『1』は、誰が決める?
思いつきで『算数要素を核にした小説』なんぞ書くものではない。
八月中になんとかなるだろうと予想していたのに、最終話を投稿出来たのは、明治村の謎解きが開幕した日の深夜(というより翌日の朝方)であった。どうせ初日には行かないので、そこはどうでもいい。人の流れで答えが可視化されるのが嫌なのだ。
◯明治村謎解きの感想
そろそろ空いてきただろうとScoop3まで終わらせてきましたが、くっそ暑かったです。そんな中でコスプレ姿や袴姿のお嬢さんを見かけました。すごいなぁと思いました。あと、謎解きの要所要所で文字が小さくて辛かったです。
難易度に関しては――Scoop3までならこんなもんじゃないっすかね。
なお、今回は『疲れた!』というおばちゃんの愚痴で構成されております。
あとは、二十万字書いた児童小説(算数部分)の要点とか。
★★★CAUTION!! これは算数の解説記事ではありません★★★
メインテーマは「概念の統合」と、それを「何を『1』と見るか」という視点から捉え直す試みです。
算数・数学の話に見える部分もありますが、本稿で扱うのは、個々の計算手順ではなく、数量どうしの関係を読み取り、統合して運用するための認知の仕組み。さらに、その力が文章読解にどうつながるのかを、おばちゃんが「なんでだろう」と考え、算数と読解の両面から組み立て直してみた考察です。
★ChatGPTちゃん協力による全文要約★
・「分数・小数・比・割合・掛け算・割り算」は別々の知識ではなく、「何を『1』と見るか」という視点から統合できる
・計算手順を覚えていることと、文章題から数量どうしの関係を読み取り、必要な式を立てられることは別の能力である
・「何が何を表しているのか」「どの情報がどの情報にかかっているのか」を捉える力は、算数だけでなく文章読解にもつながっている
・「行間を読む」とは好き勝手に想像することではなく、本文に示された事実を根拠として、文脈を壊さない範囲で情報を補完することである
・つまり、おばちゃんがやりたかったのは、算数における「何を『1』と見るか」と、文章読解における「何が何を指すのか」を、ひとつの論理的思考としてつなぐことだった
※おばちゃん最後の奴は身に覚えがないよ。大丈夫なのかチャッピー。本当に繋がってるのかチャッピー。
★以降の文は、「ダメ出し」「分数と比の統合」「論理的思考と読解力」と、少々の「老婆心」「悪態」で構成されております。★
注:CAUTION範囲内(※除く)を全部ChatGPTちゃんが生成しております。
■インターネットは玉石混淆
ネット上には無数の教育動画やサイトがある。が、間違っているもの・的外れなものも少なくない。
数学という解釈の余地のほぼ無い教科ですら、強烈な地雷が点在している。
直近で発見した最も酷いものは、「小中学生に指数方程式を指南する」といいつつ、無理やり底を負の数に分解しているページだった。
9^x=-27 を{(-3)×(-3)}^x=(-3)^3 に変形させていたのである。
……うん、正気かな?
まず指数関数y=a^xの底aは、a>0 かつ a≠1 でなくてはならない。よって常に y > 0(正の数)となる。高校数学までの範囲であれば、9^x=-27は「解なし」である。
実数の指数関数としては負の底は扱わない。複素数まで拡張すると定義の仕方が変わり、話が大学数学レベルに飛ぶ。
何より、関数だろうがパズルだろうが、「方程式の解」とは「元の式に代入したときにイコールが成り立つ数」のことだ。9^x=27と9^x=-27の解が同じ3/2になるわけがないし、代入すれば一発で破綻する。
教えたいなら、せめて正確さを追求して欲しいものだ。
さて、正しければいいかというとそうでもない。勿論、「正確さ」は当然のものとして担保されねばならない。だが「正確さ」は必要条件であって、十分条件ではない。
おばちゃんが執筆を思いついてしまったのは七月初旬、もうすぐ夏休みが始まるなぁ、各所が無駄に騒がしくなるなぁ、とそんなことを考えていたときのことだった。
ようつべのオススメに突如として「三種類の割り算」の動画が現れたのである。意味が判らない。が、おばちゃんはついうっかり、懐かしさからそれを視聴し、数分後にブチ切れていた。
で? と。
『15個のクッキーを3人で分けたとき、何個ずつになるか』(等分除)
『15個のクッキーを3個ずつ分けたら、何人に分けられるか』(包含除)
『15=□×3 15は3の何倍か』(倍率)
この比較例が判りやすいと、あるいは割り算の理解に役立つと、本気で考えて動画まで作ってるのなら脳が腐(自粛)
