わせて頬を赤くしていた。
その中でヴァネッサは一人、表情を硬くして王弟を見つめている。
先ほどまでのアレクシアのように顔は少し色を失い、白い肌は僅かに青ざめて見える。
「……私には、わかりません。どういうことですの」
震える唇が紡いだヴァネッサの言葉に、王弟はひどく申し訳なさそうに口を開いた。
「話せば長いが……。僕は確かに王弟なんだが、そもそも僕たちは三つ子なんだ。王家の血を引く同い年の男児であるが故に、僕は兄が即位しても他家に養子に行くこともままならず、二番目の兄と共に王家の慣例に従って名を隠して生きてきた。故に僕はずっと己の名を知らなかった。名乗って良いのは乳兄弟であるアレンの名前だけだったから」
この国では貴族の子供が双子などの複数で生まれた場合、悪魔が攫いにやってくるという言い伝えがあり、悪魔の目を誤魔化すために長子と定めた一人以外は七歳の誕生日を迎えるまで本当の名前とは別の仮の名前を呼ばれて育つ風習があった。
王族にも似たような風習があるらしいが、それがただの貴族のそれとは比べものにならないほど複雑であることを王弟の表情が語っていた。
すまない、と目を伏せた王弟を見つめ、ヴァネッサは再びわかりませんと呟いた。
表情が強張っている彼女ははっきりした目鼻立ちのせいで、まるで王弟を睨みつけているかのようにも見える。
息をひそめてじっと様子を窺っていた周りの令嬢たちのうちの何人かは、そんなヴァネッサを見て、社交界に出た当初の『孤高の白百合』であった頃の彼女を思い出していた。
吊り目がちな青い瞳を王弟から逸らさず、ヴァネッサは淡々と言った。
「……わかりません。つまり、私はどうしたら良かったのでしょう。この場で王弟殿下の貴重なお時間を賜りましたことを恐悦至極に存じますとお礼申し上げれば良いのですか? それとも殿下のお顔も存じ上げなかった己の無知無礼を恥じてお詫び申し上げる方が先でしょうか?」
「どちらでもない! どちらも僕は望まない。僕は、ただ、君に本当の名を名乗れる僕になりたくて、偽りのない自分で君と話をしたくて……。ヴァネッサ嬢、本当に、本当にすまない」
「殿下が何をお望みか、私にはわかりかねます。大体、私が、一体どんな気持ちでここに来たとお思いですか。私は、私は……っ!」
ぼろ、とヴァネッサの大きな瞳から涙が溢れるのと、彼女が握りしめた拳を王弟の胸に叩きつけるのが同時だった。
「……ばか……っ!」
叫んだヴァネッサの言葉に周りは皆ギョッとして、今にも護衛の騎士が飛んでくるのではないかと辺りを見回した。
だが殴られた本人は大人しくそれを受け入れ頷いている。
ヴァネッサは周りのそんな様子も気にせず、二度、三度と王弟の胸をぽかぽかと殴って叫んだ。
「ば、ばか心配しただでね! なん、なんで最初に言ってくれんけだ!? 私が田舎娘でなんも知らんけもんで言わんくてもえぇと思っただかや!」
ぼろぼろと涙を溢すヴァネッサの口から勢いよく飛び出るスゥガ言葉の数々に、周りは再びギョッとした。
美貌の令嬢ヴァネッサ・デシャネルの田舎訛りは王国標準語に慣れきった令嬢たちや貴族にとって、あまりに鮮烈だった。
「王都で良くしてくださったアレクシア様にも迷惑を掛けて、私、ほんとに申し訳なくて……! 私は何言われても構わんけん、わた、私が、私ンせいで、あなたにも迷惑掛けたり、あなたまで皆に悪く言われたらどうしようって、ずっと、ずっと心配して……! 今日だって私、このままスゥガに戻って修道院で一生初恋を弔って生きるって、そう思ってただよ! もう! もう!!」
そして令嬢たちは先ほどヴァネッサが自らが口にした『田舎訛りを矯正する手伝いをして貰った』という説明が真実であったと、目を丸くしたり口元に手を当てたりしながらも納得せざるを得なかった。
この訛りでは王都の社交界ではさぞ苦労しただろうと哀れみの表情を浮かべる令嬢さえいた程である。
王弟はヴァネッサの言葉と拳を真正面から受け止め、ついにヴァネッサが叫び疲れて大人しくなるとそっと口を開いた。
「……うん。いきなり色んなことを伝えて混乱させてしまったね。最初に会った時に君が僕のことを知らないのだと気付いていた。きちんと説明するべきだったし、婚約者のいるアレンの名で君と会うということの意味を僕はもっとよく考えるべきだった。怖がった僕が悪いんだ。すまない、ヴァネッサ嬢」
「こ、こわ、がる……? 何を?」
「身分を明かしたら君はもう会ってくれないと思ったから。だから何も知らない君にこれを渡した。君が印を知っている可能性もあったから賭けだったけどね」
王弟はヴァネッサの手を取り、その手のひらの上にアレクシアから回収したカフスボタンをのせた。
金色のカフスボタンには右側を向く獅子の紋章が彫刻されている。
ヴァネッサはそれをフォーゲル家の家紋だと思っていたが、彼の口ぶりではどうやら違うらしい。
睫毛を涙で濡らしたまま、ヴァネッサはカフスボタンと目の前の青年を交互に見つめた。
「右を向く獅子は僕個人の印。自らの名も持たぬ僕が僕であることを表す唯一の品だ」
「そんな大切なものを……」
「名前を告げられない僕にはそれ渡せる『本当』がなかった。でも、君に名を告げられないこと以外、君に語った言葉に嘘偽りはない」
不安にさせてすまない、と言う言葉と共に王弟がヴァネッサの頬にそっと手を当てる。
その手のひらから伝わる体温に、再びヴァネッサの目からぶわりと大粒の涙が零れ、王弟の手ごとまだ腫れの残る頬を濡らしたのだった。




