第五話 アレン・フォーゲル
クラヴェル伯爵家に向かう馬車の中は重苦しい沈黙に満ちていた。
デシャネル伯爵夫人は終始イライラとした様子だったし、その隣に座る伯爵も気まずそうにむっすりと黙り込んでいる。
そして夫妻の正面に座ったヴァネッサはといえば、左頬は赤く腫れ、口許には血の滲んだ痕跡が残っていた。
誰が見ても『殴られたのだな』とわかる顔である。
クラヴェル伯爵家から今回の件について謝罪を求める手紙を受け取った母に、なんてはしたないことをと問答無用で頬を張られたのだが、ヴァネッサは当然の罰としてそれを受け入れた。
例え男女の仲でなくとも、婚約者のいる男性と二人きりで会うなど、貞淑さを求められる貴族令嬢にあるまじき行いだ。
あの場所にはちゃんと使用人達が控えていて、一度も完全な二人きりにはならなかったが、それを口にしたところで火に油を注ぐ結果になるのは目に見えていた。
これも己の浅はかな行動の結果だと、ヴァネッサは納得していたのだ。
「ヴァネッサ、今後お前に自由はないと思いなさい」
「はい、お母様」
今後のヴァネッサの辿る道は田舎の修道院に送られるか、早々に親の決めた相手と結婚させられるかのどちらだが、どちらにせよそれも貴族家に生まれた以上は最初からわかっていたことで、ヴァネッサは自由など今更だと思っていた。
「……これは」
クラヴェル伯爵家に到着し、両親はクラヴェル伯爵夫妻の待つ応接間に、ヴァネッサはアレクシアの待つ談話室へとそれぞれ案内された。
しかし通された談話室にはアレクシアだけでなく他家の令嬢たちまでもずらりと揃っており、皆が頬を腫らしたヴァネッサを好奇心とわずかな軽蔑を含んだ視線で迎えたのだった。
誰一人として顔の傷に言及しないのは、その顔を見れば何があったか一目でわかるからだろう。
「どうせ皆さんも詳しい話を聞きたいでしょうし、顔を合わせる度にいちいち説明するよりも、ここで一度に済ませてしまった方が効率的でしょう?」
どうせ皆この件について話を聞きたがるのだから、皆の前で説明すればいいのだとアレクシアは冷たい声音で言う。
説明か、弁明か。どちらでも良いと続けた彼女に、ヴァネッサはまるで裁判のようだと表情を強張らせた。
(確かにクラヴェル伯爵令嬢の言う通りかもしれない)
今後のヴァネッサに自由な社交活動が許されるとも思えないが、それでも貴族として社交活動は義務のようなものだし、この手のゴシップが大好きな貴族たちは耳も早くて遠慮がない。
お茶会や夜会に出る度に説明を求められるのは確かに面倒なので、それならば今ここにいる令嬢たちにこの場で事実を伝え、その説明を任せてしまえるのならその方がいいだろう。
例え、話した真実が面白おかしく歪められたとしても、それも致し方のないことだ。
ヴァネッサは小さく息を吐き、皆を見回してから口を開いた。
「皆さま、今日はお時間を割いて頂いて有り難う存じます。それから、私の思慮に欠けた行いによってクラヴェル伯爵令嬢をはじめ、皆様にご迷惑とご心配をお掛けしておりますこと、深くお詫び申し上げます」
ゆっくりでも、喋ると切れた口元がじんと痛んだ。
今更詫びたところでどうなるとも思えないが、それでもヴァネッサはアレクシアに詫びる以外に出来ることがない。
アレクシアに深く頭を下げ、ヴァネッサは続けた。
「私があの方と、アレン・フォーゲル様とお会いしていたのは事実です。しかし、私とあの方の間には、やましいことはひとつもございません。あの方は……」
「……何よ。アレンがどうしたと言うの」
アレクシアに続きを促され、ヴァネッサはもう何も失うものなどないと深呼吸をしてから再び口を開く。
「あの方は私の田舎訛りを矯正するお手伝いをして下さっただけです」
その言葉にアレクシアも他の令嬢も怪訝な表情になる。
それもそうだ。ヴァネッサが社交の場で会話をし始めたのはアレンに王国標準語のお墨付きを貰った後である。
ヴァネッサは自分がこれまでずっとスゥガ地方のごく田舎で生まれ育ち、それゆえに王国標準語を不得意としていたことを説明した。
だからこそ社交界に出た当初は訛りを隠すために『ご機嫌よう』以外の言葉を発することが出来なかったのだと言うと、その頃のヴァネッサを覚えていた令嬢の何人かがそういえばと頷く。