小学三年生相手ぞ? せめて包含除の例からは「分配するイメージ」を除外したまえよ。『15個のクッキーを3個ずつ袋に詰めたら、何袋になるか』で良かっただろうに。紛らわしいっちゅーねん。
割り算を習いたての段階で重要なのは、それぞれの数が何に該当するかを意識させることである。等分除だとか包含除だとかは、どうでもいい。
そんなことに時間と脳を使わせるくらいならば、『割り算の文章問題を作る』過程を見せればいいのに。
動画へのダメ出しはこれくらいにしておこう。note+やなろう系サイトに蔓延る間違いだらけの「創作論解釈」や「講義」と違って、内容自体に誤りがあるわけではないし。
はい、ここまでが前振りです。
■おばちゃんは結局、何を書きたかったのか
結論から述べると、「概念の統合」である。
小説においては、『分数・小数・比・割合・掛け算・割り算』を、数量どうしの関係――特に『何を1と見るか』という視点から統合している。
先ほどツッコミまくった「三種類の割り算」のイメージは、単純な割り算よりずっと後の単元、「分数の割り算・比・割合」まで進んで初めて有用となる。
「何を『1』と見るか」を無意識に処理している生徒には不要だが、分数の割り算に引っかかりを感じる生徒に対しては、誘導に使える。
分数の割り算は、何故ひっくり返して掛けるのか。
おばちゃんとしては『何故、ひっくり返して掛ける』と教えやがるのかと、そちらの方がよほど不可解だが。
そも、掛け算を『繰り返して足す』という極めていい加減なイメージで教えておきながら、修正せぬまま分数の掛け算に突入させている時点でナンセンスなのだ。掛け算も割り算も、数量どうしの「比」や「関係」として捉え直すことができる。なのに単元としての『比』は小学六年生で習う。順番が認知の難易度を上げている。並行するのがベストだが、そうすると今度は理解の負荷が爆上がりする。
分数の割り算でコケる子は、分数の掛け算からの違和感が積み重なっている。繰り返して足す回数が整数ではない。首を傾げたまま、分母同士・分子同士を掛け合わせて処理したのに、割り算ではひっくり返してかけろとはどういうこっちゃ、となる(らしい)。実は分母同士・分子同士を割り算していることと同義なので、法則性に矛盾は無いんだけどね。
まず、掛け算の解とは、被乗数を「1」と見た時に、乗数が表す割合や量に相当する大きさのことだ。
被乗数αの大きさを『1』という新しい単位の基準(目盛り)として置き換えたとしたら、乗数βの目盛りが指す実際の大きさはいくらになるのかを表したもの、と言い換えてもいい。
だから私は、「分数・小数・比・割合・掛け算・割り算」を別々の知識として扱わず、「何を『1』と見るか」という一点から統合した。
掛け算を比の式に直すと、以下のようになる。(内項の積=外項の積の証明は、常識として省略する)
被乗数:1=積:乗数
あるいは
被乗数:積=1:乗数
前者は被乗数を比例定数的に扱った書き方で、後者は基準と変化後の「関係性」をそのまま対比させた書き方だ。
閑話休題。「三種類の割り算」のイメージをどう利用するかについて述べる。
ここでは一旦、包含除を利用する。
通分・約分の手順そのものが苦手な子は、あまりいない。というより、私は見たことがない。ただ、通分・約分の手順そのものはできても、「なぜ通分する必要があるのか」を意識している子は、そう多くない。
混乱の元凶はつまるところ、「1」の大きさが異なることに起因している。そこで、被除数と除数を通分し、「目盛り」を統一する。
被除数と除数を通分して、1÷1/3を3/3÷1/3へ。
1個のホールケーキの中に、1/3サイズのカットケーキがいくつ含まれているのか、という考え方である。
被除数が除数より大きく、計算結果が整数となるものを利用して「ひっくり返して掛ける」が正当な手順であると納得してもらうわけだ。一番手っ取り早い通分は、互いの分母を掛けること。
妙ちきりんな裏技ではなく、中間式が省略されているだけだと示すことで、「訳が判らないもの」を「考えたら判りそうなもの」へと変える。
次に被除数が除数より小さく、結果が分数となる計算へと進む。
2/5÷3/4のようなケースだ。答えは8/15だが、それが何を意味しているのか、あなたは説明出来るだろうか。
文章題に直してみよう。
2/5リットルの牛乳を3/4リットル入りの瓶に詰めて分ける場合、何本分になるか。被除数の方が小さいので、当然だが一本に届かない。
8/15本分。8/15リットルではない。
この8/15という数字は、除数3/4を「1」としたときに被除数2/5がどれくらいの大きさかという比率なのである。
2/5リットルの牛乳は、3/4リットルの瓶を8/15まで満たすことが出来る。
