第三話 方言令嬢の奮闘
そして訪れたアレンとの約束の日。
ヴァネッサは待ち合わせ時間より少し早めに王立図書館に向かい、正面入り口に立つ警備員に恐る恐る例のカフスボタンを見せて二時から約束があるのだと伝えた。
警備員はカフスボタンを見るなり姿勢を正し、ヴァネッサを重厚な彫刻が施された両開きの扉の前に案内した上で、中でお連れ様がお待ちですと恭しく頭を下げてヴァネッサのために扉を開けてくれた。
ヴァネッサは開かれた大きな扉を見上げ、なんだかすごいところに来てしまったのかもしれないと今更ながらに思ったが、ちゃんとした一人前の王都のレディになるためにはここで怖気付いて帰るわけにはいかない。
緊張から外出用の手袋を嵌めた手を軽く胸の辺りで握り、警備員に礼を言ってから中へと一歩踏み出す。
「……すごい……」
部屋の中はぎっしりと本の収められた本棚に囲まれており、その量に圧倒されてヴァネッサは思わず感嘆の吐息を漏らした。
そこはどうやら個室のようで、奥の方には本を読むためだろうかテーブルと椅子が置かれているのが見えた。
個室といっても広い部屋だ。テーブルと椅子だけではなく、本棚自体にも彫刻が施されている箇所があり、天井に描かれた絵も見事である。
図書館というものは一つのだだっ広い空間にただ本棚が連なっているような場所だと想像をしていたヴァネッサは、どこかの貴賓室と言っても全く差し支えないであろうその部屋を恐る恐る進んだ。
既に中にいるとのことだが、アレンは一体どこにいるのだろうか。
きょろきょろと辺りを見回しながら部屋の奥へ進んでいくと、中庭に面した大きな窓へと行き着いた。
「あら?」
よく見てみれば窓だと思ったのはガラス張りのドアで、そのガラス越しにふと中庭へ視線を向けたヴァネッサはそこに探していた人物を見つけて声を上げた。
「あ!」
ドア越しのその声が聞こえたのか、はたまた視線に気が付いたのか、庭に出ていたアレンがこちらを振り返り、ヴァネッサの姿を認めると早足でこちらへやって来てドアを開けてくれた。
「やぁ。今日は天気が良いから外で練習しようか」
「外?」
「あぁ。ガゼボがあるんだ。ちゃんと日陰になるから日焼けの心配はいらないよ」
アレンは、妹に口を酸っぱくして言われたんだと肩を竦めて、自然かつ紳士的にヴァネッサをガゼボまでエスコートした。
もしかしたら屋内よりも緊張しないように初レッスンを外にしてくれたのかもしれない。
案内されたガゼボの中心にはこちらもテーブルセットが置かれており、何冊かの本が積まれていた。
しかも少し離れたところには彼の従者だろうか数人の男女が控えている。
(都会の殿方は気遣いが出来るのね)
会話の練習とはいえ貴族の男女が部屋の中に二人きりというのは、あまり褒められたことではない。
近くに女性も控えているのを見てヴァネッサはほんの少しだけ安心した。
「さて、ミス・デシャネル。早速だが……」
「は、はいっ」
「君は王都に来るまでどの地方にいた? 君の言葉はどこの地域のものなのだろうか」
「……はい?」
向かい合って座った直後にそのようなことを言われて、ヴァネッサは意味がわからずにこてんと首を傾げた。
しかしアレンは真面目な顔でテーブルに地図を広げ、ヴァネッサの答えを待っている。
どうして私が育った地域なんて知りたいのかしら。
ヴァネッサは疑問に思ったが、結局はアレンの気迫に押されておずおずと指先で地図を示した。
「私がいたのはこの辺り、スゥガ地方です」
「王都と旧王都の中間地点か。気候が温暖で交易路としていくつも宿場のある地域だな。君の地域の言葉のイントネーションに旧王都言葉寄りのものと王国標準語に近いものが混ざっているのも、色んな地域の言葉が飛び交うからだろうか」
