第四話 霹靂
「……そういえばデシャネル伯爵令嬢はまだ婚約なさってないのね。意外だわ」
ある日のお茶会でのこと。
ホストである令嬢の婚約が話題に上がると、その流れでヴァネッサがまだ婚約していないことについても尋ねられた。
この頃には、『孤高の白百合』という呼び名も大分薄まり、お茶会でのカジュアルな会話くらいなら緊張せずにこなせるようになっていたヴァネッサは、小さく肩を竦めてスラスラと答えた。
「えぇ、まだ王都に出てきて初めての社交期ですもの。お母様は社交期が終わるまでに婚約させたがっているみたいだけれど、こればかりは私にはどうしようもないわ」
伯爵令嬢ともなれば、婚約も結婚も親同士が決めるものであり、ヴァネッサがどうこうできるものではない。
ヴァネッサがそう答えると、他の令嬢も立場は似たり寄ったりであったので、そうよねと笑って頷いた。
彼女たちに出来るのは、せめて結婚後の自分が幸せになれますようにと祈り、少しでも良い家に嫁げるように教養を身に付けることだけだ。
「だったら尚のこと今を楽しまなければね。デシャネル伯爵令嬢は、どなたか気になる殿方はいらっしゃらないの」
「そうよ。いるのなら、わたくし達協力するわ」
「えっ、そんな、気になる殿方だなんて……」
気になる殿方。
以前に母から尋ねられた時には誰一人として頭に浮かばなかったのに、今はすぐに浮かんでくる。
ほんのりと頬を赤らめたヴァネッサに、令嬢たちは恋の予感を察知してきゃあと歓声をあげた。
婚約しているいないにかかわらず、令嬢たちは恋の話が大好きだ。
「ねぇ、どなたなの。わたくし達、その方を存じ上げているかしら」
「どこで出会った方? 詳しく聞かせてちょうだいな」
「皆様、お待ちになって。そんな、私、困るわ」
「いいじゃない。少しだけ、ね?」
まだ知らぬ恋の話に、令嬢たちは歌う小鳥のようにヴァネッサに続きをねだる。
押しに弱いヴァネッサは、しばらく悩んだ末に令嬢たちに請われてついに唇を動かした。
「お慕いしているというか、お世話になったという意味で気になる方なのだけど……」
「あらあら、そんな前置きいらないのに」
「ほ、本当なのよ」
「それで、どなたなの」
令嬢たちの視線を一気に集め、ヴァネッサは困ったように眉尻を下げて小さな声で答えた。
「……アレン・フォーゲル様よ」
ヴァネッサがその名を口にした瞬間、それまで和やかだったサロンはしんと静まり返った。
そしてすぐに戸惑ったようなざわめきが広がっていく。
「デシャネル伯爵令嬢、本当にアレン・フォーゲル様なの」
「そうだけれど……」
それがどうかしたのと問う前に、一人の令嬢の強張った声がサロンに響いた。
「アレン・フォーゲルですって? アレンはわたくしの婚約者よ。デシャネル伯爵令嬢、あなた、わたくしの婚約者とどんな関係なのか教えて頂けるかしら」
「えっ!?」
一瞬、ヴァネッサは自分が何を言われたのかわからなかった。
(こ、婚約? アレン様は婚約なさってたの? でもそんなこと一言も……)
ヴァネッサとアレンは健全に会話の練習をしていただけだ。
エスコート以外では手さえ触れたこともない。
だからどんな関係かと問われれば、それは会話練習の師と生徒であるとしか言いようがない。
(私達、やましいことなんてひとつも……、あぁでも婚約なさってる殿方と二人きりで会うのはいけないことじゃないだかしん……!?)
