第一話 孤高の白百合
長きに渡る田舎での療養を経て王都に戻った伯爵令嬢ヴァネッサ・デシャネル。
デビュタント会場に現れた彼女は、その輝く美貌でホールにいた人々を圧倒した。
若い男たちはこぞってヴァネッサと縁を繋げようと彼女のシャペロンに群がり、挨拶を許された数人が彼女にダンスを申し込む栄誉を与えられたが、ヴァネッサは相手の男を一瞥してご機嫌ようとただその一言だけを返すのみだった。
年頃の他の令嬢達のようにダンスの誘いに頬を染めるでも、はしゃいだ心を隠すために目を伏せるのでもなく、まるで女帝のような堂々とした態度と眼差しでヴァネッサはその場の空気を支配したのだった。
ヴァネッサ・デシャネルの鮮烈な社交界デビューは、瞬く間に人々の知るところとなった。
ある者は天上の美しさだと褒め称え、ある者は淑女の鑑のような落ち着いた振る舞いに感心し、またある者は彼女の口数の少なさや愛想の無さに気位が高いだけだと顔を顰めた。
ヴァネッサは目鼻立ちのハッキリした、特に目力の強い顔立ちの令嬢である。
長い睫毛に縁取られた吊り目がちの大きな青い瞳は見るからに気が強そうだし、黒檀のように黒い髪はなんだか近寄りがたい雰囲気を漂わせる。
野に咲く花の親しみやすさよりも、手を触れることすら躊躇う高嶺の花。
社交界の孤高の白百合。
それが世間のヴァネッサに抱くイメージだった。
「──お嬢様、そろそろお支度をなさいませんと……」
「……行きたくない」
とある日のこと。
デシャネル伯爵邸のヴァネッサの部屋では、ベッドにうつ伏せに寝転がったまま一向に支度をしようとしない令嬢に、メイドが大きな溜め息を吐いていた。
実のところヴァネッサは夜会もお茶会も苦手で、行きたくないと駄々をこねるのはいつもの光景である。
だが、いつものことだからといえど、予定通りに支度が出来なければ叱責されるのは使用人だ。
メイドはやれやれと頭を振って、いつものようにベッドで駄々を捏ねる主人に声を掛けた。
「今まで上手くやれたんですから、今夜もきっと大丈夫ですよ」
しかしヴァネッサは、その言葉に幼い子供のように手足をバタバタさせて抗議した。
「嫌! もう無理! 今夜こそ……今夜こそバレるわ!」
「バレたっていいじゃないですか。そんな大したことじゃありませんよ」
「大したことじゃない……?」
宥めるメイドをジロリと睨み、ヴァネッサはゆらりと上体を起こして叫んだ。
「いい? バレたら笑いものにされて、ばか恥かくに決まってるだよ? か、考えただけでも恐ろしい……。なんでファニーはそんな楽観的なこと言えるだかしん!?」
ヴァネッサは叫びながらブンブンとその辺にあったクッションを掴んで振り回すが、メイドのファニーは温く笑ってそれをいなしている。こんなことには慣れっこなので、今更この程度の癇癪では動じないのだ。
「もうやだ! おうち帰る! 王都の上品な言葉遣いとか私出来んもん!」
「はいはい、社交期が終わるまでお嬢様のおうちはここですよー」
慣れた動作でヴァネッサの手からクッションを取り上げ、ベッドの上で丸まる彼女をよいしょと抱き上げて鏡台の前に座らせ、メイドはテキパキとスキンケアから作業を始めた。
「お嬢様、王都に来ることになった時に頑張るって決めたでしょう? いつまでもわがまま言っててもしょんないじゃないですか」
「そらそうだけん、でも……」
「落ち着いて話せば王国標準語も出来るんですし、なんなら今夜もいつも通り『ご機嫌よう』だけで乗り切ればええらに、どうしていつもそんなに悲観的なんですか。社交界じゃミステリアスな孤高の令嬢とか上手いこと言われてるんですから」
「そうだけんさぁ……」
そう、ヴァネッサ・デシャネルはけして口数が少ないわけでも、お高くとまっているわけでもない。
長い田舎暮らしで身に染み付いてしまった地方訛りがなかなか抜けず、王都の洗練された社交界での方言バレが怖くて喋ることを躊躇っているだけの、小心者の方言令嬢に過ぎないのである。
「……方言バレるの怖くて未だにお友達も作れんのは、私もちょっとアレかなとは思うだけぇが……」
季節の変わり目には必ず熱を出し、何なら前日より少し気温が上下するだけで体調を崩すような子供だったヴァネッサは、デビュタントまでずっと田舎で療養生活を送っていた。
豊かな自然と滋養のある食事、適度な運動と日光浴によって今ではすっかり健康体になったが、同時に土地の言葉に親しみ過ぎて王国標準語よりも方言が身体に染み付いてしまったのだ。
母親は王都で迎えるデビュタントのためにヴァネッサに王国標準語の教師をつけてくれたのものの、一筋縄ではいかなかった。
学ぶ気持ちはあるのだが、今まで田舎で静かにのんびり暮らしていたヴァネッサは社交界というものに疎く、人混みにも不慣れだった。それ故か、大勢の人間の前に出るとどうしても緊張してしまうのである。
緊張してしまうと、猛レッスンで身に付けたはずの王国標準語が途端にあやしくなってくる。
この単語のイントネーションは王国標準語だと最後は上がるんだった? それとも下がるの?