「そ、そうなんでしょうか……」
息をするように自然に使っていた言葉だったので、その起源まで考えたことなどなかった。
もっと気の利いたことを言えたら良かったのにと申し訳なく思いながらチラとアレンを見ると、彼は優しく目を細めていた。
その表情に、彼がヴァネッサの緊張を解くためにあえてこの話を振ってくれたのだろうと悟る。
(優しい方……)
もし自分に兄がいたらこんな感じなのかもしれない。
ヴァネッサは、アレンから質問されたスゥガ地方についてのあれこれに答えながら、ふとそんなことを思った。
一人っ子のヴァネッサにとって、このように誰かと交流するのは初めてのことだ。
それに、いつもなら王都の人間と話す時には自分の王国標準語があっているかと心配と緊張で胃は痛いし、冷や汗はかくし、とにかく焦ってしまって話の内容などさっぱり頭に入って来ないのだがアレンと話す時には不思議といつもの緊張は襲って来ない。
それは彼の醸し出す頼もしさや穏やかさのせいかもしれないし、ヴァネッサの中で彼を『アレン・ネコチャン・フォーゲル』と思っていたからかもしれなかった。
それくらいあの夜の『猫ちゃん』はヴァネッサの記憶に強烈に焼き付いていた。
あの夜のアレン本人は平気なフリをしつつもどこか恥ずかしそうにしていたから、ヴァネッサも今更口には出さなかったけれど。
この日から、ヴァネッサは図書館でアレンと会話の練習を重ね、順調に王国標準語の経験をつんでいった。
母がつけてくれた教師は社交界で想定される王国標準語での会話を丸暗記させるだけだったが、アレンは社交界で交わされる頻度の高い会話の他にも日常のちょっとしたことを話すことを練習に盛り込んでくれたので、ヴァネッサは王国標準語でのウィットに富んだ会話術というものを効率よく身につける事が出来た。
また、アレンはヴァネッサにスゥガ言葉の使用を制限こそしたが、禁止はしなかった。
アレンによって設けられた『休憩中は方言可』というルールによって、慣れた言葉を使ってはいけないと自分を追い込まなくて良くなり心に余裕が生まれたのか、方言と王国標準語の『場面に応じた言葉の使い方』も身につけられたのはヴァネッサにとっても大きかっただろう。
方言を王国標準語にうまく変換出来ない時は、アレンに相談して言い換えの練習もした。
ヴァネッサが不思議に思うほど、アレンは熱心に会話の練習相手になってくれたのだった。
「ヴァネッサ嬢」
「何でしょう、アレン様」
最近では名前で呼び合うくらいには打ち解けていた二人は、今、ヴァネッサが招待された次のお茶会に向けて最後の追い込みをしていた。
二人が会話の練習を始めてから迎える初のお茶会である。
ホストとなる家の令嬢の社交界での評判から趣味嗜好まで、しっかり予習をしてどんな会話にも臆することなく挑めるようにと、アレンは自分の妹から最近のお茶会で年頃の令嬢たちがよく話すことなどをリサーチしてくれていた。
そのお陰でヴァネッサはぐんと王都の流行に詳しくなり、ドレスや小物を選ぶ楽しみも増えた。
ヴァネッサがまたお茶会についての情報でも貰えるのかとアレンへ視線を向けると、アレンは穏やかな表情でヴァネッサを見つめて言った。
「これだけ自然に王国標準語が使えるようになれば、茶会で不安になることもないだろう」
「そうかしら……」
「そうとも。あと君に足りないものがあるとすれば、それは自信だろうな」
「自信?」
口の中でもう一度自信と呟き、ヴァネッサはつい先ほどまで浮かべていた笑顔を曇らせて眉尻を下げる。
本番でちゃんと会話ができるのだろうか。
こんなに練習したのに失敗してしまったら?
