第二話 出会い
(ね、猫ちゃんじゃなかった……!)
バルコニーに膝をつくようにして決まりの悪い顔でヴァネッサを見上げていたのは、どう見ても猫ではなく、上等な夜会服に身を包んだ青年だった。
青年はゆっくりと立ち上がり、乱れたジャケットの襟元を正すと一度小さく咳払いをしてから口を開いた。
「……失礼した。お怪我はないだろうか?」
恐る恐るではあったが礼儀正しく尋ねられ、ヴァネッサはつい流されて大丈夫だと頷きそうになった。
だが、もしやさっきの声の主は猫ではなく彼だったのだろうかと思い当たると、思わず唇を引き結んで身を強張らせる。
(さっきの聞かれた? どうしよう、私、王国標準語じゃなかった……!)
目の前の青年は太陽の光を集めたようなキラキラした金髪と、宝石のような濃い青色の瞳をしていた。物腰も洗練されていて、話す言葉も勿論王国標準語だ。
王都の貴族の見本のような相手に、ヴァネッサは赤くなったり青くなったりしながら何か答えなくてはとパクパクと魚のように口を開閉させるが、結局言葉らしい言葉を紡ぐことは出来なかった。
「あの、どこか体調でも……?」
そんなヴァネッサの反応に首を傾げた青年が、月明かりでヴァネッサの頬に残る涙の跡に気が付いてはたと動きを止める。
そして彼は迷いのない動作で取り出したハンカチをヴァネッサに差し出した。
「驚かせてしまって本当にすまない。どうか使って頂けないだろうか」
思わず受け取ってしまったハンカチは手触りが良く、シミひとつない見るからに高級品。
手の中のハンカチを見て驚いたヴァネッサは、首を振って青年にハンカチを返そうとした。
「こんな……、私、使う……、ない……です」
困惑しながら口を開いたからか言葉は片言のようになってしまい、ヴァネッサはますます顔を赤くして俯いた。
しかし青年も引き下がらない。
「男のハンカチなどレディの涙を拭うためにあるようなものだ。気にせず使ってほしい」
そう言われてしまうと押しに弱いヴァネッサは断れず、小さく頷いて返そうとしたハンカチをおずおずと目元へと持っていった。
だが、ここでまさかの待ったがかかった。
もちろん待ったをかけたのは青年である。
「あの、ご令嬢にこのようなことを言うのは失礼にあたるかもしれないが、そのまま目元を擦ってはメイクが、その、よれてしまうのでは……」
「あっ」
「失礼」
そして青年はヴァネッサの手からハンカチを取り、慣れた手つきで手早く目元を押さえるようにして涙を拭い、最後にメイクが落ちたり崩れたりしていないかまでチェックしてくれた。
呆気に取られるヴァネッサの視線に気付いた青年は、ハッとした顔になってヴァネッサの手にハンカチを戻し、三歩分の距離を取ると両手を上げて何もしませんという意思表示をした。ここまでおそらく三秒もかかってはいない。それほど機敏な動きだった。
「すまない。私は初対面のご令嬢相手に本当に、本当になんという失礼を……。あの、私には泣き虫の妹がいて、それでいつも世話しているものだからこういうことに慣れていて、つい癖で動いてしまったというだけで、本当にそれ以外のことは……やましい気持ちは一切ないんだ。信じてほしい」
青年があまりにも必死に弁明するものだから、ヴァネッサはかえって気が抜けてしまってわかりましたとこっくり頷き、そこでふと思い出して一言呟いた。
「……さっきの猫ちゃん……」
あの鳴き声はあなたよね?と目で問うヴァネッサに、青年は喉の奥でひとつ唸り声を上げ、恥ずかしそうに目元を染めて目を伏せ頷いた。
「……上から抜け出したんだが、誰もいないと思っていたバルコニーに君がいて咄嗟に……」
上階からバルコニーをつたって降りようと手摺りにしがみついたまでは良かったが、そこにヴァネッサが居たためにすぐに移動が出来ず、しかもヴァネッサが物音に気付いてしまった。
猫の真似でもすれば気にせず立ち去るかもしれないと考えたが、ヴァネッサは逆に興味を持ってしまい、彼は彼で体勢が悪かったので耐えきれずに落ちる前にとバルコニーに飛び込んだと説明した。
青年はそこで改めてヴァネッサに問うた。
「体調が悪いわけではないようだが、君の方こそここで何を? 休憩には見えなかったけれど」
「それ、は……」
「もしかして、先ほどの喋り方に関係している?」
やっぱり聞かれていた!