一度そうなってしまうともうダメで、強張った表情のままご機嫌ようと口にするのが精一杯になってしまうのだ。
だからヴァネッサは、唯一自信を持って言える『ご機嫌よう』の一言だけを武器に、日々社交界で綱渡りをしている。
堂々とした視線? ただどこを見て良いかわからず、一点を見ているだけのこと。
なまじ目鼻立ちが整っていることで、相手側が勝手に都合の良い勘違いをして孤高の白百合だとか言い始めただけで、困惑しているのはヴァネッサの方である。
──これが、ヴァネッサの意図せず隠すことになった真実だ。
結局ヴァネッサは、その夜も気乗りしないままメイドの手によって夜会のために美しく着飾られ、溜め息を吐きながら両親と共に馬車に乗り込んだのだった。
「ヴァネッサ、まだ夜会に慣れないの?」
「……ごめんなさい、お母様」
「あなたもデビュタントを迎えた成人貴族なのだから、デシャネル家の一員として堂々と振る舞わなければなりませんよ。それに、そろそろあなたの婚約相手も見繕わなければいけないし……。誰か良いお相手の心当たりはないの?」
これまでの夜会でダンスのひとつもしているのだろうと母から視線で問われ、ヴァネッサは身体を縮こめて俯いた。
「ダンスはしたけん、良いお相手だなんて、そんな方いんけもん……」
「ヴァネッサ、言葉」
「ご、ごめんなさい……!」
咄嗟にこぼれてしまった方言を母に指摘され、ヴァネッサは身を強張らせた。
大体ご機嫌ようの一言だけでろくに会話もしないのだから、仲など深まるわけがない。
ビクビクとしたヴァネッサの態度に母は不満そうに目を細めたが、父がまだ王都に慣れないのは仕方のないことだと助け舟を出してくれたので、幸いにもそれ以上何かを言われることはなかった。
その日の夜会で、ヴァネッサはいつも通り数人からダンスの誘いを受けてホールで踊り、その後で両親に連れられて何組かの貴族に挨拶をした。
それが終わるとヴァネッサは両親に気付かれないようにそっとホールを抜け出して、休憩用に用意されている部屋へと向かった。
夜会という人がたくさんいる空間はやはり苦手だ。
人酔い一歩手前だったヴァネッサは逃げるように休憩室に飛び込んでバルコニーを目指す。
今日は誰か有名な貴族でも来ているのか、フロアは混雑していたものの幸いにも休憩室には誰もおらず、静かな室内にヴァネッサはホッと安堵の息を吐いた。
ホールの喧騒からも遠い静かなバルコニーに出て夜風に当たると、張り詰めていたものが切れたのか何だかどっと疲れた気分になってしまった。
(今夜もちゃんとお喋り出来そうにないし、早く帰りたい……)
大きな溜め息を零しヴァネッサは俯く。
本当は同じ年頃の女の子達と話してみたい。
けれど会話の中でうっかり訛りが出てしまったら?
洗練された王都の令嬢たちが地方訛りをどう思うか、想像に難くない。
ヴァネッサは己を育んでくれた土地の言葉が好きだが、王都の貴族は王国標準語を喋るものと暗黙の了解で決まっている。
そんな中で自分がうっかり地方訛りなど出してしまったらと考えるだけで恐ろしい。
「あぁ、私ってなんでこんな緊張しぃだかしん……。どうして授業と同じように出来んだか。これじゃあいつまで経ってもお友達すら作れんじゃん……」
家族の前や屋敷の使用人の前でなら緊張することもないので習った通りに王国標準語で喋ることが出来るのだが、他の人の前だと途端に緊張してガチガチに固まってしまい言葉が出てこなくなってしまう。
王都で暮らすと知らされた時に、これからは貴族の娘として務めを果たすと決めたのは自分自身なのに、なんて情けないのだろう。
何が孤高の令嬢、孤高の白百合だ。
あぁ、今夜もまた母にがっかりされてしまう。
父だって庇ってはくれるが、胸中では母と同じようなことを考えているはずだ。
そう思うとヴァネッサは自分が情けなくて、両親に申し訳なくて、ひっそりと涙をこぼした。
こんな私なんて一生田舎から出るべきではなかったのだ。
貴族として役に立てないのなら、今からでも修道院に入って俗世から離れるのが良いに決まってる。
ポロポロと涙を流していたヴァネッサだったが、すぐ近くで物音がしたことに気付くとパッと顔を上げて辺りを見回した。
誰かいるのだろうか。泣き顔を見られてしまったかもしれない。でもここは二階のバルコニーだ。ヴァネッサがここに来た時はバルコニーには誰もいなかったし、部屋には誰も入って来ていないのに、一体誰がいるというのだ。
注意深く辺りの様子に五感を研ぎ澄ますヴァネッサは、上の方から「にゃあ〜」と鳴き声が聞こえて目をパチリと瞬かせた。
「猫ちゃん……?」
声の感じからして多分雄の猫だ。
そうか、猫ならこんな場所にいてもおかしくはない。
お屋敷の猫かしらとヴァネッサは睫毛に涙の滴を乗せたまま、バルコニーの手摺りの方へと一歩踏み出した。
「もしかして高いところに登って降りられなくなっただかや。猫ちゃん、降ろしてあげるでこっち来るさや」
猫を怖がらせないように優しい声音で声を掛けながらヴァネッサが更に一歩手摺りに近付くのと、上からバルコニーに何かが飛び込んで来るのが同時だった。
驚いて声も出せずに硬直したヴァネッサは、バルコニーに飛び込んで来たものを確認して更に身体を強張らせたのだった。