自信を持てと言われても、そんな不安はいとも容易くヴァネッサの胸を満たしてしまう。
萎縮するヴァネッサの心を見透かしたように、アレンは小さく苦笑して続けた。
「ヴァネッサ嬢」
「……はい」
「卑屈と謙虚は違うものだ。君の王国標準語は発音も美しく聞き取りやすい。これは決してお世辞ではないよ。ほら、きちんと前を向いて胸を張るんだ。大丈夫。君は一人前の淑女なのだからね」
そんな事を言われても、不安なものは不安なのだ。
しかし、同時にアレンがここまで言ってくれるのなら本当に大丈夫なのではないかという気持ちも湧いてくる。
ヴァネッサはアレンを見つめ、美しい発音の王国標準語でぽそりと問うた。
「あの、アレン様、もう一度だけよろしいでしょうか?」
「何だい」
「私、大丈夫だと思いますか?」
「勿論!」
にっこりと笑うアレンにつられてヴァネッサの顔にも笑みが戻る。
お茶会で緊張しそうになったらアレンの笑顔を思い出そう。
アレンが信じてくれたのだ。アレンが信じたヴァネッサを自分も信じよう。
(お茶会が無事に終わったら、アレン様に今までのお礼を伝えなくちゃ)
アレンには何度も会話の練習に付き合ってもらっているのに、そういえば彼のことをほとんど知らない。
彼はヴァネッサの会話練習には熱心だったが、自らについてはあまり語らなかったからだ。
なので彼について知っていることといえば、犬より猫派であるとか、好きなお茶の茶葉だとか、そんなことだけだった。
これを区切りとしてアレンにちゃんとお礼をして、出来ればフォーゲル家にも感謝の手紙を送ろう。
アレンほどの人格者なら、彼にも彼個人の社交というものがあるはずだ。
それなのに彼はヴァネッサのために自分の時間を使ってくれている。
それがどれほどのことなのかは、いくら田舎育ちのヴァネッサとて理解できる。
きちんと受けた分の恩に感謝を示すのが筋というものだろう。
(デシャネル領の特産である良質な茶葉を贈ったら喜んでもらえるかしら? それとも果物の方が……。いいえ、まずは私がきちんとお茶会をこなさなくちゃ)
アレンに背中を押されたヴァネッサは、決意も新たにお茶会に挑んだのだった。
そしてお茶会当日。
ホストである令嬢が他の令嬢にもヴァネッサを紹介してくれたので、その流れに便乗してヴァネッサは勇気を出して令嬢たちに声を掛けた。
「ご機嫌よう、皆様。私もお話の輪に加えて頂いてもよろしいでしょうか」
「まぁ、デシャネル伯爵令嬢。えぇ、えぇ、勿論喜んで! 私達、デシャネル伯爵令嬢とお話ししてみたいとずっと思ってましたのよ」
初めて「ご機嫌よう」以外の言葉を発したヴァネッサに、令嬢たちは一瞬目を丸くしたが、すぐにヴァネッサに笑顔を返してくれた。
令嬢たちもヴァネッサのことが気になっていたらしく、その日は初めて念願だったおしゃべりをすることが出来たし、心配していた王国標準語も自然に使うことが出来た。
アレンと練習した会話が実際に出た時など、『この会話やったことある!』と胸の中でこっそりはしゃいでしまうほどだった。
次の約束の日、図書館でヴァネッサはアレンにお茶会でのことを報告し心からの感謝を伝えた。
自分でも目覚ましい進歩を遂げた実感があるのだ。いくら礼を言っても言い足りないくらいである。
「アレン様、これも全てあなたのお陰です」
「いやいや、君の努力の結果だよ」
しかし、アレンは結果を喜んではくれたものの、全てヴァネッサが頑張ったことだと言って感謝の言葉すら満足に受け取ってはくれなかった。
それどころか、次は夜会対策だと言って傾向と対策を練り出す始末。
ヴァネッサはむぅと唇を尖らせて少し考えると、改めて口を開いた。
「アレン様」
「うん?」
「私、ほんとにばか感謝してるだでね?」
「……君のいう『ばか』とは確かスゥガ地方の言葉で、」
「とても、という意味です」
「そうか。そうだったね」
あ、照れてる。
パッと目を伏せたアレンを見てヴァネッサは直感で悟った。
咳払いをしているから、彼は今の反応は紳士らしくなかったとでも思っているのかもしれない。
(もしかして、王国標準語での感謝の言葉には慣れているから平気なように振る舞えるけど、方言は慣れていないから照れちゃう、とか……?)
そうだったらばか可愛いじゃん。
ヴァネッサは自分の胸の奥がキュンとしたのを感じたが、すぐにきっとそんなんじゃないと気を取り直した。
アレンは会話練習の先生であって、それ以上でも以下でもない。
だって彼とはあの夜会の日以来この図書館でしか会ったことはなく、彼自身のこともヴァネッサはいまだにろくに知らないままなのだ。
(せっかく練習に付き合ってくれているのだから、ちゃんとしなくちゃ)
時間的にそろそろ休憩時間も終わりだろう。
アレンにも励まされた分は応えたいと、ヴァネッサは頭の中で意識を王都の淑女モードに切り替えるのだった。