ヴァネッサは驚き、そして突きつけられた現実に顔を青くした。
使用人は控えていたものの、年頃の男女が二人きりで会っていたのは事実である。
がつんと頭を殴られたような衝撃に声が出ない。
顔色を悪くしたヴァネッサを見て、その令嬢、アレクシア・クラヴェル伯爵令嬢は憤懣やるかたないといった様子で叫んだ。
「王宮勤めでなかなか会えないと言っていたのに、実際にはあなたと会っていたってわけね! ヴァネッサ・デシャネル! あなた、わたくしの婚約者と一体何をしていたのか説明なさいよ!」
「違う! わ、私は、ただ……」
ヴァネッサは、社交の場で田舎訛りが出ないようアレンに会話の練習相手になってもらっただけだ。
しかしそれを口にして良いものか。
真実を明らかにするということは、ヴァネッサの田舎訛りも露見してしまうということだ。
せっかくアレンに練習をつけてもらってここまできたのに、とヴァネッサは躊躇してしまった。
そしてその躊躇が命取りだった。
「弁明なさらないのね。ひどい方」
アレクシアはそう吐き捨ててヴァネッサに冷たい視線を送ると、お茶会のホストである令嬢に退席する旨を伝えて足早にサロンを出て行ってしまった。引き止める暇すらなかった。
やましいことがないのならその場で即座に弁明するべきであったとヴァネッサが気付いたのは、アレクシアが去り、サロンのドアが閉まる音を聞いた時だった。
その場に残された他の令嬢達が気まずい表情を浮かべて互いに目配せをすると、ホストを務める令嬢がこっくりと頷いて今日のお茶会はここでお開きにしましょうと解散の指示を出した。
まだ青い顔をしているヴァネッサを横目にそそくさと帰っていく令嬢達。
その背中を見て、この場で起きたことは明日の昼にはきっと王都中の令嬢が知るところになるのだろうとヴァネッサはぼんやりと思った。
「デシャネル伯爵令嬢」
「あ……、私、せっかくのお茶会でしたのに、ご迷惑をお掛けして……本当に申し訳ありません……」
「厳しいことを言うけれど、あなたが謝罪するべきは私ではなくてよ」
「あの……!」
ヴァネッサは震える声で問うた。
「私、あの方が婚約なさっていたとは本当に存じ上げなかったのです。お人違いという可能性はないのでしょうか……」
アレンは優しく誠実な人間だとヴァネッサは信じている。
だからこそ、自身の婚約を隠してヴァネッサに時間を割いていたとは信じがたい。
しかし令嬢はゆるりと首を振り、小さく溜息を吐いて答えた。
「私の知る限り、この王都にいる結婚適齢期のアレン・フォーゲルはアレクシアの婚約者だけよ。金髪に青い目の美丈夫で、背の高い方よ。アレクシアは彼にぞっこんだというし、彼女、前の婚約者を馬車の事故で亡くしていてこれが二度目の婚約なの。年齢的にもう後がないのだから、あの怒りようも致し方ないことよ」
王都の令嬢なら皆知っている事だけれど、とその令嬢は説明し、そのまま視線でヴァネッサにも退室を促した。
ヴァネッサはそれ以上何も言うことは出来ず、震える足を叱咤してなんとか馬車に乗り込んだのだった。
「お嬢様、顔色が優れないようですがお加減でも……」
「ファニー……。私、私……っ」
「お嬢様!?」
おぼつかない足取りで自室に辿り着いたヴァネッサは、出迎えてくれたメイドのファニーに縋り付くと堪えきれずに泣き出した。
「私、知らなかった。何も。私がちゃんとしてたら、私が……」
「お嬢様、一体どうなすったんですか」
子供のように声を上げて泣くヴァネッサに、ファニーは慌てながらもヴァネッサが転ばないように慎重にソファへと移動し、ハンカチを何枚もヴァネッサの膝に置いて全速力で水差しとコップを用意してくれた。
「お嬢様、何があったかファニーに話してくれんかしん」
「うぅ、ファニー……」
耳に馴染むスゥガ言葉に、ヴァネッサの目にまたじわりと涙の膜が張る。
ぐずぐずと鼻を鳴らしながらヴァネッサは唇を動かした。
「私、最近王立図書館で、会話の練習してもらってただけんね……」
「えぇ、えぇ、存じておりますよ。旦那様たちには秘密で勉強しているのでしょう」
「でも、その先生になってくれた人、婚約者がいて……」
「えっ」
「私、婚約してるとか知らんけもんで、二人で、二人きりで練習してて、それでその人の婚約者が、私がその人を気になってるって知って怒って……」
「いや、まぁ、それは……うーーーん」
「せっかくの秘密の特訓だで皆になんて説明したらえぇだかわからんくて、何にも説明出来んけだよ……」
うわぁんとヴァネッサはまた声を上げて泣き、一頻り泣いて落ち着いた頃にぼそりと呟いた。