「確かにデシャネル伯爵令嬢は、デビュタントからしばらくは誰ともお話になりませんでしたわね」
「あれにはそんな理由が……」
さわさわとざわめく令嬢たちの中からは田舎娘と嘲笑する言葉も漏れ聞こえる。
皮肉にも、ヴァネッサは自分が王都に来た当初に感じていた不安が当たっていたのだと知り、やっぱりねと目を伏せた。
「……私は、両親が許せばこのままスゥガに戻り、そこで修道院に入ろうと思います。こちらも、クラヴェル伯爵令嬢にお返し致します」
そしてヴァネッサは、大切にしていたアレンから貰った獅子の紋章が刻まれたカフスボタンをハンカチに包み、そっとアレクシアへと差し出した。
このカフスボタンは王立図書館の個室に入るための通行証としての役割を果たしていたが、ヴァネッサにとってはそれだけでなく、唯一アレンとヴァネッサを繋ぐ大切な品だった。
手離すことは身を切るように辛いが、いつまでも持っている訳にはいかない品でもある。
「これは……」
ハンカチを開いて中のカフスボタンを確認した瞬間、アレクシアはわずかに目を見開き、ヴァネッサに何かを言い掛けた。
しかし、その言葉はドアが開く音によって遮られてしまった。
代わりに焦りを含んだ青年の声が部屋に響く。
「アレクシア! 君の父上から手紙が届いたが、これは一体どういうことなんだ? 私には身に覚えが……、と失礼」
つかつかと足早に部屋に入って来たのは金色の髪の青年で、部屋の中にいる他の令嬢たちの困惑した表情を見ると、来客がいたのかとハッとした様子で口を噤んだ。
その手にある手紙にクラヴェル家の印が入った封蝋が見えたので、彼は届いた手紙を確認して慌ててこの場にやって来たのだろうと知れる。
「アレン!」
「アレクシア。どうして私にこのような嫌疑がかかる? 私がずっと王宮にいたことは同僚だって証言してくれるはずだ」
アレクシアの近くにいたヴァネッサには声音を抑えた青年の言葉が聞こえたが、それよりもヴァネッサにはどんどん顔色を失っていくアレクシアの方が気にかかった。
なにしろ、このままだとその内に倒れてしまいそうな顔色なのだ。
(わ、私のせいで体調を崩したのでは……)
アレクシアが賠償金を払えというなら喜んで払うし、二度と近付くなと言うのなら誓約書にサインしてもいい。血判だって捺す。
ヴァネッサとしても、あとはもう好きにしてくれて構わないので、ここはもう詫びられるだけ詫びて早々に帰るべきか。
しかし、ヴァネッサにはここではっきりさせておくべきことがひとつだけある。
ヴァネッサは勇気を出して顔を上げ、おずおずと声を掛けた。
「あの、あなたが、アレン・フォーゲル様、ですか? クラヴェル伯爵令嬢の婚約者でいらっしゃる?」
金色の髪。青い瞳。整った顔立ち。洗練された美しい王国標準語に歳の頃や身長まで。
確かにそれらは令嬢たちが口にするアレン・フォーゲルという青年の容姿を正確に表している。
──だが、しかし。
(だ、誰なの?!)
その『アレン・フォーゲル』は、ヴァネッサの知るアレン・フォーゲルとは全くの別人であったのだ。
前に聞いた話では、この王都にいる結婚適齢期のアレン・フォーゲルはアレクシアの婚約者ただ一人だけだという。
だがヴァネッサが今まで会っていた『アレン様』は彼ではないし、そもそも彼の目はもっと濃い青色だし、金の髪はもっと明るい。
ならば、今まで自分が会っていたのは、アレンと名乗ったあの青年は一体誰なのか。
(こ、この方がアレン・フォーゲルだというのなら、私の知るアレン様は一体誰なの?)
困惑するヴァネッサの様子を見て、真のアレン・フォーゲルは怪訝そうに首を傾げ、それでも礼を失わずに頷いた。
「あぁ。私は彼女……アレクシア・クラヴェル伯爵令嬢の婚約者のアレン・フォーゲルですが。……君は?」
ヴァネッサは全く見も知らぬアレンの登場に困惑し、アレンは手にした手紙を所在なげにポケットにしまい込んで訳がわからないと困惑し、集まっていた令嬢は困惑するヴァネッサとアレンを見てどういうことなのと困惑した。
しばらくの間ヴァネッサはアレクシアとアレンの顔を交互に見ていたが、ついにへにょりと眉尻を下げる。
部屋の中にぎっしりと『?』が充満した時、消え入りそうな声で呟いたのはアレクシアだった。