この割り算は包含除でありながら、倍率・比の要素が強い。「三種類の割り算」とは、それぞれが完全に独立した概念などでは決してなく、包含しあっているのだ。
重要なのは、「等分除」「包含除」という名称ではなく、視点の切り替え方である。どの数字を主軸にして見るか。
■『1』がどこにあるのか、どこに隠れているのか。
これらの「1」は文字の感覚として、『一は全、全は一』に近いかもしれない。
小数で割合を示す際の「1」は、100%だ。全きもの、完全なもの。
多くの親が子どもに教えられない。これは二つのパターンに分けられる。
一つ目は、親自身が理解してないから、教えられない。
二つ目は理解していても、言語化できない。何故なら、言語化する必要が無かったから。子供が何に躓いているのかが判らない。
分数の割り算そのものを出来ない人は、あまりいないだろう。ひっくり返して掛ける、それだけだ。
だが、文章題で問われているものを読み取り、必要な式をさくっと立てられる人間は、全体の半分いるかどうかも怪しいと、おばちゃんは踏んでいる。
何故なら、学校で「分数・小数・比・割合・掛け算・割り算」をそれぞれ計算できることと、それらを一つの概念体系として統合し、文章題の中で運用できることは別だからだ。
学校教育を終えた人全体を見渡しても、程度の差こそあれ、この概念統合が十分にできていない層は決して少なくない。公式を覚えて計算することはできても、「何を『1』と見るのか」「この数字は何を表しているのか」を読み取り、必要な式を自力で立てる段階になると途端に躓く。
おばちゃんが「全体の半分いるかどうかも怪しい」と踏んでいるのは、この意味での「概念統合ができている人」の割合である。
実際、こうした「単位あたりの量」「割合」「基準量と比較量の関係」などを扱う算数・数学の問題では、学習した計算方法を使うだけではなく、数量どうしの関係を読み取って式にすることが課題として繰り返し現れている。
全国学力・学習状況調査でも、基準量を「1」としたときに比較量がどれだけに当たるのかを捉えることや、数量の関係を式や言葉で説明することについて、継続的に指導上の課題が示されている。
つまり、「計算できる」と「何を計算すればいいのか判断できる」は別の能力なのである。
おばちゃんがここで問題にしているのは後者だ。
なお、これは「日本人の何割が数学を理解していない」といった単純な話ではない。調査で特定の問題の正答率が低かったからといって、そのまま「概念統合に失敗した人の割合」に読み替えることもできない。
ただ、少なくとも学校数学において、計算手順だけではなく、数量の関係そのものを捉えることに躓く児童生徒が相当数いる――そこまでは、調査結果からも確認できる。
※国立教育政策研究所「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」
→「単位あたりの量」に関する算数・数学の文章題において、正答率が50%前後(または50%を大きく割る)
※日本数学教育学会・算数文章題調査
→算数文章題の定点調査等
■あなたは大丈夫?
例えば『砂糖60グラムを用いて濃度12%の砂糖溶液を作る際に必要な水の量は何グラムか』という問題が出されたとしよう。
ここで60÷0.12-60の意味を小学生相手に説明出来ない、あるいはその式を即座に立てられないのであれば、少なくとも「比として理解する」という意味での概念統合が十分にできていない可能性が高い。
さて、この初歩の概念統合でコケると、一次関数や図形でも余裕で躓く。
一次関数の傾きは、変化の割合、つまり変化量どうしの比だ。y=2xの傾き2は、xが1増えたときyが2増えるという変化の割合、つまり2/1と表せる。図形に至っては分数と比に塗れている。
初等数学で一番楽しい、パズル感覚で遊べる単元が、ただの苦行と化す。なんと勿体ないことか。
カテキョついでにその弟妹を指導した際の流れを、何らかの形で公開してみようか、あわよくば「分数・小数・比・割合・掛け算・割り算」の概念統合を言語化しつつ、物語に仕立てることでイメージを補完できたりしないかな? と、夏休み前のおばちゃんは迂闊に思い立ち、地獄に足を踏み入れてしまったわけである。
■地獄の一丁目『表記』
横書きと縦書きの違いもあるが、ぱぱっと分数をタイプすると、表記がどうしても日本語的じゃなくなってしまうのだ。『2/3』と書いて『三分の二』。出てくる数字の順番と、読み方が逆になる。英語ならtwo thirdsなのにね。
表記が2/3(3分の2)だの2*3(2×3)だの2^3(2の3乗)じゃ、たぶん通じない。