きゅうと眉尻を下げて困った表情を浮かべたヴァネッサを見て、青年は何を今更と言葉を続ける。
「私だって猫の鳴き真似を君に聞かれている。立場は似たようなものだろう」
「……いや、大分違うら……」
思わずそう方言で呟いてしまって、慌ててヴァネッサは口許を押さえた。
そんな事をしたところで飛び出た言葉は戻って来ないが、続く言葉を留めることは出来る。
これ以上の失態を晒せるものかと両手で口を押さえるヴァネッサに、青年はにこりと微笑んだ。
「あぁ、そちらの喋り方の方が楽なのかな? 先ほど『猫』に話し掛けてくれた時のように話してくれて構わないよ」
しかもしっかり聞かれていた。
けれど自分も猫の真似をするのを聞いたのだから、やっぱり立場はおあいこかしら。
どうせ聞かれているのなら今更取り繕うのもおかしな話だ。
ヴァネッサはすうと一度深呼吸をしてから口を開いた。
「えぇと、私、ヴァネッサ・デシャネルっていうだけんね、実は……」
気まずげな表情でここにいた事情を説明すると、青年は馬鹿にするでも呆れるでもなく真剣な顔で「それは難儀だ」と頷いてくれた。
それが例え社交辞令であったとしても、ヴァネッサは彼の反応に安堵した。
「確かにご婦人方は我々男性よりマナーというか、慣習に厳しいと聞く。王都の社交界はやたら品格だの歴史だのにうるさいしな。ミス・デシャネルが抱える懸念はもっともだ」
「毎回何か間違えてんかしんて冷や冷やしながらだもんで、全然緊張が解れんだよ……」
「それで『ご機嫌よう』しか言えない、と。ならば話は簡単だ。家族や屋敷の使用人以外と会話の練習をして経験を積めばいい」
青年の言葉に、ヴァネッサはそれが出来たら苦労しないと溜め息を吐く。
「まだ王都にお友達もいんのに誰と練習するだ?」
「私がいる。私は王都生まれの王都育ちで王国標準語には自信がある。練習相手には適していると思う」
「あ、あなたと……?」
「あぁ、ミス・デシャネルが心配ならば妹を紹介または同席させるよ」
確かに彼は先ほど泣き虫の妹がいると言っていた。
だが、初対面の令嬢と会話の練習と聞くと、なんだかとても難しいことのように思えてくる。
(こんなに親切な方の妹さんなら、きっと良い方だろうけど……)
そしてヴァネッサは考えに考えて、青年に会話練習の先生を頼むことに決めたのだった。
伯爵令嬢としては同じ令嬢同士の方が良いだろうが、彼はヴァネッサの方言をもう知っているし、ヴァネッサも彼が猫の鳴き真似をするのを聞いている。
それを考えると、なんとなく青年のほうがいくらかマシに思えてしまったのだ。
「そうと決まれば練習開始は早い方が良い。ミス・デシャネル。君、王立図書館に行ったことは?」
「庭園を見に行ったことなら、何度か……」
「では場所はわかるね。図書館の正面入口にいる警備員にこれを渡してくれ。わかるようにしておくから。予定はいつが良い?」
「明後日なら一日空いていたかと」
「では明後日の午後二時に王立図書館で」
そう言ってバルコニーの手すりをひらりと跨いだ青年に、ヴァネッサは慌てて声を掛けた。
「あの、お名前を……!」
「そうだった。僕はアレン。アレン・フォーゲル」
よろしく、と笑ってアレンはバルコニーの手すりから近くに生えている木に移り、するすると下へと降りていく。
思わずヴァネッサがバルコニーからその姿を目で追うと、アレンが危なげない様子で地面に降り立つのが見えた。
(身軽なところは本当に猫ちゃんみたい)
あの口ぶりでは、アレンは度々こうやって夜会を抜け出しているのかもしれない。
(そういえば渡されたコレって……)
ヴァネッサはふと手の中のハンカチに視線を落とした。
先ほどのハンカチに包むようにしてアレンから渡されたのはカフスボタンだった。
家門入りのカフスボタンは珍しくないが、ヴァネッサはそこに刻まれた獅子の紋章に覚えがなかった。
フォーゲルという家門は貴族の家名では割とありきたりなものである。王都にもいくつかその名の家門があったはずだ。
その中のどれかだとは思うが、貴族家との交流もまだ浅いヴァネッサには、彼がどのフォーゲル家の人間なのかまではわからなかった。
(帰りにお父様に聞いて……。いえ、これは秘密にしておこう)
両親に聞けばすぐに解決する問題ではある。
しかし、男性から貰ったなんて言い辛いし、そこで変な邪推をされるのは彼にとっても迷惑だろう。
どうせ会話の練習も長期間には及ぶまい。
ヴァネッサはそう一人頷いてカフスボタンをハンカチに包み直し、丁寧にしまってから顔を上げた。
「……あれ?」
ここに来た時はどうしようもなく自分が情けなくて、悲しくて仕方がなかったのに、今はだいぶ気分が楽になっている。
「ミスタ・フォーゲルのおかげかしんね」
初対面にもかかわらず、ヴァネッサの悩みに真剣に寄り添ってくれたアレンの事を思い出すと、なんだか胸の辺りがこそばゆい。
いつもよりも肩の力が抜けているのを感じ、ヴァネッサはひとつ深呼吸をした。
(大丈夫、大丈夫よ。今夜もとにかくご機嫌ようだけで切り抜ける……!)
かくして、気合いを入れ直したヴァネッサはここ最近で一番自然な笑顔で夜会を乗り切ることに成功したのだった。
相変わらず会話らしい会話までは出来なかったが、夜会後の顔がいつもよりも強張ってはいなかったらしく、ホールを抜け出していたことについて母親から追加のお小言を頂戴することは回避出来た。
今夜は夜会自体がとても盛り上がっていたようだから、単純にヴァネッサが抜け出したことに気付いていなかっただけなのかもしれないけれど。
何にせよヴァネッサは、己にしては上々の出来だったと満足して帰路についたのだった。