「……全部、私が、私のことしか考えてなかったもんで悪いだよ」
そう。あの場にいた令嬢たちの前で、己の体裁など気にせずに田舎訛りを直すために練習相手になってもらっただけだとヴァネッサはきちんと説明すべきだった。
二人で会ったことについても、婚約を知らなかったとはいえすぐに謝罪するべきだった。
謝罪して、今後は二人で会うようなことは絶対にしないと、アレクシアに伝えるべきだったのだ。
アレクシアだって突然ヴァネッサが自分の婚約者に懸想しているなどと聞かされて、どれだけ驚き、そして不快に思ったことだろうか。
周りに訛りを知られたくないと保身に走った結果がこれだ。
ヴァネッサはファニーに背をさすってもらいながらスンと鼻を鳴らした。
(私が最初からアレン様の妹さんにも同席して貰っていたら少しは話が違ったかもしれない。ううん、それだけじゃない。伯爵令嬢として、もっと注意しなければならないことはたくさんあった)
きっとヴァネッサは舞い上がっていたのだ。
王都での生活は毎日が緊張と不安ばかりで、頼る相手もいない状況で差し出された手を、何も考えずに取ってしまった。
何も言わなかったアレンにも非はあるのかもしれないが、何も聞かなかったヴァネッサにも同じくらいかそれ以上に非がある。
もしかしたら彼の言っていた『妹』というのが婚約者の存在を示唆していたのかもしれない。
(私だけならまだしも、皆に迷惑を掛けてしまう……)
今回の件は間違いなくアレクシアの家からクレームが入るだろう。
両親の耳に入るのも時間の問題だ。
幸いなのは、ヴァネッサとアレンは神に誓ってアレクシアに顔向け出来なくなるような事は一切行っていないことだが、それを言ったところで相手の怒りがどれだけ鎮まるものか。
(でも私のせいでせっかくの婚約を台無しにしてしまうところだった。心から謝罪して、誠意を示すしかない)
ヴァネッサは、もしも賠償金を求められたら自分のドレスもアクセサリーも、一つも惜しむ事なく売り払う覚悟を決めた。
こんな事になってしまったのだから、いっそ修道院に入った方が良いかもしれない。
(田舎娘が都会の殿方に優しくされて勘違いしてしまっただけ。ただそれだけの話)
あの王立図書館で、王国標準語の使い方に悩む自分に根気よく付き合ってくれたアレンの優しさはきっと本物だった。
そんな事をぼんやりと考えていると、何回目の練習の時だったか、アレンと交わした会話がヴァネッサの脳裏に蘇った。
「──どうして王都では王国標準語を話すのだと思う?」
「どうしてって……、そういう慣習で……」
「慣習にも理由があるものだよ。では言い方を変えよう。もし王都で『とても可愛い』と言う時にスゥガ言葉を使ったらどうなると思う?」
「えっと、スゥガ言葉だと『ばか可愛い』ですね。それを王都で……、あ! 誤解、されるかもしれない……」
「そう。地方の言葉は王都で使われているのと同じ発音で意味が違ったりする。だから余計な誤解を生まないように、王国標準語を使うこととされているんだ」
なるほどと頷くヴァネッサに、アレンはでも、と続けた。
「僕は君のスゥガ言葉が好きだよ。王国標準語より柔らかく聞こえるし、君が土地を愛しているのを感じられるから」
そう言って微笑んだアレンの言葉に、ヴァネッサは胸の奥がほんのりと温まるのを感じたのだ。
(私は……)
ヴァネッサはアレンの笑みを思い出しながら軽く唇を噛んだ。
(私、気になっているだけなんてごまかしたけれど、本当にアレン様のことが好きになっていたのね)
愛の言葉を囁かれたことは一度もない。
相手に触れたことも、触れられたこともない。
それでもヴァネッサはアレンから貰える言葉の一つ一つが嬉しくて仕方なかった。宝物のように大切だった。
まさか自分が他人の婚約者を好きになってしまうだなんて、予想もしていなかった。
好きになるだけであれば、一人で胸の中で想うだけならば、きっと罪にはならないだろう。
だが、ヴァネッサにとってそれは何よりも残酷で辛いことのように思えた。
(想っているだけで良い、だなんて、それこそ綺麗事だわ。アレクシア様にも申し訳が立たない)
じわりと止まりかけた涙が再びヴァネッサの眦を濡らす。
「……何も知らずに好きになったのはしょんないかもしれんけん、筋が通らんのはいけんでね」
「お、お嬢様……?」
ヴァネッサはそう言って徐ろに立ち上がった。
手の甲でぐいと涙を拭い、大きく一度深呼吸をしてから心配そうにこちらを覗き込むファニーに小さく微笑みを返す。
──覚悟は、決まった。