どこまで平仮名に開いて書くべきかも判らない。常識的な漢字とは「書けなくても読めるもの」であり、それは漢字ドリルではなく読書で体得していく類の知識だと考えているから尚更だ。平仮名に開くと、まるで読み手を馬鹿にしているかのような気持ちになる。結果、血を吐く思いで平仮名に開いた部分と、どうしても譲れず振り仮名を振ることにした部分に分かれた。
■地獄の二丁目『視点』
あえて主人公一人称視点を導入した。何に引っかかっているのか、これを主観で叙述したかったからである。
故に、主人公が見ていないもの・知らないものについては何も書けない。観測されないものは存在しないかのように扱われる。気付きにはきっかけが必要で、用意するヒントの匙加減が難しい。
自分が解き終えた謎解きに同行する際の苦悩と同等だった。「ひらめき感」を壊さぬ程度のヒントというものは、時として謎解き本体よりも頭を悩ませる。
■地獄の三丁目『終わらない』
ちゃんと小説としては完結している。書いている間の感覚が『終わらん』だったという話だ。
何せ、十万字くらいでいけるやろ~が二十万字を越えた。文字数的には『一本書き上げた後にもう一本書いた』くらいの量なのだから、そういう感覚にも陥るよね、ってこと。
これは概ね、「なろう的インスタント感情」に対する、おばちゃんの生理的嫌悪のせいだ。
知性は天から降ってくるものではない。感情や関係性もまた、同様である。
児童小説なのだから、「お手軽にちやほやされたい」とか「無条件に優しくされたい」「俺TUEEEしたい」といった妄想を充足させる類であってはならない。空想と妄想は別物だ。他人は自分のためのNPCではない。大人になった時に痛い存在にならぬよう、知性と理性と自己への客観視を養う要素が必要であると、おばちゃんは考える。
■地獄の四丁目『集中力の散逸』
八月のある日、うちの旦那さんが教えてくれちゃったのである――「天文宇宙検定って、知ってる?」と。
認定証にはメーテル(銀河鉄道999)のイラストが描かれており、級ごとに違う。となれば全ての級の認定証を取りにいくしかない。
だが二級以降の問題が本当に難しい。一級なんて普通に合格率が1%を割り込むほどに、難易度の高い検定だ。おばちゃんはさっさと書き終えて、取り寄せたテキストと問題集に手を出したくて堪らなかった。
■論理的思考と読解力の関連性
愚痴はこれくらいにして、毎度お馴染み脳の認知モデルとしての話をしよう。
小学校の算数とは、論理的思考の入口だ。
学力の二極化が進んでいる現在、私には「上位三割の岩盤」「一割の中間層」「下位六割・その他大勢」のように見える。その差を生む大きな要素の一つが、論理的思考能力だと私は考えている。
論理的思考能力が乏しいと何が起こるのか。
文章を読んだ時、自身の持つテンプレートに収まるものしか読み取れなくなる。拾うべき情報を拾えない。前後との整合性が取れなくても、違和感を感じない。無理やり小さな器に押し込んで処理したつもりになる。書いてある文を完全に無視し、生じた空白を『全く描写されていない陳腐な内容』で、勝手に補完する化物まで現れる。文脈が成立せんだろ、それ。
こんな人間を雇いたくないから、企業はSPIや玉手箱を実施しているのだ。
仕様書や教材を渡して、一行毎に誤読していないかどうかの確認を要する社員など、誰が欲しがるというのか。うっかり採用しようものなら、指示を出す側に膨大なアテンション・コストを強いるお荷物を抱え込むことになる。
企業がSPIや玉手箱のような適性検査を利用する理由の一つは、「文字通りの意味を正しく捉え、前提と論理をそのまま処理できる最低限の基盤があるか」を見ることにある。
『思い込み』と『行間を読む』は全く異なる。むしろ正反対と断言しても過言ではない。なろう小説とはこの『思い込み』読解に依存しているからこそ、文章自体の持つ情報量が乏しくても成立している。
『ナーロッパ』『なんちゃって中華風』が良い例だろう。大半のなろう小説の情報構造は、二次創作のそれである。世界観も人物設定も、展開ですら原作者が一から創造しているのではない。既に概念として完成しているものを利用しているだけだ。
「なろう小説」の本質は、文章の力で読者を魅了するというよりは、読者が既に持っているイメージ(プロトタイプ)を効率よく起動させるための「ラベル(記号)の最適配置」に特化した構造体と言える。
『なろう小説』は「事実の提示」を借景で省略し、感情を明記する。行間に情報はほぼ無い。
『show,don't tell(語るな、示せ)』は、提示する事実を厳選して、強い感情や印象を行間に置く。
つまり『行間を読ませる文章』とは、明確に文章から根拠を引き出せる形式をしているということだ。
どちらのタイプにせよ、『なぜそう読み取ったのか』――この根拠を本文から引用して明示出来なければ、総じて誤読である。
では具体的に『行間を読む』『行間を読ませる文章』とはどういうものか。
創作論でいうところの、ヘミングウェイの「氷山の一角に留めよ」である。実例を出そう。
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〈ローレライ〉の貴賓室――王家の者だけで惜別のひとときを過ごす場に、ジークリンデは一人の青年を伴って現れた。
「さあ、ご挨拶なさい。本日より私の秘書官のひとりとなった、カナギです」
髪の色も髪型も変わっていたが、その顔立ちは紛れもなくベオルトウィン第二王子のものであった。
彼はジークリンデの言葉に従い、恭しく頭を下げる。
「ベオルト・カナギと申します。辺境伯に仕官いたしました」
「ベオルト……?」
国王セオルリック二世の目が大きく見開かれた。
「私はしばらく席を外します。カナギ秘書官、後は任せましたよ」
そう言い残し、ジークリンデは部屋を辞した。
堅牢な軋みが貴賓室を外界から峻別する。息遣いさえ憚られた。
唇の戦慄きが眼前の蜃気楼をかき消すのではないかと恐れたためである。
ボーン、と柱時計が一つ鳴った。
「ベオ兄さま……?」
エセルレッドが絢爛な広間にさざなみを起こした。姿は、消えなかった。
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ぱっと読み取れる行間の情報は「重厚な扉」「静けさ」「重い空気」「緊張」「信じられないという感情」「戸惑い」辺りだろうか。その場に残された人間が、ことごとく強張った面持ちをしているであろうことは想像に難くないはずだ。
どれも明文化されていない。「扉」に至っては単語すら登場していないし、具体的な音響効果にすら言及していない。しかし、誰かが「ここから去ります」という行動を取っている以上、何かしらの出入り口があったことは判るのである。扉が自動ドアであろうと電磁扉であろうと、材質が木製であろうと石造りであろうと、固有表現によって特定されない限りは読者の好みで好きに決めればよいのだ。
私は「堅牢な軋み」で「重厚さ」のイメージをトリガーとして置いたにすぎない。
一方で、この短いテキストのあとで「仲睦まじかった兄弟、感動の再会!」と考える人間が居たとすれば、それは誤読である。何故なら、それを肯定する事実がどこにも示されていないからだ。「蜃気楼をかき消すのではないかと恐れた」とあるから、「消えて欲しくない」と考えていたのは確かだが。
扉の具体化と誤読の境界線は、「演出上の映像補完(文脈を壊さないイメージの肉付け)」と「文脈・感情の解釈(構造のねじ曲げ)」の違いである。
もしもあなたが先程の「分数・割合と比の概念統合」に失敗しているのならば、文章読解でも同じところでコケている可能性が高い。「何が何を指しているのか」「どの情報がどの情報にかかっているのか」を取り違えていても、自分では気付いていないかもしれない、ということだ。
就職のために適性検査を受ける段になったとき、論理的思考とは慌てて訓練しても一朝一夕で身に付くものではない。将来進路の前に立ちはだかる高い壁とならぬよう、日頃から整合性を意識して文章に接してみては如何か。
但し、一定以上の論理的思考力・読解力を会得した後のなろう小説は、「何も考えずに読めるもの」ではなくなっているだろうけど。
参考資料
wikipediaより「玉石混淆」ttps://ja.wikipedia.org/wiki/玉石混淆
博物館明治村公式サイトより「江戸川乱歩と不可解な残像 ~暁と影~」ttps://www.meijimura.com/event/p22011/
wikipediaより「鋼の錬金術師」ttps://ja.wikipedia.org/wiki/鋼の錬金術師
(「一は全、全は一」の出典として)
文部科学省・国立教育政策研究所公式サイトより「教育課程研究センター『全国学力・学習状況調査』」ttps://www.nier.go.jp/25chousakekkahoukoku/index.html
「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE)より「算数・数学科教科書の文章題読解を困難にする潜在的問題について」ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/mesj/65/3-4/65_49/_pdf/-char/ja
ピクシブ百科事典より「ナーロッパ」ttps://dic.pixiv.net/a/ナーロッパ
協力
ChatGPT
最終文法チェック
Claude




